第19話 白衣の獣と抉られる記憶
「……ドンジャラ。叡智の書(青純正)」
静かな発声と共に、鈴木ケンが手牌を倒した。
卓上に並べられたのは、青の属性で統一された美しい陣形だった。
「チッ……! またかよ、クソッ!」
「……ありえない。僕の計算では、その牌は完全に死に牌だったはずなのに……!」
バーサーカーと化した狼男が唸り、神童が整った顔を歪めて爪を噛む。
決勝卓が始まってから数十時間。序盤こそ神童の独壇場だったが、状況は完全にひっくり返っていた。
神童の勝利数・四十八。ハイオーク・十五。狼男・八。
そして、鈴木ケン――四十九勝。
ついに、ケンがトップに躍り出たのである。
(青の賢姫が二枚。水聖が一枚。……大盗賊がいない分、山に残る牌の偏りが変わっている。なら、今の待ちはここだ)
ケンの双眸は濁りきり、目の下にはどす黒い隈が張り付いていたが、その脳内にある『物流倉庫』の棚は、かつてないほどの精度で整理されていた。
八十三枚の牌の行き先を一つ残らず記憶し、神童の「理にかなった美しい確率計算」の裏をかく。神童が絶対に安全だと弾き出した牌こそが、ケンが待ち構える泥沼のトラップだった。
「どうした、ボウズ。計算機がショートしたか?」
ケンが血走った目で睨みつけると、神童はギリッと歯軋りをした。
天才ゆえの脆さ。神童は、盤面を「完璧な数式」として捉えすぎている。だからこそ、四十年間ひたすらに理不尽なエラー(上司の理不尽や急なシフト変更)に耐え、それを泥臭いマンパワーでカバーし続けてきたケンの「定石外の粘り」というノイズに、彼のアルゴリズムは完全に狂わされていた。
「……グルォォ。人間ノ分際デ、調子ニ乗ルナ」
その時、卓を囲む重苦しい空気を切り裂くように、ハイオークが低い声で唸った。
三メートル半の巨躯を揺らし、彼は黄ばんだ牙を剥き出しにしてケンをねめつけた。魔獣の中では異例の知能を持つハイオークだが、それはあくまで「ドンジャラの牌効率」に特化した知能だ。定石を崩し、泥水に引きずり込むようなケンの戦い方に、彼は最も対応しきれずにいた。
「オ前ノ顔、見覚エガアルゾ」
ハイオークが、豚に似た鼻をヒクつかせた。
「俺ノ同胞……カナン村ヲ食イ荒ラシタ、オークキングカラ聞イタ。美味ソウナ、三十路ノ男ガイタト」
その言葉を聞いた瞬間、ケンの心臓が冷水をぶっかけられたように縮み上がった。
指先が硬直する。
「アノ村ノ人間ハ、上等ナ肉ダッタソウダ。特ニ、小サナ雌ガナ。泣キ叫ビナガラ、オ前ノ名前ヲ呼ンデ……」
「……やめろ」
ケンの喉から、掠れた声が漏れた。
脳内の物流倉庫が、激しい地震に見舞われたかのように揺らぐ。綺麗に整理されていた牌のデータが、棚からバラバラと崩れ落ちていく。
「オ前ガ『取引戦』デ負ケタカラ、アイツラハ食ワレタ。俺タチ魔獣ノ、腹ノ中ダ。……ソノ血塗レノ手デ、マダ牌ヲ握ルカ? 偽物ノ裁定者ヨ」
「やめろぉぉぉっ!!」
ケンは卓を叩き、絶叫した。
視界が真っ赤に染まる。ニーナの千切れた首飾りが、村人たちの悲鳴が、雨の森の絶望が、容赦なくケンの精神を凌辱していく。
「ヒヒッ……! 隙ダラケダ!」
ハイオークが凶悪な笑みを浮かべ、強烈な打牌で『赤の剣聖』を河に叩きつけた。
「――リーチ。サア、ドレガ危険牌カ、読ンデミロ」
ドンジャラにおける最強の盤外戦術。
精神の古傷をえぐり、冷静な思考を奪い、確率計算を破綻させる。
ケンの手は激しく震え、牌を引くことすらままならない。記憶が飛んでいる。安全な牌がどれかわからない。
(どうする……どれを捨てればいい……!? 読めない、思い出せない……!)
ケンの額から滝のような汗が流れ落ちる。
神童が「ざまあみろ」とでも言いたげな冷たい笑みを浮かべ、ハイオークが舌舐めずりをした。
その、絶望的な緊迫感の中だった。
「……随分と、品のない盤外戦術ですね」
低く、しかし驚くほど澄んだ声が、卓の上に落ちた。
声の主は――右手に座る、狼男だった。
* * *
「……やはり。あの男、ただ獣の本能で暴走しているわけではありませんね」
遥か上層の執務室。水晶玉を見下ろすサミー・アルカナムの瞳が、面白そうに細められた。
「サミー様。狼男は連敗のストレスで獣化が進み、理性を失っているのでは?」
副団長のベガが訝しげに尋ねる。
確かに、水晶玉に映る狼男の肉体は、すでに人間のそれから大きく逸脱していた。全身を覆う黒い剛毛、鋭く伸びた鉤爪、そして引き裂かれた口から覗く鋭い牙。誰がどう見ても、殺戮の快楽に支配された狂暴な獣だ。
「ええ。肉体は、確かに獣のそれです。ですが……彼の『眼』を見てごらんなさい」
サミーが扇で水晶玉を指す。
ベガが目を凝らすと、息を呑んだ。
獣と化した狼男の顔に埋め込まれた二つの眼球。それは、獲物を狙う野獣のギラつきでも、狂気による濁りでもなかった。
極限まで冷たく、静かで、底知れない知性を湛えた――まるで精密なメスを握る外科医のような、恐ろしいほど澄み切った瞳だったのだ。
「彼がただの獣なら、とうにこの闘技場の肥料になっていますよ。……彼こそが、この決勝卓において最も警戒すべき『異端』です」
サミーは目を細め、遠い過去を思い出すように語り始めた。
「彼の本名は、アロン。かつてこの青の国で、右に出る者はいないと謳われた天才的な名医でした」
「……名医、ですか? あの男が?」
「そうです。彼は魔法と医術を組み合わせ、多くの人々の命を救いました。一時期は、この私の専属医を務めていたこともあるほどです」
サミーの言葉に、ベガは驚きを隠せなかった。
「アロンは誰よりも命を尊び、高潔な精神を持っていました。ですが……医者という職業は、時に残酷です。どれほど手を尽くしても、こぼれ落ちていく命がある。天律のルール(ドンジャラ)による合法的な搾取で、貧しさゆえに薬を買えず死んでいく子供たち。彼は、この世界の構造そのものに絶望し始めていました」
サミーは扇をピシャリと閉じた。
「そして、ある満月の夜。彼の心に巣食った『絶望』という魔に目をつけ、彼に接触した男がいました」
「男……?」
「ええ。彼に『狼男』としての呪われた力と……天律を破壊するための、圧倒的なドンジャラの才を与えた男」
サミーの脳裏に、紫の国を統べるあの美しい銀髪の青年の顔がよぎった。だが、彼女はそれを口にはしなかった。
「アロンは、医者として人を救うことを諦めました。そして、狼の皮を被った『死神』となった。満月の夜に現れては、貧者を搾取する悪徳な領主や高利貸しに賭けドンジャラを仕掛け、すべてを奪い取ってからその肉体を解体して回ったのです」
サミーは、再び水晶玉へと視線を戻した。
「彼の恐ろしさは、獣の膂力ではありません。その獣性を、狂いなき『名医の理性』で完全にコントロールしていることです。……さあ、見物ですよ。神童の計算も、ハイオークの盤外戦術も、彼という真の怪物の前では……ただの解剖対象でしかありません」
* * *
「……品がない、ダト?」
ハイオークが、ギリッと牙を鳴らして狼男を睨みつけた。
「獣ノ分際デ、俺ノ戦術ニ口出シヲスルカ。オ前モ、コノ人間ドモト同ジヨウニ食イ散ラカシテ……」
「黙りなさい」
アロンの声は、決して大きくはなかった。
だが、その一言に込められた絶対的な零度の殺気に、三メートル半のハイオークがビクッと肩を震わせ、言葉を失った。
アロンは、鋭い鉤爪の生えた指先で、自分の手牌をゆっくりと撫でた。
「ドンジャラは、命のやり取りを卓上に落とし込んだ、神聖なる疑似的な外科手術だ。相手の腹を切り裂き、臓腑の構造(手牌)を読み解き、最も的確な位置にメスを入れる。……貴様のような下劣な豚が、泥靴で踏み荒らしていい領域ではない」
アロンの冷たい黄金色の瞳が、ハイオークを射抜く。
その瞬間、ハイオークは自分が『捕食者』ではなく、手術台の上に縛り付けられた哀れな『解剖体』になった錯覚に陥った。
「ヒッ……!」
ハイオークが、ドンジャラの卓に座って初めて『恐怖』に顔を引きつらせた。
「君の待ちは、赤の剣聖。……そして、裏をかいたつもりの黄の爆破」
アロンは、淡々と、まるでカルテを読み上げるように宣告した。
「だが、すでに致命傷だ。君の切り出した牌の並びには、恐怖による血の匂いがこびりついている」
アロンの右手が、ゆっくりと牌の山に伸びる。
神童が息を呑み、トラウマで震えていたケンすらも、その圧倒的な存在感に目を奪われた。
「……ドンジャラ」
アロンが、静かに手牌を倒した。
「冥界の門(灰純正)。そして……黒牌(魔王)を含めた、二十四点」
卓の中央に置かれたのは、禍々しい王冠を被ったドクロの牌。
それは、ハイオークが「絶対に安全だ」と確信して抱え込んでいた牌の、完全なる直撃だった。
「ガ、アァァァッ……!?」
ハイオークが、心臓を直接握り潰されたかのように胸を押さえ、大量の汗を噴き出した。
一撃。たった一撃で、アロンは卓の支配権を完全に奪い取った。
「ば、馬鹿な……」
神童が、震える声で呟いた。
「僕の計算では、お前はもう疲労と怒りで思考が崩壊していたはずだ……! どうして、そんな完璧な陣形を組める……!?」
「計算、か。子供の遊びだな」
アロンは、獣の相貌に、不釣り合いなほど知的な冷笑を浮かべた。
「人の命の重さも、臓物の温かさも知らないガキの数式など、臨床の前では紙屑同然だ。私が今まで暴走しているように見えたのは……君たちの『死に至る病(思考の癖)』を、ゆっくりと診断させてもらっていただけのこと」
狼男の勝利数は、いつの間にか「三十」に達しようとしていた。
ケンたちの攻防の裏で、彼は全く気取られることなく、外科手術のように精密に、静かに点数を積み上げていたのだ。
「さあ、オペの続きを始めようか」
アロンが、血に飢えた獣の顔で、しかし極めて優雅な所作で洗牌を始める。
「神童。豚。そして……三十九年間の絶望を背負った、名もなき患者(裁定者)よ。君たちの命の重さを、私のメスで量ってやろう」
ケンは、震える手で自分の両頬を激しく叩いた。
痛みが、ハイオークにえぐられた村のトラウマを一時的に吹き飛ばす。
(……負けられない。村の人たちを食った魔獣にも、こんな狂った獣の医者にも……!)
ケンの勝利数、四十九。
神童の勝利数、四十八。
アロンの勝利数、三十。
ハイオークの勝利数、十五。
地下闘技場の百勝先取。
本性を現した白衣の獣が参戦し、血みどろの決勝戦は、いよいよ四つ巴の真のクライマックスへと突入していく。




