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第35話 建国記念日と迫り来る足跡



 鋼都バルガンの空は、朝から抜けるような青空だった。

 しかし、街を包み込む熱気は、真夏の太陽のそれすらも遥かに凌駕していた。

 街中の至る所に、カルディア王国の国章である『燃え盛る大剣』と、ドワーフ族の『交差する鎚』を描いた鮮やかな真紅の旗がはためいている。大通りには屋台が立ち並び、様々な祝祭の飾りが街を彩っていた。


 今日この日は、赤の国において最も神聖で、かつ最も熱狂的な一日。

 五百年前、異世界から召喚された裁定者・田中勇の孫である『タナカ・リュウ』が、後継者争いに揺れる白の国(アルカナ王国)から離脱し、東部山岳地帯のドワーフ族と同盟を結んで、このカルディア王国を建国した日。

 すなわち、『建国記念日』である。


 国民の休日に指定されたこの日、午前中のパレードを終えた昼食時、王城前の大広場では赤の国における最大の目玉イベントが始まろうとしていた。


「おおおおっ! 匂ってきたぞ! タナカ王家秘伝の御馳走だァ!」

「急げ! 今年の配給の先頭はサトシ王ご自身だそうだぞ!」


 広場に並べられた数十個もの巨大な鉄鍋。その下で魔力石の炎が赤々と燃え盛っている。

 グツグツと煮立つ鍋から風に乗って漂ってきたのは――醤油と砂糖、そしてダシが複雑に絡み合った甘辛い匂い。さらに、薄切りの牛肉と飴色に透き通った玉ねぎが煮込まれる、暴力的なまでに食欲を刺激する香りだった。


「ほれ、どんどん食え! 田中の血を引く我が国の民よ、腹の底から力を蓄えるのだ!!」

 豪快な笑い声を上げながら、サトシ王自らが巨大なしゃもじを振るい、国民が差し出すどんぶりに白米と肉をたっぷりと盛り付けていく。その隣では、サクラが氷のような顔を少しだけ和らげ、紅生姜と七味唐辛子の小袋を子供たちに配っていた。


 ――『牛丼』である。

 初代タナカがこの異世界に製法を伝えたとされる、伝説の「神の料理」。それが五百年の時を経て、タナカ王家から国民へ無償で振る舞われる建国記念日の伝統行事となっていたのだ。


「……信じられねえな」

 広場の隅で、配給されたどんぶりを手にしたケンは、呆然と湯気を立てる茶色い肉を見つめていた。

 異世界に来て五年。ファンタジー世界の味気ない黒パンやオークの塩茹で肉には慣れていたが、目の前にあるのは、どう見ても現代日本のファストフードチェーンで出される「それ」と完全に一致していた。


 ケンは、備え付けられていた木製の箸を割り、一口、肉と飯を掻き込んだ。

「――――ッ」

 瞬時に、舌を突き抜ける圧倒的な「旨味ダシ」。醤油の塩気と玉ねぎの甘みが、熱い白米と共に口の中で爆発する。


(……これだ。深夜の物流倉庫の夜勤明けで、冷え切った体で食った、あのチェーン店の味……!)

 美味い。ただ美味いだけではない。

 四十年間の孤独で冴えない人生の中で、唯一彼を温めてくれた「日常の味」が、そこにはあった。

 ケンの目から、思わずツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。五百年前の裁定者・田中勇が、どれほどの望郷の念を抱えてこのレシピを異世界に遺したのか。その痛切な想いが、味覚を通してケンに伝わってきたのだ。


「おっ、ケンの兄貴! 泣くほど美味いか! そりゃそうだ、この牛丼にはドワーフの隠し味でリンゴのすりおろしが入ってっからな!」

 隣でガツガツと牛丼を三杯も平らげているのは、若きドワーフ族の青年、ガクだった。彼はあのゲン長老の孫であり、今回ケンと共にドンジャラ・トーナメントのファイターズ代表として選出された若きホープだ。身長はケンの胸ほどしかないが、横幅は丸太のように太く、鋼のような筋肉が詰まっている。


「ああ……最高に美味いよ、ガク。色んな意味でな」

 ケンは涙を拭い、どんぶりを一気に空にした。

 腹の底から、力が、闘志が湧き上がってくるのを感じた。


     * * *


 午後。

 王城に隣接する大スタジアムの控え室。

 建国記念日の熱狂は、ドンジャラ特別トーナメントへと舞台を移していた。


「オラァッ! 腹いっぱい牛丼食ったかテメェらァ!! 今日勝たなくていつ勝つんだ!! ファイターズの意地を見せてやれェェェッ!!」

 軍服のボタンを弾け飛ばさんばかりに胸を張り、顔を真っ赤にして怒号を飛ばしているのは、ファイターズの監督を務めるタナカ・マチ副団長だった。

 昨日までの「乙女の憂鬱」など完全に消え去り、闘争本能の塊と化している。


「へ、へいッ! マチ監督! じいちゃんが打った牌に泥は塗らせません!」

 ガクが威勢よく返事をする。

「おうガク、あんまり力むなよ。ドンジャラは腕力じゃなくて、盤面の管理だ。冷静に行こうぜ」

 ケンは静かに肩の力を抜きながら、自らの指先をマッサージしていた。四十年間で培った「平常心」は、牛丼によって完全にチャージされている。


「ケン! 今日こそは、我がファイターズが十五年ぶりに建国杯を奪還する日だ! 頼んだぞ、私のマイハニー!」

 マチがケンの背中をバンッ! と張り手で叩いた。内臓が飛び出そうになる衝撃を、ケンは辛うじて堪えた。


 一方、ライオンズの控え室。

 そこには、異様な雰囲気が漂っていた。


「……いいですか、エミ、エマ。今日の貴女たちのバイタルデータ、筋肉の張力、そして魔力同調率……すべてが平時の百二十パーセントを記録しています。これは、驚異的な数値です」

 銀縁メガネを光らせる戦術参謀のコアラが、手元のデータ端末を見つめながら、信じられないものを見るような声を上げた。


「……うぅぅ、コアラお姉ちゃん。でも、体中がバキバキで痛いよぉ……」

「昨日、マチ叔母様に千本素振りとウサギ跳びさせられたせいで、足がプルプルするよぉ……」


 ライオンズの代表として選出された双子のエミとエマは、涙目で太ももをさすっていた。

 昨日、マチの「貧乳コンプレックス」をからかった報復として、彼女たちは地獄の肉体シゴキを受けた。全身の筋肉細胞は破壊され、現在は強烈な遅発性筋肉痛の真っ只中にあった。


「……しかし、そのシゴキが『超回復』を促したようです」

 コアラはメガネを押し上げた。

「貴女たちの最大の弱点は『長丁場の思考による体幹のブレ』でした。しかし今、貴女たちの下半身は丸太のように安定しています。打牌の際の無駄な動作が完全に消え、呼吸すら完璧に同調している。……皮肉なことに、マチ副団長の理不尽なシゴキが、貴女たちを完璧なドンジャラマシーンへと進化させてしまったのです」


「「ええええええッ!?」」


 双子は驚愕したが、いざ予選の卓につくと、コアラの言う通りだった。

 痛みを堪えるために下半身にグッと力を入れることで、姿勢が一切崩れない。視線がブレないことで、双子特有のテレパシー(同期)の精度が極限まで跳ね上がっていたのだ。


 予選リーグの総当たり戦。

 ケンとガクのファイターズは順調に勝ち星を重ねたが、最終戦で激突したライオンズ戦。

 肉体改造(強制)によってシンクロ率が異常なレベルに達したエミとエマの猛攻、そして背後でコアラが指示する完璧なデータ戦術の前に、ケンたちは一歩及ばず惜敗を喫した。


 結果として、ファイターズは四勝一敗。辛うじて予選二位に滑り込み、一位通過のライオンズと共に決勝戦への切符を手にした。


     * * *


「さあ! 建国記念特別トーナメント、いよいよ決勝戦だァァァッ!!」

 実況の絶叫と共に、五万人の観客が詰めかけたスタジアムの熱狂は最高潮に達した。


「予選を圧倒的な強さで勝ち抜いた、絶対王者ライオンズの天才双子、エミ&エマ!!」

「対するは、我らが赤の国の新たな英雄! 裁定者鈴木ケンと、若きドワーフの獅子ガクが率いるファイターズだァァァッ!!」


 魔力で照らされた中央の卓。

「ケンお兄さん。筋肉痛の向こう側を、見せてあげるんだから!」

 エミとエマが、少しだけ引き締まった腕をクロスさせて不敵に笑う。


「行くぞガク。ゲン爺ちゃんの牌、俺たちで一番輝かせようぜ」

「おうッ! ケンの兄貴、俺の背中は任せたぜ!」


「――建国特別ルール、『同盟の誓い』適用! 赤牌(戦士)と黄牌ドワーフの複合役は打点一・五倍! 洗牌シーパイ!!」


 ジャララララララッ!!

 緋緋色金の牌がぶつかり合う轟音が、スタジアムの空気を震わせた。


 決勝戦は、序盤から息を呑むような高度な情報戦となった。

 エミとエマは言葉を一切交わさず、瞬きの回数だけで互いの手牌を完全に把握している。


「ドンジャラ! 叡智の書(青純正)、十点!」

 エマが素早く上がり、ライオンズが先制する。


「落ち着けガク。あいつらの打牌速度が上がってるのは、目線が固定されてるからだ。……だが、どれだけ早くても、捨てられた牌の事実は消えない」

 ケンは、自らの脳内にある巨大な物流倉庫の棚を開いた。

 ライオンズの捨て牌、ガクの傾向、山の残り。すべてを瞬時にタグ付けし、完璧な確率論に基づいた防御網を構築していく。


「ドンジャラ。冥界の門(灰純正)、十二点。これで同点だ」

 ケンが淡々と上がりを宣言し、ライオンズの勢いを削ぐ。


 一進一退の攻防が続き、試合は運命の最終局オーラスへともつれ込んだ。


「……エマ、あれを狙うよ!」

 双子が狙っているのは、赤・青・緑の三色を揃え、さらに高打点を叩き出す大役『三国志』。


(……来る。ライオンズの手は異常に高い。ここで押し切られたら終わりだ)

 ケンは手牌を見つめた。手には万能の力を持つ『白牌(勇者)』があるが、周囲のパーツが足りない。赤牌(剣聖)が二枚、黄牌(爆破)が二枚。


 迷いが生じたケンの耳に、横から力強いドワーフの息遣いが聞こえた。


「ケンの兄貴! 俺の牌の『音』を聞いてくれ!!」

 ガクが、自らの手牌から一枚を力強く河に叩きつけた。

 カァァァンッ!!

 緋緋色金の牌が、澄み切った高音を響かせる。


 全牌記憶を持つケンには、その音が意味するものが明確に分かった。

(……ガクの手は、黄牌の染め手……『鋼の意志』に向かっている! そして、あいつは俺に、足りない赤牌をパスしようとしている!)


「……任せろ、ガク!!」

 ケンは安全圏を放棄し、完全に攻撃へと転じた。

 ガクの捨て牌を読み切り、アシストを受けながら自らの手を育てていく。


「リーチ!!」

 エミとエマが同時に声を上げる。


 ケンの番。

 彼が引いた牌は――『炎剣(赤)』。


「……来たぜ」

 ケンは、その牌を静かに卓に置いた。

 その瞬間、ガクもまた、最後の一枚を引き当てた。


「ドンジャラァァァッ!!」

 ケンとガクの声が、スタジアムに轟き渡る。


「……何ッ!?」

 コアラがベンチから立ち上がる。


「赤牌『烈火陣』と、黄牌『鋼の意志』! そして俺の『白牌(勇者)』による接続!!」

 ケンが手牌を開く。


「建国特別ルール適用……役名、『建国の盟約』!! さらに勇者牌の倍率を乗せて……四十五点!! 逆転だァァァッ!!」

 実況の喉が千切れんばかりの絶叫が響いた。


 静寂が、一秒。

 その直後、スタジアムは爆発したような歓声に包まれた。


「うおおおおおおッ!! ファイターズが勝ったァァァッ!!」

「十五年ぶりの優勝だァァァッ!! ガク!! ケン!!」


 ライオンズのエミとエマは悔しそうに顔を見合わせ、やがて小さく笑った。

「……負けちゃったね、エマ」

「うん……。でも、なんか全部出し切った気がするよ」


     * * *


「うわあああああああんッ!! ケンンンン!! ガクゥゥゥゥッ!!」


 控え室に戻るなり、マチが猛烈な勢いで突進してきた。

 その美しい顔は涙と大量の鼻水でぐしゃぐしゃに崩壊しており、もはや鬼神の如き形相だった。


「お、おいマチ、鼻水が……グハァッ!?」

 マチの極太の腕が、ケンとガクの首に巻き付き、二人の体を宙に浮かせるほどの力で締め付けた。ミシミシと骨が軋む。


「よくやった!! お前ら、最高だァ!! 十五年ぶりだぞ、建国杯!! ああ、死んでもいい!! いや、死なねえけど最高だァ!!」

 マチは二人の頭を自分の硬い筋肉の胸に押し付けながら、子供のように号泣した。


 その後は、地獄のような歓喜の嵐だった。

 屈強な赤の国の軍人たちが次々と控え室になだれ込み、男泣きしながらケンとガクを胴上げする。スタジアムの天井に頭がぶつかるほどの高さまで放り投げられながら、ケンは赤の国の絆の強さ、泥臭いまでの熱さを肌で感じていた。


 夜。

 王城の広場では、建国記念の大宴会が催されていた。

 昼間の牛丼に加え、巨大なオーク肉の丸焼きが炎に炙られ、何十個ものエール樽の底が抜かれる。ケンもまた、サトシ王や兵士たちから次々と杯を注がれ、珍しくほろ酔い気分になっていた。


「おいコラ双子! 今日はよく頑張ったな! ほら、肉食え肉! 筋肉の修復にはタンパク質だ!!」

 マチが、エミとエマの口に無理やり巨大な肉の塊を押し込んでいる。

「むぐぐっ……! マチ叔母様、乱暴だよぉ!」

 文句を言いながらも、双子はどこか嬉しそうに肉を頬張っていた。


(……いい国だな、ここは)

 星空を見上げながら、ケンは少しだけ口角を上げた。四十年間の孤独な倉庫労働では決して味わえなかった熱が、ケンの冷え切っていた心を確実に溶かしていた。


     * * *


 深夜。

 狂乱の宴も終わり、王城が深い静寂に包まれた頃。

 来賓用のベッドで眠りについていたケンは、不意に鳴り響いた鋭い音に跳ね起きた。


 ウゥゥゥゥゥゥゥッ……!!

 街全体を震わせる、赤の国の魔力警報サイレンだった。


(……なんだ!? 敵襲か!?)

 ケンが枕元の剣を手に取った瞬間、バンッ! と扉が蹴り破られた。


「ケン! 起きてるか!!」

 そこに立っていたのは、宴の際の軍服とは打って変わって、完全武装の漆黒の鎧を纏ったマチだった。顔の赤みは完全に引き、戦場を統べる将軍の冷徹な目をしている。


「マチ、一体何があった!?」

「緊急事態だ。国境付近の『西の開拓村』に、魔獣の群れが接近してるって国境警備隊から早馬が来た」


「魔獣……? だが、この世界では天律のルールがあるから、一方的な虐殺はできないはずだろ?」

「ああ。だが、今回の相手は最悪だ」


 マチは、奥歯をギリッと噛み締めた。

「接近しているのは、ただの魔獣じゃねえ。『ハイオーク』と、『オーククイーン』のつがいだ」


「ハイオーク……ッ!!」


 その単語を聞いた瞬間、ケンの脳裏に、凄まじいフラッシュバックが走った。

 血の匂い。燃え盛る炎。泣き叫ぶ村人たち。

 五年前、彼が転生した直後に世話になった『カナン村』を蹂躙し、青の国の蠱毒で対峙した、あの圧倒的な暴力と理不尽の権化。


「奴ら、村人を人質に取りやがった。村の広場を占拠して、村人たちに『命を賭けたドンジャラ』を強要しているらしい。……負けた人間から順に、クイーンが産卵するための『苗床エサ』として食い殺すつもりだ」


 マチの言葉に、ケンは拳を限界まで強く握りしめた。

 爪が掌に食い込み、血が滲む。


「……サトシ兄貴は、すぐに討伐隊を編成しろと命令を下した。私とサクラ、コアラで前線に出る。アンタは客人だ、ここで待って――」


「俺も行く」


 ケンの低く、地を這うような声が、マチの言葉を遮った。

 顔を上げたケンの瞳には、宴の時の穏やかさは微塵もない。

 そこにあるのは、カナン村を滅ぼされた時の、決して消えることのない復讐の炎。修羅の眼差しだった。


「……ケン」

「あいつらだけは、俺が直接叩き潰す。俺の……トラウマに、完全にケリをつけるためにな」


 マチは数秒間ケンの目を見つめ、やがてニヤリと肉食獣の笑みを浮かべた。

「……いい顔するじゃねえか、マイハニー。遅れるなよ、特急で向かうぜ!!」


 建国記念日の熱狂の余韻を切り裂くように。

 因縁の魔獣を屠るため、鈴木ケンは漆黒の夜の闇へと出撃した。

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