表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/86

第19話 白衣の獣と抉られる記憶


「……ドンジャラ。叡智の書(青純正)」


 静かな発声と共に、鈴木ケンが手牌を倒した。

 卓上に並べられたのは、青の属性で統一された美しい陣形だった。


「チッ……! またかよ、クソッ!」

「……ありえない。僕の計算では、その牌は完全に死に牌だったはずなのに……!」


 バーサーカーと化した狼男が唸り、神童が整った顔を歪めて爪を噛む。

 決勝卓が始まってから数十時間。序盤こそ神童の独壇場だったが、状況は完全にひっくり返っていた。

 神童の勝利数・四十八。ハイオーク・十五。狼男・八。

 そして、鈴木ケン――四十九勝。


 ついに、ケンがトップに躍り出たのである。


(青の賢姫が二枚。水聖が一枚。……大盗賊がいない分、山に残る牌の偏りが変わっている。なら、今の待ちはここだ)


 ケンの双眸は濁りきり、目の下にはどす黒い隈が張り付いていたが、その脳内にある『物流倉庫』の棚は、かつてないほどの精度で整理されていた。

 八十三枚の牌の行き先を一つ残らず記憶し、神童の「理にかなった美しい確率計算」の裏をかく。神童が絶対に安全だと弾き出した牌こそが、ケンが待ち構える泥沼のトラップだった。


「どうした、ボウズ。計算機がショートしたか?」

 ケンが血走った目で睨みつけると、神童はギリッと歯軋りをした。


 天才ゆえの脆さ。神童は、盤面を「完璧な数式」として捉えすぎている。だからこそ、四十年間ひたすらに理不尽なエラー(上司の理不尽や急なシフト変更)に耐え、それを泥臭いマンパワーでカバーし続けてきたケンの「定石外の粘り」というノイズに、彼のアルゴリズムは完全に狂わされていた。


「……グルォォ。人間ノ分際デ、調子ニ乗ルナ」


 その時、卓を囲む重苦しい空気を切り裂くように、ハイオークが低い声で唸った。

 三メートル半の巨躯を揺らし、彼は黄ばんだ牙を剥き出しにしてケンをねめつけた。魔獣の中では異例の知能を持つハイオークだが、それはあくまで「ドンジャラの牌効率」に特化した知能だ。定石を崩し、泥水に引きずり込むようなケンの戦い方に、彼は最も対応しきれずにいた。


「オ前ノ顔、見覚エガアルゾ」

 ハイオークが、豚に似た鼻をヒクつかせた。

「俺ノ同胞……カナン村ヲ食イ荒ラシタ、オークキングカラ聞イタ。美味ソウナ、三十路ノ男ガイタト」


 その言葉を聞いた瞬間、ケンの心臓が冷水をぶっかけられたように縮み上がった。

 指先が硬直する。


「アノ村ノ人間ハ、上等ナ肉ダッタソウダ。特ニ、小サナ雌ガナ。泣キ叫ビナガラ、オ前ノ名前ヲ呼ンデ……」


「……やめろ」

 ケンの喉から、掠れた声が漏れた。

 脳内の物流倉庫が、激しい地震に見舞われたかのように揺らぐ。綺麗に整理されていた牌のデータが、棚からバラバラと崩れ落ちていく。


「オ前ガ『取引戦』デ負ケタカラ、アイツラハ食ワレタ。俺タチ魔獣ノ、腹ノ中ダ。……ソノ血塗レノ手デ、マダ牌ヲ握ルカ? 偽物ノ裁定者ヨ」

「やめろぉぉぉっ!!」


 ケンは卓を叩き、絶叫した。

 視界が真っ赤に染まる。ニーナの千切れた首飾りが、村人たちの悲鳴が、雨の森の絶望が、容赦なくケンの精神を凌辱していく。


「ヒヒッ……! 隙ダラケダ!」

 ハイオークが凶悪な笑みを浮かべ、強烈な打牌で『赤の剣聖』を河に叩きつけた。

「――リーチ。サア、ドレガ危険牌カ、読ンデミロ」


 ドンジャラにおける最強の盤外戦術。

 精神の古傷をえぐり、冷静な思考を奪い、確率計算を破綻させる。

 ケンの手は激しく震え、牌を引くことすらままならない。記憶が飛んでいる。安全な牌がどれかわからない。


(どうする……どれを捨てればいい……!? 読めない、思い出せない……!)

 ケンの額から滝のような汗が流れ落ちる。

 神童が「ざまあみろ」とでも言いたげな冷たい笑みを浮かべ、ハイオークが舌舐めずりをした。


 その、絶望的な緊迫感の中だった。


「……随分と、品のない盤外戦術ですね」


 低く、しかし驚くほど澄んだ声が、卓の上に落ちた。

 声の主は――右手に座る、狼男だった。


     * * *


「……やはり。あの男、ただ獣の本能で暴走しているわけではありませんね」


 遥か上層の執務室。水晶玉を見下ろすサミー・アルカナムの瞳が、面白そうに細められた。


「サミー様。狼男は連敗のストレスで獣化が進み、理性を失っているのでは?」

 副団長のベガが訝しげに尋ねる。

 確かに、水晶玉に映る狼男の肉体は、すでに人間のそれから大きく逸脱していた。全身を覆う黒い剛毛、鋭く伸びた鉤爪、そして引き裂かれた口から覗く鋭い牙。誰がどう見ても、殺戮の快楽に支配された狂暴な獣だ。


「ええ。肉体は、確かに獣のそれです。ですが……彼の『眼』を見てごらんなさい」

 サミーが扇で水晶玉を指す。


 ベガが目を凝らすと、息を呑んだ。

 獣と化した狼男の顔に埋め込まれた二つの眼球。それは、獲物を狙う野獣のギラつきでも、狂気による濁りでもなかった。

 極限まで冷たく、静かで、底知れない知性を湛えた――まるで精密なメスを握る外科医のような、恐ろしいほど澄み切った瞳だったのだ。


「彼がただの獣なら、とうにこの闘技場の肥料になっていますよ。……彼こそが、この決勝卓において最も警戒すべき『異端』です」

 サミーは目を細め、遠い過去を思い出すように語り始めた。


「彼の本名は、アロン。かつてこの青の国で、右に出る者はいないと謳われた天才的な名医でした」

「……名医、ですか? あの男が?」


「そうです。彼は魔法と医術を組み合わせ、多くの人々の命を救いました。一時期は、この私の専属医を務めていたこともあるほどです」

 サミーの言葉に、ベガは驚きを隠せなかった。


「アロンは誰よりも命を尊び、高潔な精神を持っていました。ですが……医者という職業は、時に残酷です。どれほど手を尽くしても、こぼれ落ちていく命がある。天律のルール(ドンジャラ)による合法的な搾取で、貧しさゆえに薬を買えず死んでいく子供たち。彼は、この世界の構造そのものに絶望し始めていました」


 サミーは扇をピシャリと閉じた。

「そして、ある満月の夜。彼の心に巣食った『絶望』という魔に目をつけ、彼に接触した男がいました」


「男……?」

「ええ。彼に『狼男』としての呪われた力と……天律を破壊するための、圧倒的なドンジャラの才を与えた男」

 サミーの脳裏に、紫の国を統べるあの美しい銀髪の青年の顔がよぎった。だが、彼女はそれを口にはしなかった。


「アロンは、医者として人を救うことを諦めました。そして、狼の皮を被った『死神』となった。満月の夜に現れては、貧者を搾取する悪徳な領主や高利貸しに賭けドンジャラを仕掛け、すべてを奪い取ってからその肉体を解体ぎゃくさつして回ったのです」


 サミーは、再び水晶玉へと視線を戻した。

「彼の恐ろしさは、獣の膂力ではありません。その獣性を、狂いなき『名医の理性』で完全にコントロールしていることです。……さあ、見物ですよ。神童の計算も、ハイオークの盤外戦術も、彼という真の怪物メスの前では……ただの解剖対象でしかありません」


     * * *


「……品がない、ダト?」

 ハイオークが、ギリッと牙を鳴らして狼男アロンを睨みつけた。

「獣ノ分際デ、俺ノ戦術ニ口出シヲスルカ。オ前モ、コノ人間ドモト同ジヨウニ食イ散ラカシテ……」


「黙りなさい」


 アロンの声は、決して大きくはなかった。

 だが、その一言に込められた絶対的な零度の殺気に、三メートル半のハイオークがビクッと肩を震わせ、言葉を失った。


 アロンは、鋭い鉤爪の生えた指先で、自分の手牌をゆっくりと撫でた。

「ドンジャラは、命のやり取りを卓上に落とし込んだ、神聖なる疑似的な外科手術だ。相手の腹を切り裂き、臓腑の構造(手牌)を読み解き、最も的確な位置にメスを入れる。……貴様のような下劣な豚が、泥靴で踏み荒らしていい領域ではない」


 アロンの冷たい黄金色の瞳が、ハイオークを射抜く。

 その瞬間、ハイオークは自分が『捕食者』ではなく、手術台の上に縛り付けられた哀れな『解剖体マウス』になった錯覚に陥った。


「ヒッ……!」

 ハイオークが、ドンジャラの卓に座って初めて『恐怖』に顔を引きつらせた。


「君の待ちは、赤の剣聖。……そして、裏をかいたつもりの黄の爆破」

 アロンは、淡々と、まるでカルテを読み上げるように宣告した。

「だが、すでに致命傷だ。君の切り出した牌の並びには、恐怖による血の匂いがこびりついている」


 アロンの右手が、ゆっくりと牌の山に伸びる。

 神童が息を呑み、トラウマで震えていたケンすらも、その圧倒的な存在感に目を奪われた。


「……ドンジャラ」


 アロンが、静かに手牌を倒した。

「冥界の門(灰純正)。そして……黒牌(魔王)を含めた、二十四点」


 卓の中央に置かれたのは、禍々しい王冠を被ったドクロの牌。

 それは、ハイオークが「絶対に安全だ」と確信して抱え込んでいた牌の、完全なる直撃ロンだった。


「ガ、アァァァッ……!?」

 ハイオークが、心臓を直接握り潰されたかのように胸を押さえ、大量の汗を噴き出した。


 一撃。たった一撃で、アロンは卓の支配権を完全に奪い取った。


「ば、馬鹿な……」

 神童が、震える声で呟いた。

「僕の計算では、おワンちゃんはもう疲労と怒りで思考が崩壊していたはずだ……! どうして、そんな完璧な陣形を組める……!?」


「計算、か。子供の遊びだな」

 アロンは、獣の相貌に、不釣り合いなほど知的な冷笑を浮かべた。

「人の命の重さも、臓物の温かさも知らないガキの数式など、臨床じっせんの前では紙屑同然だ。私が今まで暴走しているように見えたのは……君たちの『死に至る病(思考の癖)』を、ゆっくりと診断かんさつさせてもらっていただけのこと」


 狼男の勝利数は、いつの間にか「三十」に達しようとしていた。

 ケンたちの攻防の裏で、彼は全く気取られることなく、外科手術のように精密に、静かに点数を積み上げていたのだ。


「さあ、オペの続きを始めようか」

 アロンが、血に飢えた獣の顔で、しかし極めて優雅な所作で洗牌シーパイを始める。

「神童。豚。そして……三十九年間の絶望を背負った、名もなき患者(裁定者)よ。君たちの命の重さを、私のメスで量ってやろう」


 ケンは、震える手で自分の両頬を激しく叩いた。

 痛みが、ハイオークにえぐられた村のトラウマを一時的に吹き飛ばす。

(……負けられない。村の人たちを食った魔獣にも、こんな狂った獣の医者にも……!)


 ケンの勝利数、四十九。

 神童の勝利数、四十八。

 アロンの勝利数、三十。

 ハイオークの勝利数、十五。


 地下闘技場の百勝先取。

 本性を現した白衣の獣が参戦し、血みどろの決勝戦は、いよいよ四つ巴の真のクライマックスへと突入していく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ