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第36話 復讐の炎と乙女の口付け



 漆黒の闇を切り裂くように、赤の国の屈強な軍馬が街道を爆走していた。

 目指すは、カルディア王国西部に位置する開拓村。突如として国境を越えて現れた魔獣の群れに強襲され、無力な村人たちが人質に取られているという絶望の地である。


「……ハァッ、ハァッ、ハァッ……!!」

 軍馬の手綱を握りしめる鈴木ケンの呼吸は、限界まで早鐘を打っていた。夜の冷たい風を顔に受けているというのに、彼の全身からは滝のような汗が噴き出している。

 彼の脳裏には、現在進行形で西の村で起きているであろう悲劇の光景ではなく、五年前の『あの夜』の記憶がフラッシュバックしていた。


 この異世界に転生した直後。ケンを出迎えてくれた温かいカナン村の人々。

 彼らが、青の国の陰謀によって放たれた魔獣――ハイオークの群れに蹂躙され、逃げ惑い、血溜まりの中で息絶えていったあの凄惨な光景。村の少女の絶望に満ちた泣き叫ぶ声が、ケンの鼓膜をガンガンと叩き続けている。


「おいケン、落ち着け! 手綱を握る手に力が入りすぎているぞ! お前の心拍数は今、致死量の一歩手前だ!」

 ケンの右肩に爪を立ててしがみつく不死鳥フェニクスが、耳元で鋭い声で忠告した。

「……うるせえ。俺は、アイツらだけは絶対に許さねえ。2年前の借りを、村のみんなの無念を、一匹残らずあいつらの血で返してやる」

 ケンの声は、もはや人間のそれではなく、地を這うような呪詛に変わっていた。


「ケン!! フェニクスの言う通りだ、少し頭を冷やせ!!」

 隣を並走する漆黒の重装甲を纏ったタナカ・マチが、心配そうに怒鳴った。

「ドンジャラは怒りに任せて勝てる遊戯じゃねえ! 相手はただの獣じゃない、知能を持ったハイオークのつがいだ! その精神状態メンタルで卓に座れば、足元をすくわれるぞ!!」


 しかし、赤の国最強の戦乙女であるマチの言葉すら、今のケンには届いていなかった。

 彼の瞳孔は完全に開き、ただひたすらに前方の闇――血の匂いが漂ってくる方角だけを、修羅のような眼差しで睨みつけていた。


     * * *


 明け方。

 東の空が微かに白み始めた頃、ケンとマチの乗った馬は西の開拓村へと突入した。

 しかし、そこは既に目を覆いたくなるような地獄絵図と化していた。


「ひぃぃぃっ……! 助けて……誰か……!!」

「いやだ、食べないで……お願い……ッ!!」


 村の中央に広がる広場。

 本来なら豊穣の祭りが行われるはずのその場所で、百人近い村人たちが、太くうねる魔力帯のようなもので縛り上げられ、恐怖に震えながら身を寄せ合っていた。

 その周囲を、豚の頭と筋骨隆々の体を持つ下級のオークたちが、卑猥な涎を垂らしながら取り囲んでいる。

 そして、広場の中央に暴力的な力で設えられた巨大な石の卓の前に、諸悪の根源である二体の魔獣が腰を下ろしていた。


「……遅いぞ、人間の戦士ども。我らの『食事ドンジャラ』の時間が待ちきれないではないか」

 一体のハイオークが、地鳴りのような重々しい声で告げた。

 青の国の蠱毒でケンが戦い、倒した個体とは明らかに違う。体躯は三メートル半と規格外に巨大だが、最も異常なのはその『頭部』だった。脳が異様に肥大化し、頭蓋骨が王冠のように盛り上がっているのだ。その黄色く濁った瞳には、野獣特有の凶暴性よりも、冷酷で狡猾な知性と計算が宿っていた。


「フシュルルルル……ねえアナタ、早くその人間たちを平らげてしまいましょうよ。アタシ、もう我慢できない。栄養たっぷりの人間の若い肉を食べて、早くアナタの強くて優秀な子供を、この村で千匹くらい産みたいのォ……!」

 その隣に侍るのは、巨大な雌の魔獣――『オーククイーン』だった。

 醜悪な豚の顔を持ちながら、その体つきは不気味なほどに豊満で、何十個もの巨大な乳房が垂れ下がっている。欲望と食欲、そしておぞましい繁殖欲の塊のような存在だった。


「……テメェら」

 ケンは馬が完全に止まる前に飛び降り、腰の剣を抜くことすら忘れて、ふらふらとした幽鬼のような足取りで石の卓へと向かった。

 その目から理性という名の光は完全に消え失せ、底なしの殺意の泥に沈み込んでいる。


「ケン!! ストップだ! 私が先に状況とルールを確認――」

 マチが危険を感じて止めに入ろうとしたが、ケンはそれを乱暴に振り払った。


「どけ、マチ。……こいつらは、俺が殺る」

 ケンは卓の向かいに座り、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりの力で鳴らした。


「ほぅ? 貴様がカルディア王国の代表か。ひ弱ななりをしているが、ずいぶんと血の気が多いな。ルールは分かっているな? 我々が勝てば、そこにいる村人から順に十人を『苗床』として頂く。貴様らが勝てば、十人を解放してやろう。命を賭けた、神聖なる天律の遊戯だ」

 冠頭のハイオークが、分厚い唇を歪めて不敵な笑みを浮かべた。


「――洗牌シーパイだ、クソ野郎。全部毟り取って、テメェらの頭蓋骨を叩き割ってやる」

 ケンの呪いのような呟きと共に、村人たちの命を賭けた絶望の死闘が始まった。


     * * *


 ジャララララララッ!!

 重い石の牌がぶつかり合う音が響いた直後から、ケンの打牌は狂気に満ちていた。


「ドンジャラッ!!」

 ケンは、自分の手牌が最低限の役で揃うや否や、最速で上がりを宣言した。

 しかし、その役はあまりにも安い。相手の動向も、山の残り牌の推測も、隣に座るマチとの連携も一切無視した、ただの直線的で無謀な速攻。


「ちっ……! ケン、お前何やってんだ! 今のは私のアシストがあれば、確実に高打点の同盟役が作れただろ!!」

 マチが卓を叩いて声を荒げる。


「うるさい! 点数なんてどうでもいい、とにかく俺がこいつらを叩き潰す!!」

 ケンの視野は完全に極小の点になっていた。

 三十九年間、彼を支え続けてきた最大の武器――感情を切り離して盤面を俯瞰する『物流倉庫の在庫管理(全牌記憶)』のシステムが、復讐の炎によって完全に熱暴走し、焼き切れているのだ。

 敵を早く倒すことだけを急ぐあまり、マチの盤面コントロールすら邪魔に感じ、彼女の上がり牌(白星)すらも強引に自分の手で潰しにかかっていた。


「……ククク。愚かな人間だ。怒りで目が曇り、味方の手足まで縛るとはな。これだから人間は脆弱なのだ」

 冠頭のハイオークは、その状況を冷徹に見逃さなかった。


「フシュルルル! 隙だらけよォ! アタシの子供たちのエサになりなァ!」

 クイーンオークが、ケンの強引な打牌によって生じた致命的な死角を突き、強烈なカウンターを叩き込んだ。


「ドンジャラ! 冥界の宴、二十点!」

「なっ……!?」


 ケンの単調で強引な攻めは、知将であるハイオークの完全に手のひらの上だった。

 ケンの暴走を利用して必要な牌を安全に集め、マチの防御網を巧みにすり抜けて、確実に高打点を決めてくる。


「ゲームセットだ。まずは我々の勝利。約束通り、極上の若い女から十人頂こう」

 ハイオークが残酷に宣告する。


「いやああああっ!! 助けてぇぇぇッ!!」

 村の若い娘たちが、クイーンオークの背中から伸びた触手によって絡め取られ、宙に吊り上げられる。


「や、やめろ……ッ!!」

 ケンが椅子から立ち上がり、手を伸ばそうとする。

 その瞬間、2年前の記憶が鮮明にフラッシュバックした。

 泣き叫ぶカナン村の少女。炎の中で引き裂かれる悲鳴。彼女を助けられず、ただ物陰に隠れて震えることしかできなかった、圧倒的に非力な自分。


(……また、俺は。……また、目の前で助けられないのか……!! なんで、どうして勝てないんだ……!!)

 ドンジャラの牌を握るケンの手が、ガタガタと激しく震え始めた。

 怒り。そして、それ以上に巨大な「負ける恐怖」「再び全てを奪われる恐怖」が、彼の内側から一切の気力と理性を奪っていく。


「……ケン殿の精神メンタルが限界を超えました! あのままでは、次のゲームで自我が完全に崩壊します!」

 フェニクスが、絶望的な声を上げた。

 このままでは、村人はおろか、ケンとマチまで魔獣の餌食になる。


 その、絶体絶命の瞬間だった。


 ガシィッ!!

「……え?」


 ガタガタと震えるケンの胸ぐらを、マチの分厚く逞しい両腕が乱暴に掴み上げた。

 そして。


「んんっ……!?」

 マチは、ケンの唇に、自らの唇を思い切り押し当てた。

 ただのキスではない。敵である魔獣たちが目を丸くし、縛られた村人たちすらも恐怖を忘れて呆然とするほどの、情熱的で、野性的で、息もつかせぬほどの強烈なディープキスだった。


 ケンの脳内が、あまりの衝撃と唇から伝わる熱で、一瞬にして真っ白になる。

 復讐の炎も、過去の恐怖の記憶も、暗いトラウマも。

 すべてが、マチの力強い体温と、強引にねじ込まれる舌の動きによって強制的にシャットダウン(初期化)された。


「……ぷはァッ!!」

 十秒近いキスの後、マチは唇を離し、酸欠で呆然とするケンの目を真っ直ぐに見据えた。

 唇から一筋の銀糸が引いている。


「……目ぇ、覚めたか。この大バカ野郎」

 マチの顔は、昨日の「乙女の憂鬱」など微塵も感じさせない、最高に熱く、最高に美しい赤の戦乙女の顔だった。


「マチ……俺は……」

「過去に何があったかは知らねえ。どうせ一人で抱え込んで、一人で勝手に絶望してたんだろ。だがな、お前は今、一人で戦ってるわけじゃねえんだよ!!」


 マチは、ケンの背中を張り手でバンッ! と叩いた。

「赤の国の軍人を舐めるな! 私がお前の背中を死守してやる! お前がどれだけ無様に牌を捨てても、私が全部拾ってやる! だからお前は、一人で背負い込まずに、いつも通りのあの冷てえ目で、盤面のすべての牌を掌握コントロールしろ!!」


 マチの魂からの熱い声が、ケンの脳髄の奥底まで響き渡った。

(……そうだ。俺は、もう一人じゃない。背中を預けられる、強くて頼もしい仲間がいるんだ)


 ケンは、深く、長く深呼吸をした。

 目を開けた時。彼の瞳から、復讐の濁りと恐怖の震えは完全に消え去っていた。

 四十年間の物流倉庫で培った、あの冷徹で、機械のように正確な『全牌記憶(棚卸し)』のシステムが、最強のパートナーの熱によって完全に再起動リブートしたのだ。


「……悪かった、マチ。ここからは、俺たちのペース(業務時間)だ」

 ケンが牌を握る。その指先に、もはや迷いも震えもなかった。


「……フン、人間同士で下品な真似を。虚勢を張ったところで手遅れだ。次で全員食い殺してくれる」

 冠頭のハイオークが鼻を鳴らす。


「――洗牌」

 ケンの静かな声で、第二回戦が始まった。


 盤面の空気は、一変した。

「……そこだ」

 ケンは、ハイオークが切り捨てた危険な牌を、マチの上がり牌へと完璧に誘導する。

 怒りを捨て、完全に盤面を俯瞰するようになったケンは、無敵だった。ハイオークの誇る知略すらも、ケンの頭脳(巨大物流倉庫)の中では、ただの一つのデータとして処理されるに過ぎない。


「ドンジャラ!! 烈火陣(赤純正)、十点!!」

 マチが豪快に上がりを叩きつける。


「なにッ!?」

 ハイオークが驚愕する。先程までの単調な攻めとは完全に違う、隙の無い鉄壁の防御と、マチとの阿吽の呼吸。


「フシュルルッ! 舐めるな人間ォォッ!!」

 クイーンオークが苛立ち、強引に高打点のリーチをかけるが、ケンはそれすらも完全に読み切っていた。


「……その牌は、既に俺の倉庫(手札)の中だ」

 ケンが、静かに、そして力強く『白牌(勇者)』を卓に打ち据えた。


「ドンジャラ。……『三家の誓い』、さらにマチのアシストを含めた複合役。……五十点」

 圧倒的な点差。

 ハイオークとクイーンオークの手牌は、ケンの完璧なコントロールによって完全に機能不全に陥らされていた。


「バ、バカな……! 我々の計算を、ことごとく上回るだと……!?」

「イヤアアアッ! アタシの子供たちがァァッ!!」


 勝敗は完全に決した。

 天律の絶対ルールに従い、敗北した魔獣たちの巨体は、光の粒子となってボロボロと崩壊し、虚空へと消え去っていく。捕らえられていた村人たちも蔦から解放され、広場に泣き崩れた。


「……終わったな」

 ケンは、長い息を吐き出して椅子に背を預けた。

 五年間、ずっと心を縛り付けていたカナン村のトラウマ。それが今、自らの手による確かな勝利と共に、浄化されていくのを感じた。


「マチ。……お前のおかげだ。お前が正気を取り戻させてくれなかったら、俺は過去に呑まれて死んでいた。……本当に、感謝してる。お前は俺にとって、間違いなく最高のパートナーだ」

 ケンは、隣に立つマチを見上げて、心の底からの純粋な感謝の笑みを向けた。


 その瞬間。

 ドッッッカァァァァァァァァンッ!!

 マチの脳内で、ファンファーレと教会のウェディングベルが盛大に鳴り響いた。


「パ……パートナー!?」

 マチの顔が、全身の血が沸騰したかのように真っ赤に染まる。


(ケ、ケンが! あの朴念仁のケンが、みんなの前で、しかも熱烈なキスの直後に私を『パートナー(人生の伴侶)』って呼んだ!? これはもう、実質的な公開プロポーズじゃねえかァァァッ!!)

 マチの脳内では既に、純白のウェディングドレスを着た筋肉隆々の自分と、タキシード姿のケンが腕を組んでヴァージンロードを歩く幻影が展開されていた。


「アハハハハ!! ああ、任せとけマイハニー!! 私たちは今日から、魂も肉体も一つになった最高の夫婦パートナーだァァァッ!! 今夜の地下室のベッドは、最高にぶっ壊れるまで愛し合おうぜェェェッ!!」

「えっ? いや、ちょっと待て、そういう意味じゃ――」


「英雄様! 副団長様! 本当に、本当にありがとうございました!!」

 ケンの必死の弁明は、助けられた村人たちの歓喜の涙と感謝の言葉によって完全に掻き消されてしまった。

 ケンは引きつった笑顔を浮かべながら、マチの強烈なハグ(実質的な熊殺しの絞め技)の中で、今夜の自身の貞操の危機を悟るのであった。


     * * *


 その頃。

 狂喜に沸く開拓村の惨状から遠く離れた、険しい岩山の上。

 雲を突くような高所から、眼下の村の様子を見下ろしている二つの影があった。


「……終わったようですね。魔王軍の残党でも知能の高い冠種のハイオークを当ててみましたが、やはりあの程度の盤面ドンジャラでは、彼の『深淵』を覗くことはできないか」


 長い紫黒の髪を夜風に揺らしながら、冷酷な金色の瞳で村を見つめているのは、紫の国(ヴェイル共和国)の実質的支配者――ヴェイル・ノクスだった。


「……そうね。あの程度の駒じゃ、新しい裁定者様の実力を測るには物足りないわ」

 ヴェイルの隣で、透き通るような、しかしどこか虚無を孕んだ声を出したのは、一人の『少女』だった。


 彼女の容姿は、このファンタジー世界には全くそぐわないものだった。

 黒いセーラー服に、赤いスカーフ。足元はローファー。それは紛れもなく、現代日本の中学生の制服である。

 五百年という途方もない時間が経過しているはずなのに、彼女の姿は十四歳の少女のまま、一切の老化を見せていない。ただ、その白い肌は血の気がなく、深い漆黒の瞳の奥には、長すぎる時間を生き抜いてきた者特有の『狂気』が静かに渦巻いていた。


 彼女こそが、ヴェイルの最大の側近であり、紫の国の最高幹部。

 そして五百年前、田中勇と共にこの世界に召喚されながら、歴史の記録から完全に抹消された『謎の10人目』――名を、サトウといった。


「どうですか、サトウ。貴女の『同郷の人間』であり、貴女が愛した田中勇の席を継いだ男の戦いぶりは」

 ヴェイルが静かに問う。


「……気持ち悪いわ」

 サトウは、感情の読めない声で吐き捨てた。

「あの四十歳の男……鈴木ケン。イサムくんの『白牌』をあんなに無機質に、ただの在庫管理のデータみたいに扱うなんて。……イサムくんが作ったこの優しい世界に、あんな枯れた大人は必要ないわ」


 サトウは、セーラー服の胸元をギュッと握りしめた。

「半年後の模擬・天律戦。私が直接、あの男を壊してあげる。……イサムくんの隣に立つ資格があったのは、私だけだもの。エルフのティアでも、魔法使いのエルミアでもない……私だけなんだから」


 少女の狂気を孕んだ笑みが、三日月のように深く吊り上がった。

 赤の国の熱狂と勝利の裏で。

 世界のルールを根底から覆そうとする紫の国の暗躍、そして五百年の愛憎を抱えた転生少女サトウという恐るべき影が、確実に鈴木ケンへと忍び寄っていた。


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