第17話 幻の宮廷料理と蠱毒の怪物達
「……ケンさん。ケンさん、起きてください」
遠くで自分を呼ぶ声が聞こえた。泥のように重い瞼をこじ開けると、薄暗い石造りの天井と、
心配そうにこちらを覗き込む丸眼鏡の女性――シズクの顔があった。
「……あ……俺は……」
「無事に一回戦を突破されたんですよ。サミー様から、勝ち上がった四名には二十四時間の休息が与えられています。もう丸一日近く眠っていましたよ」
体を起こそうとして、ケンは顔をしかめた。百時間以上に及ぶ、不眠不休のドンジャラ。三十九年間の物流倉庫勤務でも経験したことのない、骨の髄まで軋むような疲労感だった。
眠っていたはずなのに、脳裏には未だに八十三枚の牌がひしめき合い、カチャカチャという乾いた音が幻聴となって耳にこびりついている。
「何か食べないと、次の戦いに持ちません。これ、作ってきたんです」
シズクがベッドの脇の木箱を開けると、ふわりと芳醇な香りが漂った。そこには、透き通った黄金色のスープと、見たこともない香草で煮込まれた柔らかな肉料理が湯気を立てていた。
一口スープを飲んだ瞬間、ケンの全身を雷に打たれたような衝撃が走った。
「……ッ、なんだこれ。すげえ旨い……それに、体の奥から熱が……」
「ふふっ、特製のスタミナ料理です。疲労回復と魔力回路の修復に凄く効くんですよ」
肉を飲み込むたびに、焼き切れる寸前だった脳の疲労が嘘のように引いていく。冷え切っていた指先に力が戻り、濁っていた視界がクリアになっていくのがわかった。
「……ただの料理じゃないな。薬膳か何かか?」
「実はこれ、かつてこの地にあった『白の国(アルカナ王国)』の宮廷で振る舞われていた、秘伝のレシピなんです」
シズクの言葉に、ケンは食事の手を止めた。白の国。五百年前、田中勇が仲間たちと共に魔王から守った国、その後の後継者争いの中で歴史の闇に消えたという幻の国家。
「……そんな失われたはずのレシピを、どうしてあんたが知ってるんだ?」
ケンの真っ直ぐな問いに、シズクは一瞬だけ、その丸眼鏡の奥の瞳を冷ややかに揺らした。
しかし、次の瞬間にはいつもの「ドジでおっちょこちょいな司書」の笑顔を顔に貼り付けていた。
「あ、あはは! 図書館の司書を舐めないでくださいね。地下書庫の奥深くに眠っていた埃まみれの禁書の中から、私が執念で復活させたんです! もー、古代文字を解読するの、本当に大変だったんですから!」
「……そうか。ありがとう、助かったよ」
ケンはそれ以上追及せず、残りのスープを飲み干した。彼女の言葉には不自然な点があったが、この殺伐とした青の国において、彼女が自分を気遣ってくれていることだけは確かな事実だったからだ。
* * *
休息の終わりを告げる、重苦しい鐘の音が地下施設に響き渡った。シズクに見送られ、ケンは再び決戦の地である地下闘技場へと足を踏み入れた。
会場へ向かう通路で、ケンは思わず足を止めた。隣の区画――一回戦でケンが戦っていた卓の向こう側。
そこには、百勝に届かず敗退した者たちの姿があった。ある者は卓に突っ伏したまま動かず、ある者は牌を握りしめたまま、枯れ木のように干からびて息絶えていた。彼らの目と口は見開かれ、絶望の中で命を散らしたことがありありと窺えた。
「……これが、蠱毒の敗者か」
この地下闘技場で生き残れるのは、ただ一人。敗者には文字通り「死」しか与えられない。ケンは拳を強く握り込み、立ち込める死臭と血の匂いを振り切るように、決勝戦の卓へと向かった。
中央の卓には、一回戦を勝ち抜いた三人の怪物が既に腰を下ろしていた。
「……お前が、あのザコ共の卓を抜けてきた人間か。随分と貧相ななりをしているな」
野太く、しかし知性を感じさせる声。一人目は、カナン村を滅ぼしたオークキングのさらに上位個体――『ハイオーク』だった。
三メートル半を超える巨躯を折り曲げるようにして卓についているが、その双眸には野蛮な破壊衝動ではなく、冷徹な計算と理性が宿っている。ケンの最大のトラウマの具現化だ。
二人目は、端正な顔立ちをした壮年の男だった。
「ククク……怯えるなよ。俺は今はおとなしい人間だからな」男が笑うと、その周囲からむせ返るような獣の血生臭さが漂った。
彼はかつて満月の夜、賭けドンジャラを仕掛けては村人を虐殺し尽くしたという『狼男』の化身だった。
普段は人間の姿だが、連勝して興奮状態に陥ると、徐々にその肉体を凶悪な獣へと変貌させていくという。
そして、三人目。ケンが最も驚愕したのは、正面に座る対戦相手の姿だった。
「……子供?」
「失礼だね、おじさん。僕のことは『神童』とでも呼んでよ」
そこにいたのは、まだ十二、三歳にしか見えないあどけない少年だった。しかし、その瞳には年齢に不釣り合いなほどの深い退屈と、他者を見下す傲慢さが張り付いている。彼はかつて『ドンジャラの神童』と謳われながら、あまりに高すぎる才能ゆえに既存のルールに飽き足らず、青の国の中枢に対してクーデターを企てたという、最悪の天才犯罪者だった。
「ハイオークも、お腹を空かせたワンちゃんも、僕にとってはただの数字の塊だよ。おじさんも、早くその席についてよ。僕の退屈を、少しは紛らわせてくれるのかな?」
神童の冷酷な視線がケンを貫く。ハイオークの理知的な威圧、狼男の底知れぬ殺気、そして神童の圧倒的な才能。誰一人として、まともな人間はいない。(……やるしかない。俺は、もう二度と目を背けないと決めたんだ)水晶玉越しにサミー・アルカナムが愉悦の笑みを浮かべて見下ろす中、四十歳の元・物流倉庫作業員は、静かに椅子を引いた。
「――洗牌」
死を賭した蠱毒の底で、最後に生き残る一匹を決める狂気の最終戦が、今、静かに幕を開けた。




