第16話 蠱毒の卓と狂気
「……ドンジャラ。連撃、戦士揃い」
鈴木ケンの静かな発声が、血と汗の臭いが充満する地下闘技場に響いた。
対局開始から三十五時間。百勝先取という狂気のルールの下、ケンがようやくもぎ取った初勝利だった。
「チッ……! まぐれ当たりしやがって、調子に乗んじゃねえぞオッサン!」
バーサーカーが苛立ちに任せて卓を殴りつける。
奴隷商人と大盗賊も、忌々しそうに舌打ちをした。彼らの目には、先程までのような「怯える獲物を甚振る余裕」は消え失せていた。
「ヒヒッ……まあいい。まだたったの一勝だ。俺たちはもう三十勝以上してんだからな」
奴隷商人が、歪んだ笑みを浮かべて洗牌を始める。
「それにしても、あのサミーってババアも悪趣味だよなァ。この十六人の中で、ここから出られるのはたった一人だけ。残りの十五人は……この地下で飢え死にするまで卓に縛り付けられるんだからなァ」
その言葉に、牌を並べていたケンの手がピタリと止まった。
「……なんだと?」
ケンは血走った目で、奴隷商人を睨みつけた。
「一人しか、出られない……? 負けたら、死ぬまでここから出られないのか!?」
「アァ? お前、聞いてなかったのかよ」
大盗賊が嘲笑う。
「そうだぜ。ここは『蠱毒』の壺だ。一番強い毒虫一匹だけを残して、あとは全部殺し合わせる。お前もその毒虫の一匹として放り込まれたってわけだ」
ドンジャラのルールを利用して人を陥れてきた極悪人たち。そして人間を食らう魔獣たち。彼らにとってこの戦いは、文字通りの『死闘』だったのだ。
だからこそ、彼らの打牌には、一牌ごとに自分の命を削るような執念と狂気が宿っている。
(負けたら、死ぬ……!)
カナン村での記憶が、再びケンの脳裏を掠める。
手が震えそうになる。だが、ケンは自分の太ももを力一杯つねって、その震えを無理やり止めた。
(顔を見るな。声を聞くな。相手が誰だろうが、命が懸かっていようが関係ない。俺が見るのは……卓の上の八十三枚の牌だけだ!)
ケンは再び、脳内に巨大な『物流倉庫』を構築した。
赤の属性はA棚へ。青の属性はB棚へ。
誰がどの牌を捨てたか、山に何が残っているか。それを一切の感情を交えず、ただひたすらに記憶し、整理し、棚卸しをしていく。
そこから先は、地獄のような泥仕合だった。
五十時間が経過し、七十時間が経過した。
不眠不休の戦いは、人間の精神を容赦なく削り取っていく。
「があああっ!! リーチだ、リーチ!! さっさと振り込めやァ!!」
バーサーカーが、よだれを垂らしながら絶叫する。彼の瞳孔は開ききり、思考は完全に停止していた。ただ本能のままに牌を叩きつけるだけの機械と化している。
「ヒッ、ヒヒ……! 俺の勝ちだ、俺がここから出るんだ……!」
奴隷商人も、幻覚を見ているのか、虚空に向かってブツブツと呟きながら牌を弄っている。
疲労によって極悪人たちの「心理戦」や「ブラフ」は完全に機能しなくなっていた。彼らの手牌は透け透けになり、危険牌を処理する思考力も残っていない。
だが、ケンだけは違った。
彼の目は虚ろに濁り、頬はげっそりとこけ落ちていたが、その手は機械のように正確に、最も安全な牌を切り出し続けていた。
「……ドンジャラ。魔術師揃い」
「……ドンジャラ。三色同盟」
四十三勝、五十八勝、七十二勝。
ケンは、自壊していく悪党たちから、淡々と、しかし確実に勝ち星を毟り取っていく。
物流倉庫での三十九年間。思考を殺し、ただ目の前の作業を淡々とこなし続ける「耐える力」。それこそが、この狂気の耐久戦において最大の武器となっていた。
* * *
その狂宴の様子を、王立図書館の最深部にある執務室から、サミー・アルカナムは水晶玉越しに冷徹に見下ろしていた。
「素晴らしいですね……。これほどまでに、美しく醜い泥仕合は見たことがない」
サミーは扇で口元を隠しながら、恍惚としたため息を漏らした。
「サミー様。鈴木ケンの勝数が九十を超えました。大盗賊の八十八勝を抜き、現在トップです」
傍らに立つ第一使節団副団長のベガが、手元の書類に目を落としながら報告する。
「まさか、あの凡人がここまで耐え抜くとはな」
腕を組んだ団長のシリウスが、モノクルの奥で目を細めた。
「だが、あの打ち方は異常だ。相手の心理を読むことを完全に放棄し、ただ盤面の情報だけを記憶し続けている。あんな真似を続ければ、遠からず脳が焼き切れるぞ」
「それで構いません」
サミーは冷たく言い放った。
「タナカ様が遺した日記を読んだ彼は、自分の無力さと、この世界の理不尽さに絶望している。その絶望の底で、極限の死闘(蠱毒)を味わわせる。……人間は、限界を超えた時にこそ、その本質(才能)を開花させるのですから」
サミーは水晶玉の中の、ボロボロになりながらも卓に座り続ける男を見つめた。
「さあ、見せてごらんなさい、裁定者殿。貴方が生き残るための、最後の牙を」
* * *
対局開始から、すでに八十時間が経過しようとしていた。
地下闘技場には、狂人のようなうめき声と、乾いた牌の音だけが響いている。
「……ドンジャラ」
ケンが、ひび割れた唇から声を絞り出した。
「単色陣……九十九勝目だ」
「う、がああああ!!」
ついに大盗賊の精神が崩壊し、卓の上の牌をメチャクチャに払い除けた。
だが、ケンは微動だにしなかった。
彼の脳内では、すでに次の局の、そして最後の『百勝目』をもぎ取るための棚卸しが始まっていた。
鈴木ケン、四十歳。
異世界のどん底で、彼は自らの命を懸けた蠱毒の底を、這い上がろうとしていた。




