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第33話 過去の絆と2人の戦乙女


 鋼都バルガンの夜明けは、冷たく澄んだ空気の中に重厚な鎚音を響かせて始まる。

 だが、鈴木ケンの朝は、鍛冶の街が本格的に目を覚ますよりもさらに早く、深い静寂の中で始まっていた。

 王城の敷地内に設けられた、広大な板張りの道場。


 キュッ、キュッと、使い込まれた雑巾が床を滑る規則正しい音だけが、薄暗い空間に反響している。

 物流倉庫で働いていた三十九年間、毎朝一番に出社してシャッターを開け、誰もいないフロアを清掃してきたケンにとって、この静かで孤独な時間は、心身のスイッチを切り替えるための神聖な儀式でもあった。


 呼吸を整え、道場の隅々まで気を配りながら雑巾を掛ける。 だが、そのケンの手が不意にピタリと止まった。


(……おかしいな)


 意識のベクトルを、背後へと向ける。 青の国での百勝戦という地獄を抜け、アロンや神童、サクラといった規格外の化け物たちと死闘を繰り広げたことで、ケンの五感はかつての冴えない倉庫番のそれから、完全に『修羅』のそれへと進化していた。


 気配を完全に消しているつもりなのだろうが、ケンの研ぎ澄まされた直感は、道場の太い梁の上の暗がりに潜む、二つの小さな体温と、極度に緊張して不規則に跳ねる心音を正確に捉えていた。


「……そこにいるのは、わかってるぞ。天井裏で埃を被ってないで、降りてきたらどうだ?」


 冷たく、低い声で宣告する。 一拍の沈黙。風が道場を吹き抜ける音が、やけに大きく聞こえた。

「ひゃうッ!?」

「きゃああっ!?」 

梁の上から、可愛らしい、しかし完全にパニックに陥った二つの悲鳴が上がった。 

ドサドサッ! と無様に床へ転がり落ちてきたのは、王族専用の豪奢な稽古着に身を包んだ、真紅のツインテールの双子だった。

 タナカ・エミと、タナカ・エマ。 先日のドンジャラリーグで、ケンの『全牌記憶』の前に自慢のシンクロ戦術を粉砕された、財務大臣ミツルの愛娘たちである。

「な、なんでバレたの!? 私たち、息も止めて魔力も完全に遮断してたのに!」


「エマ、やっぱりこのお兄さんおかしいよ……。私たちの同期シンクロを察知するなんて、ただのヒューマンじゃないよぉ……」 

 

二人は床に尻餅をついたまま、涙目でケンを見上げている。 彼女たちはドンジャラリーグでの圧倒的な敗北から、ケンの強さの秘密を暴こうと、昨日からずっとコソコソとストーカー行為を働いていたのだ。


「秘密って言っても、俺はただ掃除して瞑想してるだけだぞ。お前ら、頭脳労働専門なんだから、こんな朝早くから埃っぽいところで無理するな」


 ケンが呆れて溜息をつき、手を差し伸べようとした、その時だった。


「ガァッハッハッハッ!! 奇遇じゃねえか、エミ、エマ! お前らもついに、計算機を捨てて武の道に目覚めたか!!」 

 バンッ!! と道場の分厚い扉が蹴り開けられ、カルディア王国国王タナカ・サトシと、軍服をはだけさせたタナカ・マチが、強烈な朝日の逆光と共に姿を現した。

「パ、パパ!? 違うの、私たちはただの観察任務で……!」

「マチ叔母様、私たちは筋肉を動かすのは専門外で……!」


「問答無用だァッ!! 掃除をサボって他人の後をつける執念があるなら、その脚力を稽古で使え!! ドンジャラの基礎は体力だ!!」

 サトシの愛の鉄拳が双子の脳天に炸裂し、マチが肉食獣の笑みを浮かべて二人の襟首を子猫のように軽々と掴み上げた。


「いいぜケン! 今日はこのチビどもも混ぜて稽古だ! サクラの容赦ねえシゴキを受ければ、そのひ弱な根性も少しはマシになるだろ!」


「「いやあああああ!! 私たち、筋肉痛で死んじゃうううう!!」」

 財務の天才児として頭脳労働に特化してきた双子にとって、赤の国の『地獄の朝練』はまさに公開処刑であった。

 その数分後には、現れたサクラの鋭い竹刀の洗礼を受け、二人が道場の床で白目を剥いて泡を吹き、ピクピクと痙攣する姿があった。


 ケンは「……強く生きろよ」と心の中で合掌しながら、自らもサクラの猛攻に備えて竹刀を構え直すのだった。


     * * * 


一方、その頃。 第一王女サクラは、王城の自室の天蓋付きのベッドで、深い微睡みの中にいた。 ――夢を見ていた。


 それは今から十数年前。彼女がまだ「鋼の王女」と呼ばれる前。弱く、脆く、ただの小さな少女だった頃の色褪せた記憶。

『……おい見ろよ、サクラ王女だぜ。サトシ王の娘のくせに、剣も振れないでいつもオドオドしやがって』

『ホントだよな。タナカ王族の恥さらしだぜ。あんなのが次期国王だなんて笑わせるよな』


 王立学校の、冷たい石畳の中庭。 周囲の男子生徒たちから投げかけられる、心ない嘲笑と侮蔑の視線。 当時のサクラは、今の氷のような冷静さとは正反対の性格だった。内気で、争い事を好まず、自分に全く自信が持てない。王家の血筋という重圧、建国者初代タナカの威光という目に見えない鎖に押し潰されそうになりながら、ただ俯いて耐えることしかできなかった。


『……や、やめてください……。私は、ただ……』


 涙目で後ずさるサクラ。反論する言葉も、立ち向かう勇気もなかった。

『ハッ、泣きそうじゃねえか! 王女様が泣くところ、見てみたいよな!』

 一人の大柄な男子生徒が、意地悪な笑みを浮かべてサクラの肩を強く小突こうと手を伸ばした。 その、瞬間だった。

『――あァ? テメェら、誰の許可得てその汚ねえ手ぇ出してんだよ。腕、へし折られりゃ気が済むのか?』


 低く、地を這うような、ドスの利いた声。

 男子生徒たちが驚いて振り返ると、そこには水色の綺麗な髪を無造作に束ねた、一人の少女が立っていた。 まだ幼いながらも、その瞳には狂犬のような鋭い光が宿り、口の端を吊り上げて凶悪な笑みを浮かべている。

 身寄りがなくスラムでマチに拾われ、戦場や裏路地の酒場で育てられたその少女――コアラは、今の「冷静沈着な参謀」の姿からは想像もできないほど、全身から暴力的な殺気を垂れ流す生粋の武闘派ヤンキー娘だった。

『……な、なんだよお前! スラムから来た、マチ副団長の拾い物だろ! 貴族でもないくせに生意気な口を……!』

 男子生徒が強がって吠える。

『拾い物ぉ? いい度胸してんじゃねえか、三下。……おいサクラ、そこどいてな。こいつらの腐った根性、今からアタイが「初期化フォーマット」してやるからよ』

 そこからの光景は戦いというより、一方的な解体作業だった。 コアラはマチから実戦で叩き込まれた荒々しい喧嘩殺法――目潰し、金的、関節蹴りといった一切の容赦のない実戦格闘――を駆使し、瞬く間に男子生徒たちをボコボコにして石畳に沈めた。

『……ふぅ、弱すぎてデータにもなんねえな。おい、次。サクラを揶揄う奴がいたら、アタイが直接引導を渡してやる。地獄の底まで覚えときな』 コアラは拳についた血をペッと吐き捨て、呆然と立ち尽くすサクラに向き直った。

 その顔は傷だらけで、制服も泥だらけだったが、サクラにはそれがどんな英雄よりも眩しく見えた。

『……おい。あんた、王女だろ。泣いてる暇があったら、こいつらのツラをドンジャラでも剣でも叩き割るくらい強くなりなよ。……アタイが、その手伝いくらいはしてやるからさ』


 ぶっきらぼうに差し出された、傷だらけの、しかし誰よりも頼もしい手。

 サクラはその手を、震えながらもしっかりと両手で握り返した。 あの日、彼女は心に決めたのだ。 自分も、彼女のように。誰にも舐められない、誇り高き戦士になると。 サクラの今の凛とした「一の太刀」も、氷のような冷徹さも、すべてはコアラという荒々しい親友と共に過ごした、泥まみれの青春から生まれたものだったのだ。


     * * *


「……サクラ。いつまで寝ているのですか。午前の合同軍事演習の時間ですよ。王族が遅刻など許されません」

 扉をノックする音と共に、聞き慣れた静かな声が響く。 サクラはハッと目を開け、枕元に座る人物を確認した。 銀縁メガネを指で押し上げ、冷徹な無表情で自分を見つめる水色髪の女性。手には分厚いデータファイルが抱えられている。


 そこには、夢の中の狂犬のようなヤンキー娘の面影は微塵もない。完全に洗練された、赤の国の頭脳の姿だ。

「……コアラ。ふふ、少し懐かしい夢を見ていたわ。貴女がまだ、乱暴な言葉を使っていた頃の夢」

 サクラはベッドから身を起こし、寝起きの少し乱れた真紅の髪を優雅にかき上げた。

「……私のデータによれば、貴女が寝坊をする確率は0.02%です。あの男の全牌記憶、未だに完全なアルゴリズムの解析には至っていませんから、疲労が溜まっているのでしょう」

 公式の場であれば、ここでサクラは王女としての威厳を纏い、コアラは参謀としての敬語を使う。

 だが、二人きりのこの部屋では、その垣根は完全に消え去る。

「……うるさいわよ、メガネ。貴女だって、数日前の夜はケンにボコボコにされて、顔を真っ赤にしてたくせに。あの時の貴女の表情、スラムにいた頃の負けず嫌いな『アタイ』に戻ってたわよ」

「……それは一時的なバグです。データ処理の熱暴走に過ぎません。それに、私は負けを認めたわけではありません。……それよりサクラ。さっさと準備しなさい。貴女が遅れると、マチ副団長がまたケンを地下室に連れ去って、朝から『愛の乱稽古』を始めてしまいます」

「……ふふ、そうね。あの発情叔母様ならやりかねないわ」 二人は顔を見合わせ、クスクスと、しかし確かな信頼に満ちたフランクな笑みを交わした。 鋼の王女と冷徹な参謀。

 赤の国の屋台骨を支える二人は、世界で最も固い絆で結ばれた、最高の親友ソウルメイト同士だったのである。 


    * * * 


 そして、夜。 鋼都バルガンの夜空を、魔力水晶の眩い光が真っ赤に焦がしている。

「さあ! 今夜のドンジャラリーグ、クライマックス・マッチだァァァッ!!」

 実況の声が、熱狂のるつぼと化したスタジアムに轟き渡る。観客席は満員御礼、割れんばかりの歓声が地響きのように鳴り響く。

「ファイターズからは、飛ぶ鳥を落とす勢いの裁定者『鈴木ケン』!! そして……なんと今夜は、赤の国の至宝、長老『ゲン』が特別参戦だァッ!!」


 ケンの隣に座るのは、二百歳を超えるドワーフの老職人、ゲン。 彼は自らが鍛え上げた緋緋色金ひひいろかねの牌を愛おしそうに撫でながら、ニヤリと黄ばんだ歯を見せた。ファイターズの軍人は急遽出動しなければならない時間があり、ピンチヒッターとしてゲン爺が出場することになった。


「……おいケン。儂が丹精込めて打った牌を、お前がどう使うか、特等席で見せてもらうぞ。下手な打ち方をしたら、その腕をへし折ってやるからな」


「ああ、ゲン爺。あんたの打った牌は最高に手に馴染む。今日も『在庫整理』、キッチリやらせてもらうぜ」

 対するは、ライオンズの絶対王者コンビ。 タナカ・サクラと、コアラ。

「……ケン殿。午前中の剣道では、貴方の脳天を三十二回叩き割りました。……今度は、その卓上で貴方の傲慢を両断して差し上げます」

 サクラが、極寒の笑みを浮かべながら牌を積む。その瞳には、親友と並んで戦うことへの静かな高揚感が宿っていた。

「……データ照合。今夜は貴方の『白牌』のアルゴリズムを完全に機能不全に陥らせます」 

コアラもまた、メガネをギラリと光らせて宣言する。

「――洗牌シーパイ!!」 

ジャララララララッ!! 緋緋色金の牌がぶつかり合う重低音が、スタジアムを震撼させた。

 試合は、序盤から壮絶なデッドヒートとなった。 ゲン爺はドワーフ特有の圧倒的な守備力と、牌の『音と重さ』だけで相手の手牌を読み解く神業を披露。彼が打つ牌は重く、一切の隙がない。

 ケンは全牌記憶の棚卸しに加え、朝の剣道でサクラから叩き込まれた『間合いの直感』を使い、サクラの鋭い攻撃を紙一重で見切っていく。

「ドンジャラ!! 鋼の意志(黄純正)、十点! 裁定者の若造、今のは儂のサポートがあってのリーチだぞ! ボーッとするな!」 

ゲンが豪快に上がり、ケンを的確にアシストする。

「……ッ、小賢しい。ならば、これで!」

 サクラが、日本刀の居合のような打牌を河に叩きつける。 彼女の打牌は、まさに『一の太刀』。ケンの記憶の隙間を、音もなく切り裂く超速の和了り。「ドンジャラ。烈火陣(赤純正)、十点」

 負けじと、コアラが精密なデータでケンの思考を誘導し、マチ直伝の荒々しい攻め――ヤンキー時代の闘争本能――を、理性の裏に隠して牙を剥く。「……リーチ。ケン殿、貴方がその牌を捨てる確率は98.7%です」「なっ……!?」 コアラの予測。ケンの全牌記憶をもってしても、コアラがサクラの捨て牌を完璧に計算して構築した『複合陣形』は見抜けない。 サクラが鋭い太刀筋で囮となり、コアラがその死角からトドメを刺す。 幼い頃から共に修羅場を潜り抜けてきた二人の『親友連携』は、双子のテレパシーをも凌駕する、魂レベルでの同期シンクロを実現させていた。「……ドンジャラ」 サクラの声が、静かに響く。「三家の誓い(赤・青・白牌)。……残念でしたね、ケン殿。王家の血と、親友のデータ。……貴方の孤立した強さでは、私たちのシステムは斬れません」 結末。 ケンの勝利数は猛烈に伸びたものの、サクラとコアラの鉄壁のコンビネーションに僅かに一歩及ばず。 最終局、サクラの『烈火陣』がケンの防御網を真っ向から貫き、ケンは僅差で惜敗を喫した。「……負けたか。あの二人の呼吸、双子なんて目じゃないな。完全に一本取られたぜ。見事だ」 ケンは、清々しさすら感じる敗北感の中で、自らの負けを認めた。 スタジアムは、ライオンズの絶対的な強さを讃える大歓声に包まれ、サクラとコアラは小さく拳を合わせた。 


    * * *


「……あ、あ、ああああああ……ッ!!」

 スタジアムの控え室。 魔力水晶のスクリーンで試合を見ていたタナカ・マチは、もはや言葉にならない悶絶の声を上げていた。 ケンの敗北。 サクラの美しい一の太刀に、苦悶の表情を浮かべて敗れ去るケンの姿。 それが、彼女の歪んだ敗北快楽主義バトルジャンキーのスイッチを限界以上に押し下げていた。

「……我慢できねえ。もう、一秒も我慢できねえ!! サクラにやられるケンの悔しそうなツラを見てたら、私の……私の中のメス獅子が、暴れ狂ってやがる!! 誰かに負けるケンなんて見たくない! 私が直接、この手でわからせてやらなきゃ……!!」


 マチは、スタジアムから出てきたばかりの疲労困憊のケンを待ち構えていた。

「お、おいマチ、お疲れ。今日は惜しくも負けちまったが、次は必ず――」


「黙れマイハニー!! 問答無用だァッ!!」

「ちょ、ま、な、なにするんだ!!?」

 マチはケンの両手首を一瞬で拘束し、俵のように肩に担ぎ上げた。

「ガッハッハ!! 今日も最高の負け顔だったぜケン!! その顔を、今夜は私のためだけに見せてもらう!!」

「お、おい! 放せ! 明日も朝から剣道が――」

「知るかァ!! 今夜は朝まで、私の『全開放フルバースト』をアンタの勇者に受け止めてもらうからなァァッ!! 私以外の女に負けるなんて許さねえ!!」


 マチはそのまま、王城の地下、防音完備の隠し部屋へとケンを拉致し、重厚な扉を乱暴に蹴り閉めた。 ジャララララララッ!! 深夜。 王城の地下から響き渡るのは、緋緋色金の牌が乱暴にぶつかり合う激しい音と。 そして、欲望を極限まで解放した戦乙女の、狂おしいまでの絶頂の嬌声。

「あァァッ!! キタ……キタキタキタァ!! ケンの……ケンの黒牌(魔王)が、私の奥深くまでェェェッ!!」

 ケンの絶望的な「やめろォォッ!」という叫び声は、マチの悦びの渦に呑み込まれ、鋼都の夜に溶けていく。

 翌朝、再びベッドで全裸で目覚め、サクラに『産業廃棄物』を見るような目をされる運命が待っていることも知らずに……。

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