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第18話 決勝戦開始


 地下最下層の闘技場。

 分厚い魔法障壁で覆われたその空間は、冷たい石壁に囲まれ、外界から完全に隔絶された「世界の底」であった。


 鼻を突くのは、乾いた血の匂いと、行き場を失った絶望の臭気だ。

 壁際や隣の区画には、一回戦の「百勝先取」という狂気の耐久戦に敗れ、力尽きた者たちが転がっている。ある者は牌を握りしめたまま餓死し、ある者は精神を崩壊させて虚空を見つめ続けていた。

 この地下闘技場という名の『蠱毒こどく』において、敗者に与えられるのは死という絶対的な結末のみ。


 その地獄の中央に設えられた決勝卓に、生き残った四匹の「毒虫」が集っていた。


「あーあ、ようやく始まった。待ちくたびれたよ」


 まだあどけなさの残る十二、三歳の少年――かつて青の国で『神童』と謳われた天才犯罪者が、退屈そうに首をポキポキと鳴らした。

 彼は正面に座る鈴木ケンを一瞥し、小馬鹿にするように唇を歪めた。


「そこのおじさん。一回戦を抜けるのに『四日』もかかったんだって? 随分と要領が悪いんだね。僕なんてたったの『二日』で百勝しちゃってさ。残りの二日間、この血生臭い部屋でずっとヒマを持て余してたんだよ。ねえ、せめて僕の退屈しのぎくらいにはなってよ?」


 神童の言葉に、ケンは無言で視線を返した。

 四日間、不眠不休で泥仕合を制したケンの身体は限界に近かった。頬はこけ、目の下には濃い隈が張り付いている。

 対して神童の顔には、疲労の色など微塵もない。二日で百勝をもぎ取ったという事実は、彼の才能がいかに常軌を逸しているかを如実に物語っていた。


「グルォォ……!」

 ケンの左手で、三メートル半の巨躯を折りたたむように座る『ハイオーク』が、威嚇の低い唸り声を上げた。その双眸には、野生の破壊衝動ではなく、他者を蹂躙するための冷徹な理性が宿っている。


 そして、ケンの右手。

 そこに座るのは、上等なスーツを身に纏った壮年の男だった。

 男はハイオークの唸り声にも、神童の挑発にも一切の反応を示さない。ただ背筋を伸ばし、伏し目がちに卓の中央を見つめている。

 その佇まいは、まるで一流企業の重役か、あるいは教会の神父のように冷静沈着で、およそこの血塗られた地下闘技場には似つかわしくない。

 だが、彼こそが満月の夜に賭けドンジャラで村人を虐殺し尽くした『狼男』の化身だった。今は人間の姿を保ち、言葉数も極端に少ないが、彼の静かな呼吸の合間からは、隠しきれない濃厚な獣の臭いが漏れ出していた。


「――洗牌シーパイ


 開始の合図と共に、八十三枚の牌が卓上に並べられる。

 第一局。その展開は、あまりにも一方的だった。


「……ドンジャラ。叡智の書(青純正)、十点」


 開始からわずか四巡。神童が、退屈そうにあくびをしながら手牌を倒した。青の僧侶(賢姫・水聖・書僧)を三セット揃えた純正役だ。


「……」

 狼男は無言のまま、己の点棒を神童へと放り投げた。その動作は機械のように滑らかで、感情の揺れは一切見えない。

 だが、神童の猛攻は止まらなかった。


「ドンジャラ。三国志(赤・青・緑)、十八点」

「ドンジャラ。幻惑の宴(桃純正)、十点」


 続く第二局、第三局、第四局。

 神童は、息をするように当たり牌を引き入れ、他者の当たり牌を完璧に回避し続けた。


 彼の脳内で行われているのは、ドンジャラという遊戯を超越した『完全なる確率計算』であった。

 八十三枚という有限の牌。配牌の偏り、誰がどの順番で何を捨てたか、そして対戦相手の視線の動き。神童はそれら全ての情報を常人の数百倍の速度で処理し、山に眠る牌の並びを「透視」に近いレベルで予測していたのだ。


     * * *


「素晴らしいですね。やはり、彼の頭脳は我が国においてもずば抜けている」


 地下闘技場の遥か上層。王立図書館の最奥に位置する豪奢な執務室で、青の国の統治者サミー・アルカナムは、ワイングラスを傾けながら水晶玉を見下ろしていた。

 水晶玉には、決勝卓の様子が鮮明に映し出されている。


「神童の『計算予測』は、もはや未来予知の領域です。ハイオークの効率特化の打牌も、狼男の冷静な戦術も、神童の計算式の前では『ノイズの少ない綺麗なデータ』に過ぎない」

 サミーの背後に控える第一使節団副団長・ベガが、眼鏡を押し上げながら冷静に分析する。


「ええ。ですが、私の興味は彼ではありませんよ」

 サミーは扇で口元を隠し、水晶玉の隅に映る泥だらけの中年男――鈴木ケンへと視線を向けた。


「四日間の死闘を経て、さらにあの化け物たちと同じ卓に放り込まれる。常人であればとうに発狂して死を選んでいる状況です。さあ、裁定者殿。貴方はこの『蠱毒』の底で、どんな絶望を味合わせてくれるのでしょうか……」

 サミーの双眸には、極限状態の人間の心理を観察する、冷酷な研究者の悦びが宿っていた。


     * * *


「あーあ、つまんない。君たち、本当に一回戦を勝ってきたの?」


 対局開始から数時間が経過した頃、神童は椅子に深く背中を預け、長い睫毛を伏せた。

「ハイオーク。君は魔獣にしては頭がいいようだけど、所詮は『定石』通りにしか打てないね。効率を求めるあまり、君の待ちは確率論的に最も導き出しやすい。だから絶対に僕には勝てない」

「グルォォ……!」

 図星を突かれたハイオークが、太い腕の血管を怒張させ、低い咆哮を漏らす。


「スーツのワンちゃんはもっと酷い。最初は無口でクールぶってたけど、僕に点数を削られるたびに、呼吸が荒くなってるよ。ほら、手を見てごらんよ。爪、伸びてきてるんじゃない?」


 神童の嘲笑に、狼男の肩がピクリと跳ねた。

 見れば、彼が牌を握る右手の甲には、びっしりと黒い剛毛が浮き出し、指先は鋭い鉤爪へと変貌しつつあった。

 最初は冷静沈着だった狼男だが、神童の理不尽なまでの和了りを前に、己のプライドをズタズタに引き裂かれていたのだ。人間の理性が剥がれ落ち、内に眠る獣の殺意が沸騰し始めている。


「……殺ス」

 狼男の口から、初めて言葉が漏れた。それは人間の声帯ではなく、獣の喉から発せられた低く掠れた殺意だった。黄色く濁った眼球が、神童を食い殺さんばかりに睨みつける。


「暴力はルール違反だよ、ワンちゃん。大人しく卓の養分になって、干からびて死になよ」

 神童は冷酷に言い放つと、最後に視線を左へと向けた。

「で? そっちの冴えないおじさんは、どうしたの?」


 ケンは、目を半開きにしたまま、虚ろな表情で盤面を見つめていた。

 手牌の整理すらおぼつかず、ただ淡々と、機械のように牌をツモっては捨てる動作を繰り返している。


「なんだ、もう壊れちゃったのか。……まあいいや、邪魔にならないなら放っておこう」

 神童はケンへの興味を完全に失い、再び計算の海へと沈んでいった。


 ――しかし、神童は気づいていなかった。

 鈴木ケンという男の脳内で、今、何が起きているのかを。


(……赤の剣聖が二枚。緑の森姫が三枚出た。……紫の闇魔が、まだ一枚も見えていない……)


 ケンの意識は、この血生臭い地下闘技場にはなかった。

 彼の心は、薄暗く、広大で、埃っぽい『物流倉庫』の中にあった。

 四十年間、彼が青春のすべてを捧げ、理不尽な上司に怒鳴られながらも、毎日毎日、ただひたすらに耐え忍んで働き続けたあの場所。


 ケンの脳内に構築された巨大な棚には、AからIまでのインデックスが振られている。

 赤、青、緑、紫、橙、黄、灰、桃、水。九色の属性に分けられた棚に、捨てられた牌のデータが、フォークリフトで次々と格納されていく。


(狼男は、三巡前に『黄の爆破』を捨てた。だがその際、毛羽立った指先が微かに躊躇した。奴の狙いは黄純正じゃない。黄を囮にした、灰の『冥界の門』だ)

(ハイオークは徹底した効率主義。役の高さより上がりやすさを重視している。今、奴の手の中にあるのは、最も場に出ていない『桃の踊り子』のセット……)


 神童のやっていることは、華麗でエレガントな「高等数学」だ。

 対してケンのやっていることは、ひたすらに泥臭く、汗にまみれた「棚卸し」だった。

 八十三枚すべての牌を記憶し、誰が何を欲しているかを、一つ一つの箱の中身を確認するように照合していく。それは、常人であれば数十分で脳が焼き切れるほどの、圧倒的なメモリの無駄遣いである。


 だが、ケンは四十年間、この「無駄で辛いだけの作業」を、心を殺してやり続けてきたのだ。

 どんなに理不尽な状況でも、逃げ出さず、ただ目の前の棚と向き合う。

 天才の計算すら凌駕する、凡人の執念。


 対局開始から十時間が経過した。

 神童の勝利数はすでに三十を超え、ハイオークが五勝、狼男は完全に獣の咆哮を上げながら暴走気味に二勝をもぎ取っていた。

 ケンの勝利数は、未だに「ゼロ」だった。


「……リーチだ。さあ、誰が僕に振り込むのかな?」

 第七十三局。神童が、艶やかな手つきで牌を横に曲げた。

 その顔には、勝利を確信した傲慢な笑みが浮かんでいる。


(僕の待ちは『白牌(勇者)』と『赤の剣聖』のシャンポン待ち。ハイオークは絶対に手を出せない。狼男はすでに理性を失って突っ張っているから、遠からず当たり牌を掴む)


 神童の脳内スーパーコンピュータが弾き出した結論は、完璧だった。

 誰の目から見ても、神童の上がりは揺るぎないものに思えた。獣化した狼男が、荒い息を吐きながら『赤の剣聖』を引き当て、それを河に叩きつけた瞬間、神童は唇を吊り上げ、「ドンジャラ」と発声するために息を吸い込んだ。


「……ドンジャラ」


 だが、その言葉を発したのは、神童ではなかった。


「な……!?」

 神童が、初めて目を見開いて左を向いた。

 狼男が牌を捨てるより一瞬早く、ケンが静かに手牌を倒していたのだ。


「森の誓い(緑純正)、十点」


 ハイオークが安全牌だと思って捨てた、誰も警戒していなかった『緑の商人』。

 それを、ケンが正確に撃ち抜いていた。


「……ば、馬鹿な。おじさんの手牌、そんな役に向かっていなかったはずだ……! 僕の捨て牌の確率計算からは、絶対に導き出せない……!」

 神童が、初めて狼狽した声を上げた。


 無理もない。ケンの捨て牌は、神童の予測計算を完全に狂わせる、デタラメなものだったからだ。

 ケンは、自分の手牌の効率など一切考えていなかった。

 彼はただ、「神童が上がりそうなタイミング」に合わせ、物流倉庫の棚から「最も安全で、かつ神童の計算外になる牌」を拾い集め、泥臭く役を組み立てていただけなのだ。


「……計算通りにいかなくて、腹が立つか? ボウズ」

 ケンは、血走った目で神童を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳の奥には、四十年間、社会の底辺で泥水をすすってきた大人の、凄まじい執念が燃えたぎっていた。


「俺は頭が悪いから、お前みたいな綺麗な計算はできない。だから……全部覚えて、全部の棚をひっくり返して、泥んこになりながらお前の足首を掴んでやるよ」


 一勝目。

 しかし、その一勝は、神童の「絶対の計算」というガラスの城に、決定的なヒビを入れた。

 水晶玉越しに見下ろすサミーが、扇の奥で小さく息を呑む。

 ハイオークが驚愕に目を丸くし、完全な獣と化した狼男が、ケンの発する異様な気迫に気圧されて低く喉を鳴らした。


「……ふざけるな。ただのフロックだ。僕の計算が、こんな底辺の凡人に……!」

 神童が、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。


「さあ、次だ。……お前の才能と、俺の三十九年。どっちが根気があるか、朝まで数えようぜ」

 鈴木ケン、四十歳。

 蠱毒の底の決勝卓で、反撃の狼煙が、静かに、そして泥臭く上がった。

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