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第20話 白衣のメスと舞い降りる勇者


「……ドンジャラ。治療の陣(青・緑混合)、十二点」 静謐なる宣告が、血塗られた地下闘技場に響き渡った。 

狼男――いや、かつて青の国で名医と謳われたアロンが、自らの手牌を静かに卓上に並べた。

青の僧侶と緑の魔法使いが織りなす、流れるように美しい陣形。


「チッ……! またか……!」 

ハイオークが苛立たしげに点棒を放り投げる。


「……ありえない。僕の計算を、またしても……」

 神童が、自らの指を噛みちぎらんばかりに噛みながら、驚愕に目を見開いた。 

アロンが牙を剥いて本性を現してから、卓の支配権は完全にこの「白衣の獣」へと移っていた。 

連勝。連勝。また連勝。 彼のプレイングは、荒々しい獣のそれとは対極にあった。相手の打牌から思考のカルテを読み取り、手牌の弱点(患部)を見つけ出し、最も致命的なタイミングで当たり牌という「メス」を入れる。


 神童の確率計算すらも、アロンにとっては「患者の心拍数」程度のデータに過ぎない。計算を逆手に取り、神童が安全だと錯覚した牌を狙い撃つ。


 そして、何よりも周囲を驚愕させたのは、アロンの「肉体の変化」であった。


「……ドンジャラ。生命の息吹(桃・緑混合)、十五点」 

アロンが和了あがりを重ねるごとに、彼の体を覆っていた漆黒の剛毛が、パラパラと灰のように抜け落ちていくのだ。

 鋭利な鉤爪は丸みを帯びた人間の指先へ。引き裂かれたような獣の口吻は、理知的な唇へ。濁った黄色の瞳は、深く澄み切った黄金色へと戻っていく。


 連勝の興奮で獣化するはずだった彼が、逆に「人間」の姿を取り戻していく。それは、彼の中の『名医としての理性』が、呪われた『獣の衝動』をドンジャラという究極の集中力によって完全に制圧し、調伏ちょうぶくした証であった。


 数時間後。アロンの勝利数が『六十』に達した時。 そこに座っていたのは、血の匂いを纏う狼男ではなく、上等なスーツを完璧に着こなした、隙のない紳士の姿だった。


「……美しい」

 ケンは、自分の持ち点が削り取られていくのも忘れ、アロンの洗練された手つきに見惚れていた。 一切の無駄がない洗牌シーパイ。牌を積む際の、ミリ単位の狂いもない動作。そして、相手の命を刈り取る時の、慈愛すら感じさせる静かな発声。


 それは三十九年間、薄暗い物流倉庫でひたすら段ボールを積み上げてきたケンにとって、生涯で初めて触れる「究極の職人技アート」であった。 魅了されていたのは、ケンだけではない。


「……」

 神童もまた、己の敗北が続いているにも関わらず、アロンの打牌から目が離せなくなっていた。 今まで、彼にとってドンジャラはただの「退屈な確率計算」であり、対戦相手は「自分より劣った数字の塊」に過ぎなかった。


 だが、今、目の前にあるのはどうだ。 ただの確率論では絶対に導き出せない、人間の「生と死」の狭間を縫うようなアロンの芸術的な一打。そして、泥水に顔を突っ込みながらも、異常な記憶力と執念で食らいついてくる鈴木ケンの泥臭い一打。 それらは、神童の知る「数式」よりも遥かに複雑で、恐ろしく、そして……圧倒的に『美しかった』。


     * * *


「オイ、三十路ノ男」

 アロンとケンの存在感に圧倒され、完全に卓の中で置いてけぼりを食らっていたハイオークが、焦りを隠せない声でケンに語りかけた。


「何ヲ澄マシタ顔ヲシテイル。オ前ノせいで、アノ村ノ人間ハ……小サナニーナハ、俺タチニ肉片ニサレタノダゾ。悲鳴ヲ上ゲテ、許シテト泣イテイタゾ……!」

 再びケンのトラウマを抉り、盤面を乱そうとする低俗な盤外戦術。 しかし、ケンは牌から一切視線を外さず、淡々と答えた。

「……そうか。痛かっただろうな」

「ナッ……?」


 予想外の冷静な返答に、ハイオークが戸惑う。


「俺が弱かったから、あの子たちは死んだ。その事実は、死ぬまで俺の背中に張り付いている。……だからなんだ?」

 ケンは、初めてゆっくりと顔を上げ、血走った目でハイオークを射抜いた。

「俺は、その後悔から逃げたくて震えていた。だが……アロンのあの美しい手つきを見ていたら、自分の浅ましさが恥ずかしくなったよ」

 アロンは、医者として救えなかった命の重さを背負いながら、己の狂気を制御してこの卓に座っている。それに比べれば、ケンのトラウマなど、ただ現実から目を背けているだけの子供の言い訳だ。


「俺は、あの子たちの死を背負ったまま……この卓で、お前たちバケモノ全員を叩き潰す。俺の『棚卸し』を、もう二度と邪魔するな、豚」

 ケンの双眸に宿る、圧倒的な「覚悟」の光。

 その光に焼かれるように、ハイオークは息を呑み、巨体を縮こまらせた。

精神攻撃が完全に無効化された今、ただの牌効率しか持たない魔獣は、もはやこの狂気の卓において最も無力な存在エサへと成り下がった。 


    * * *


「……ドンジャラ。三色同盟、十点」

 ケンが和了りを決める。 精神の迷いが消えたケンの「全牌記憶」は、恐るべき精度でアロンの予測の裏をかき始めていた。 アロンが『名医』なら、ケンは『熟練の倉庫番』だ。 どんなに高度な手術の予測も、すべての部品(牌)の在庫状況と配置を完全に把握している倉庫番には通用しない。ケンはアロンの手術室から、必要なメスをことごとく先回りして隠してしまうのだ。 勝利数が動く。


 ケンの勝利数・五十八。 アロンの勝利数・六十二。 しかし、ケンは対局を重ねる中で、自らの手牌にある「奇妙な偏り」に気づき始めていた。

(……まただ。また、これが来た)

 ケンは、手牌の右端に鎮座する一枚の牌を見つめた。 黒い学生服を着た少年の絵柄――『白牌(勇者)』。 五百年前、この世界に「ドンジャラ」という平和のシステムをもたらした先代裁定者・田中勇を象った、万能の切り札。

 それが、どういうわけか、ここ十数局にわたって、ケンの配牌、あるいは第一ツモで必ず彼の手元に舞い降りてくるのだ。

(いくら何でも、確率的にあり得ない……。イカサマか? いや、この卓は青の国の魔法障壁で完全に監視されている。物理的なイカサマは不可能だ)


 ならば、これは何だ。 勇者の加護か。それとも、どん底の三十九歳に訪れた一生に一度の豪運か。 ケンは、サミーから渡された『田中の日記』の最後の一文を思い出していた。

『――この世界は、失敗作だ。佐藤を救えなかった俺に、平和を作る資格なんてなかった』


(田中勇……。あんたは、この狂った世界を作っちまったことを後悔して、死んでいった。そして俺は、あんたの遺したルールのせいで、目の前で命が奪われるのを見た)

 ケンは、白牌を指の腹で強く擦った。

(あんたの遺志システムが俺にこの牌を寄越してるって言うなら……使わせてもらうぜ。この狂った蠱毒を終わらせるために!)

 白牌(勇者)は、他のどの属性にも属さないが、どの属性とも組み合わせることができる『ジョーカー』だ。 この万能牌が必ず手元にあることで、ケンの戦術の幅は爆発的に広がった。守り一辺倒の棚卸しから、アロンや神童を直接叩き潰す「攻撃的」な陣形構築が可能になったのだ。


「……リーチ」 ケンが宣言する。


「ほう。この私に対して、真っ向から勝負を挑むか。……三十九歳の凡人よ」


 アロンが、静かに微笑んで牌を捨てる。

「……ドンジャラだ、名医」

 ケンが手牌を倒す。


「勇者集結(白・赤・青混合)。二十点」

「……見事な執刀だ。私のメスより、ほんの僅かに君の泥臭さが勝ったな」

 アロンは悔しがるどころか、自らの患者の回復を喜ぶ医者のように、満足げに目を細めた。


     * * *


「……ククッ、アハハハハハ!」


 突如として、神童が狂ったように笑い出した。 その笑い声は、今までの彼が張り付けていた「他人を見下す傲慢な天才」の殻が、粉々に砕け散る音だった。


「……何がおかしい、ボウズ」 

ケンが警戒して尋ねる。

「おかしいさ! 最高におかしいよ! なんだよ、この卓は! なんだよ、ドンジャラって……こんなに面白いゲームだったのかよ!!」 神童は、前髪を乱暴にかき上げ、目を見開いて二人を見据えた。 その瞳には、もはや退屈の欠片もない。あるのは、初めて自分と同等、いや、それ以上の怪物に出会ったことへの強烈な『歓喜』だった。 彼はずっと、退屈だった。 周りの大人はすべてバカに見えた。確率計算さえしていれば、誰にも負けなかった。だから、この世界そのものを破壊して、新しい暇つぶしを探そうとした。 だが、違った。 自分の計算を上回る、人間と獣の境界を越えたアロンの『究極の美』。 天才の確率論を、三十九年分の泥臭い経験と記憶力で叩き潰すケンの『究極の凡』。「僕はずっと、数字遊びをしてるだけだったんだ。相手の命の重さも、覚悟も、何一つ見ようとしていなかった」 神童は、両手で自らの頬をバチンと強く張り飛ばした。 赤く腫れた頬。だが、その表情には、年齢相応の純粋な闘志と、真の天才としての恐るべき牙が剥き出しになっていた。「おじさん。アロン。……君たちを、数字の塊だなんて言ったことは謝る。君たちは、僕の人生で最高の『好敵手ライバル』だ」 神童の手つきが変わった。 今までの、ただ確率だけを追う機械的な動きではない。 ケンの「記憶」の死角を突き、アロンの「心理の隙」に潜り込む、血の通った、泥臭くも圧倒的に美しい打牌。「……行くよ。僕の、本当のドンジャラを」 ケン、アロン、そして覚醒した神童。 ハイオークが完全に脱落した蠱毒の底で、真の怪物たちによる三つ巴の死闘が、臨界点を超えて加速していく。 ケンの勝利数・七十。 アロンの勝利数・七十二。 神童の勝利数・六十五。 百勝先取の天律戦。 最後の一人になるまで、もう誰の思考も止まらない。

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