第32話 炎の剣聖と双子の獅子
鋼都バルガンの朝は早い。
しかし、鈴木ケンの朝は、その鍛冶の街の喧騒よりもさらに早かった。
まだ空が白み始めたばかりの、冷やりとした早朝。
ケンは王城の自室のベッドをひっそりと抜け出し、誰よりも早く道着に着替えると、広大な武の修練場へと足を運んでいた。
手には使い込まれた雑巾と箒。
彼は一人、静寂に包まれた道場の床を、黙々と磨き上げていく。
(……昔、物流倉庫で働いてた頃も、一番乗りで出社してシャッターを開けるのが俺の役目だったな)
冷たい床板の感触を確かめながら、ケンはふと前世の記憶を思い返していた。
あの頃は、ただ毎日をやり過ごすためだけのルーチンワークだった。だが今は違う。この静寂な時間は、これから始まる過酷な修練に向けた、彼なりの「心の準備」なのだ。
掃除を終えたケンは、道場の中央に正座し、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
ドンジャラにおける極限の集中力、そして剣道における間合いの感覚。それらを研ぎ澄ますための『精神統一』。
自分の心臓の鼓動と、呼吸の音だけが世界に響く。
「……ほう。随分と早くから気を入れているではないか、ケン」
不意に、道場の入り口から重厚な声が響いた。
ケンが目を開けると、そこにはカルディア王国国王タナカ・サトシ、第一王女サクラ、軍服をだらしなく着崩したマチ、そしてデータファイルを抱えたコアラの四人が立っていた。
「おはようございます、サトシさん。……目が覚めちまったんで、先に掃除と瞑想をやらせてもらってました」
ケンが立ち上がって一礼する。
「うむ! 良い心掛けだ! 掃除は己の心を磨くことと同義! 初代タナカ・イサム様も、道場の清掃にはことのほか厳しかったと伝わっているからな!」
サトシが豪快に笑いながら道場に足を踏み入れる。
「おはようマイハニー! 朝から汗を流すアンタの姿もセクシーだぜ! 掃除の後は私と愛の乱稽古でもするかい?」
マチがウインクを飛ばすが、コアラがすかさず「……発情ゴリラは黙っていてください。道場の空気が汚れます」と冷たくツッコミを入れる。
「……御託は不要です。鈴木ケン殿、防具を着けなさい。朝の稽古を始めます」
サクラが、スッと流れるような動作で竹刀を構えた。
その瞳には、かつてケンに向けられていた『ゴミを見る目』とは少し違う、純粋な戦士としての鋭い光が宿っていた。
「ああ、お願いするぜ」
ケンも素早く防具を身につけ、竹刀を中段に構えた。
タンッ!!
サクラの踏み込みと同時に、空気を裂くような面打ちがケンの脳天へと迫る。
赤の国に来てからというもの、毎朝のように繰り返されてきた地獄の剣道特訓。最初はまったく見えなかったサクラの太刀筋が、今のケンには『視えて』いた。
(……左肩が微かに沈んだ。来るッ!)
ケンはギリギリのタイミングで竹刀をすり上げ、サクラの強烈な面を弾き流した。
「……ッ!」
サクラの目が微かに見開かれる。
「コテェェッ!!」
間髪入れずに放たれた手首への斬撃。
それすらも、ケンは半歩後退することで間一髪躱してみせた。
「……防ぐだけでは勝てませんよ! シィィッ!!」
サクラの連撃は止まらない。突き、胴、面。怒涛の剣閃がケンを襲うが、ケンは物流倉庫で培った『究極の動体視力』と、ドンジャラの『全牌記憶』を応用した空間把握能力で、そのすべてをギリギリの『間合い』で見切っていく。
バシィィィンッ!!
最後はサクラの鮮やかな胴抜きが決まり、ケンは道場の床に転がった。
「ハァ……ハァ……! やっぱり、サクラにはまだ一発も入れられねえな……」
ケンが面を外して荒い息を吐く。
しかし、サクラは手元の竹刀を見つめ、静かに息を整えながら言った。
「……いえ。見事な適応力です。私の初太刀を完全に視て、捌き切りましたね。たった数週間でここまで動体視力と間合いの感覚を仕上げてくるとは……。貴方のドンジャラの強さの根源が、少しわかった気がします」
サクラの口から出た、初めての明確な『称賛』の言葉。
ケンは少し驚いたように目を瞬かせた。
「ガァッハッハッハ! よくやったぞ、ケン!!」
サトシが、ドスドスと歩み寄ってきて、ケンの背中をバンバンと叩いた。
「お前は『田中流』の本質……すなわち『間合い』と『胆力』を、魂で理解し始めている! 恐怖に怯むことなく、相手の呼吸を読み、一寸の隙を見逃さない! それこそが我が国のドンジャラの極意よ!!」
「……まだまだ、打たれっぱなしですけどね」
ケンは苦笑しながら、しかし確かな手応えを感じていた。
ドンジャラという卓上の戦争において、この剣道の修練は、確実に自らの防御力と反応速度を底上げしてくれている。
「よし! 朝の稽古はここまでだ! 朝飯を食って、午後の労働と夜のリーグ戦に備えよ!!」
サトシの号令で、赤の国の熱い一日が、本格的に幕を開けた。
* * *
昼時。
豪快な肉料理が並んだ昼食を済ませたケンは、一人、王城の一角にある『大図書館』へと足を運んでいた。
「……青の国の図書館とは、ずいぶん雰囲気が違うな」
魔法の光で照らされた静寂な青の国の図書館とは異なり、赤の国の図書館は、無骨な石造りの本棚に、革張りの分厚い歴史書や戦術書が所狭しと並べられている。
ケンは、昨日から感じていた『違和感』――田中勇の生きた時代と、彼が残した遺産の年代的なズレ――を確かめるため、赤の国の歴史を記した文献を探していた。
「ええと……『建国王タナカ・リュウの軌跡』……これか」
埃を被った重厚な本を机に広げ、ページを捲る。
そこには、五百年前の魔王軍との戦いの記録や、赤の国の建国の経緯が記されていた。
そして、ケンの目は、ある一枚の挿絵と記述に釘付けになった。
『――裁定者・田中勇の隣には、常に燃えるような赤髪の女性がいた。彼女の名は、炎の剣聖リオン・サラ・ガルド。後に田中勇の正妻となり、カルディア王国の祖となるタナカ・リュウの祖母にあたる人物である――』
「……炎の剣聖。田中勇の、結婚相手……?」
ケンは、挿絵に描かれた女性の姿を見つめた。
ドンジャラの赤の通常牌のモデルにもなっているというその女性。燃え上がるような真紅の髪を短く刈り込み、身の丈ほどもある大剣を軽々と構える、筋骨隆々とした美しい戦士の姿。
その顔立ちは、マチやサクラ、そしてサトシたちにそっくりだった。
「なるほど……。タナカ一族のあの規格外の身体能力と、好戦的な性格は、初代タナカの血ってだけじゃなくて、この『炎の剣聖』の血が濃く出てるってことか。なら、あのバカ力にも納得がいくぜ……」
ケンは苦笑いしながら、さらに記述を読み進めた。
『――魔王軍との最終決戦。魔王の懐刀であり、無敵の力を持っていた地獄の番犬・ケルベロス。その凶悪な魔獣と三日三晩に及ぶ死闘を繰り広げ、ついにこれを封印せしめたのは、他でもない炎の剣聖サラであった。彼女の剣撃は天を割り、大地を焦がし、ケルベロスの三つの首を同時に断ち切ったと伝えられている――』
「ケルベロス……。あの、紫の国のヴェイルが『模擬・天律戦の優勝賞品にする』って言ってた、封印された魔獣か」
ドンジャラの灰牌のモデルにもなっている、伝説の怪物。
五百年前の英雄たちが命懸けで封印したその怪物を、ヴェイルは再び世に放とうとしている。
「……嫌な予感しかしないぜ。紫の国の連中は、一体何を企んでやがるんだ」
ケンは、歴史書を閉じながら、半年後の決戦に向けた重いプレッシャーを感じていた。
* * *
その頃。
赤の国から遠く離れた、大森林の奥深く。
緑の国(エバーグリーン王国)、樹都エルダナ。
世界樹イグドラの根元に設けられた美しい謁見の間に、一羽の炎の鳥がパタパタと舞い降りた。
「ピャッ! いつ来ても草臭え国だぜ! 俺様の炎で全部燃やしてやりたくなるな!」
フェニクスが、相変わらずの減らず口を叩きながら、玉座を見上げる。
そこに座っていたのは、エルフの王女であり世界樹の巫女、ティア・エバーグリーンだった。
彼女は、深緑の長髪を揺らしながら、琥珀色の瞳でフェニクスを見つめ、静かに微笑んだ。
「あら、不死鳥。赤の国での鈴木ケンの見張りを放り出して、わざわざ私のところへ? 随分と働き者になったのね」
「フン、俺様はあのバカのパシリじゃねえ! ……今日は、紫の国のヴェイルからの『伝言』を持ってきてやったんだよ」
フェニクスは、模擬・天律戦の開催、会場が紫の国であること、そして何より――『優勝賞品が、封印を解かれたケルベロスの使役権であること』を告げた。
その言葉を聞いた瞬間。
ティアの周囲を取り巻く温かな魔力が、一瞬にして凍てつくような冷気を帯びた。
「……ケルベロス、ですって?」
ティアの美しい顔が、憎悪と悲しみに歪む。
「五百年前……あの忌ましき魔獣が、私たちの森をどれだけ焼き払い、どれだけの同胞の命を奪ったことか。田中(勇)とサラが命懸けで封印したあの化け物を、ヴェイルは再び解き放ち、ゲームの賞品にするというの?」
「ああ。紫の国の連中は、ドンジャラの裏で確実に武力行使の準備を進めてる。ケルベロスはその切り札だ」
ティアは玉座から立ち上がり、ギリッと唇を噛み締めた。
「……許せません。ケルベロスがもし再びこの世界に放たれれば、世界樹イグドラの安寧は永遠に失われる。……緑の国も、全力でこの『模擬・天律戦』に参戦します」
ティアは、玉座の間に控えていたエルフや人間の代表選手たちを振り返った。
「ルーク、リアン、フィーナ。前に出なさい」
ティアの呼びかけに応じ、緑の国を背負う三人の精鋭が音もなく進み出た。
冷静沈着なエルフの狙撃手ルーク。
人間でありながら森の気配を完全に読む直感の戦士、リアン。
そしてハーピー、フィーナ。
「皆、聞きましたね。半年後の戦いは、ただの親善試合ではありません。私たちの森の未来、そして同胞たちの魂の安らぎを懸けた、負けられない戦いです。……緑の国の誇りにかけて、必ずや優勝をもぎ取り、あの魔獣を再び封じ込めなさい!」
「「「はっ!! 巫女様のご加護のままに!!」」」
ルーク、リアン、フィーナの三人が、力強く一斉に片膝をついた。
ティアは、窓の外にそびえる世界樹を見上げ、胸の中で小さく呟いた。
(……ケン。貴方は、この残酷な盤面で、何を見せてくれるの? 田中の遺志を継ぐ者として……貴方の選択を、私は見守るわ)
緑の国もまた、半年後の決戦に向けて、静かに、しかし熱く闘志を燃やし始めていた。
* * *
そして、夜。
鋼都バルガンのドンジャラ・スタジアムは、今日も割れんばかりの熱狂と歓声に包まれていた。
「さあ! 今夜のドンジャラリーグ、メインイベントォ!!」
実況の声が夜空に響き渡る。
「先日、劇的なデビュー勝利を飾った鈴木ケンを擁する『ファイターズ』! 対するは、我が国の絶対王者、現在リーグ三連覇中のエリート軍団『ライオンズ』だァァァッ!!」
スタジアムの熱気は最高潮に達していた。
ファイターズ側の卓には、すっかりチームの顔となったケンと、腕組みをして不敵に笑うマチの姿。
そして、向かいのライオンズ側の卓には、銀縁メガネを光らせる戦術参謀のコアラ、そして――見慣れない二人の少女が座っていた。
「……にひひっ。あの人が、噂の裁定者サマ?」
「……うふふっ。マチ叔母様がメロメロになってるっていうから、どんなゴツい男かと思ったら、随分と優しそうなお兄さんだね」
二人の少女は、全く同じ顔、同じ背丈、同じ真紅のツインテールをしていた。
王族専用の豪奢なユニフォームに身を包み、悪戯っぽい笑みを浮かべる双子の少女。
「ケン、気をつけろ」
マチが、卓越しに低い声でケンに忠告した。
「あいつらは、タナカ・エミとタナカ・エマ。私の弟……この国の財務大臣をやってるミツルの娘たちだ」
「財務大臣の、娘?」
「ああ。ミツルはドンジャラより数字や貿易の計算が得意な頭脳派でな。その娘のあの双子も、見た目はガキだが、頭の回転は王族随一だ。……それに、あの二人は『言葉を交わさずともお互いの思考がわかる』っていう、厄介なテレパシーみたいな連携を使ってくるぜ」
「……データ照合」
ライオンズのキャプテンであるコアラが、冷徹な声で宣言する。
「今夜の私たちの戦術は『完全なる同期』です。鈴木ケン殿。貴方の全牌記憶のアルゴリズムが、私たちの処理速度に追いつけるかどうか……見せてもらいましょう」
ブザーが鳴り、試合が開始された。
序盤から、ライオンズの猛攻が始まった。
「エミ、行くよ!」
「うん、エマ! ポン!」
双子の打牌は、まさに『鏡合わせ』のように完璧だった。
エミが不要な牌を捨てた瞬間、エマがそれを鳴き、逆にエマが手牌を崩した瞬間に、エミがその隙をカバーする陣形を構築する。
言葉のやり取りは一切ない。ただ視線を交わすだけで、二人は卓上の情報を完全に共有し、一つの巨大な生き物のように連携を深めていく。
(……すげえ。タイガースの直感的な鳴きとも違う。計算され尽くした、完璧なパズルみたいな連携だ)
ケンは、目を細めて双子の動きを観察した。
「それに加えて、コアラのサポートだ! 厄介極まりねえ!」
マチが苛立たしげに牌を捨てる。
「ドンジャラ! 烈火陣(赤純正)、十点!」
「うふふ、私たちの勝ちだね、お兄さん」
エミとエマの連続上がりが決まり、ファイターズの持ち点はみるみるうちに削られていく。
スタジアムのライオンズファンから、圧倒的な王者の風格を称える歓声が上がる。
「……クソッ! このままじゃジリ貧だ! ケン、何か手はねえのか!」
マチが焦りの声を上げる。
しかし、ケンは静かに目を閉じ、深く呼吸をしていた。
朝の修練場で、サクラの竹刀を躱した時の感覚。
相手の『間合い』に入り込み、その呼吸の隙間を突く。
(……完璧な連携ってことは、逆に言えば『一つのシステム』に依存してるってことだ。歯車を一個狂わせれば、全体が崩れる)
ケンは、目を開き、黄金の瞳を輝かせた。
「マチ。次から、俺の捨てる牌を『全部鳴け』。意味がなくてもいい。とにかく盤面の牌の順番(ツモ順)を力業でズラせ」
「なっ……意味のない鳴きをしろだと!? そんなことしたら防御が……」
「いいからやれ! 守りは俺が全部引き受ける!!」
ケンの強い語気に、マチはハッと息を呑み、そしてニヤリと笑った。
「……アハハ! いいぜ! アンタがそう言うなら、骨の髄まで付き合ってやるよ!!」
そこから、ファイターズの反撃が始まった。
「ポン!」「チー!」「カンだァァッ!」
マチが、自身の役を無視して、ひたすらにケンの捨て牌を鳴きまくる。
これには、双子のエミとエマもペースを乱された。
「えっ!? なんでそこで鳴くの!?」
「ツモの順番がズレた……! コアラお姉ちゃん、データと違うよ!」
「……計算外のノイズが発生。アルゴリズムを再構築……」
コアラのメガネの奥の瞳が、焦りに揺らぐ。
マチの暴力的なまでの盤面荒らし。それは、双子の完璧な同期を物理的に引き裂く『ノイズ』となった。
そして、盤面が混沌の極みに達した、最終局。
ケンは、すべてを読み切ったかのように、手元に引き寄せた一枚の牌――『白牌』を、静かに卓に叩きつけた。
「……そこだ」
ケンの低い声が響く。
「……ドンジャラ。天律の完成(白牌と黒牌を含む最終役)。六十点」
カチャリ。
ケンが手牌を倒した瞬間、ライオンズの三人、そしてスタジアム中の観客が、言葉を失って静まり返った。
双子の連携の隙間を縫い、コアラの防御網すらも予測した上での、究極の待ち。
「う、嘘……。私たちの完璧な同期が、破られた……?」
エミとエマが、信じられないという顔でへたり込む。
「……私のデータが、またしても……。ああ、なんて、恐ろしくて……素晴らしい……」
コアラは、敗北の悔しさと共に、背筋を突き抜けるような歪んだ快感に身を震わせ、頬を真っ赤に染めていた。
「勝負ありィィィッ!! ファイターズ、絶対王者ライオンズを下し、見事な大逆転勝利ィィィッ!!」
実況の絶叫と共に、スタジアムは地鳴りのような大歓声に包まれた。
「やったァァァァァッ!! ケン! アンタやっぱり最高だァァァッ!!」
マチが卓を飛び越え、ケンの胸に勢いよく飛び込んでくる。
「ぐふぅッ!? だから痛えっての筋肉ゴリラ!!」
ケンはマチの抱擁に肋骨を軋ませながらも、歓声の渦の中で、確かな手応えを感じていた。
赤の国の熱狂、紫の国の暗躍、そして緑の国の決意。
半年後の『模擬・天律戦』に向けた巨大な歯車が、音を立てて回り始めている。
だが今はただ、この勝利の美酒と、戦友たちの笑顔に身を委ねよう。
ケンの黄金の瞳は、さらなる高みを見据え、熱く静かに燃え続けていた。




