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第10話 2年目の壁と825歳の覚悟


召喚から二年目の春。鈴木ケンは、緑の国の城内にある広大な訓練場に立っていた。

「それでは、これより緑の国・第三使節団の選抜試験、最終三次試験を開始する!」

副団長ルークの号令が、静まり返った会場に響き渡る。

この一年の間、ケンは地獄のような特訓を重ねていた。青の国の使節団に見せつけられた絶望。それを打ち消す唯一の方法は、牌を握り続けることだけだった。

現在、彼の公式ランクは『D』。一般兵士レベルではあるが、路地裏での野試合で磨いた「ババ抜きの直感」を武器に、並み居るエルフの若手打ち手たちをなぎ倒し、ついにこの最終試験まで辿り着いたのだ。

「おい新入り、顔色が悪いぞ。物流倉庫の夜勤明けみたいな顔してんな」

ケンの肩で、フェニクスがクスクスと笑った。

「……うるさい。これに受かれば、ようやく『使節団』の端くれだ。この世界で一人前だと認められるための、第一歩なんだよ」

ケンの前には、豪奢な木製テーブルと、裏返された八十三枚の牌が用意されていた。

そして、その対面に座ったのは、試験官である緑の国の王女、ティア・エバーグリーン。

「よくここまで残ったわね、ケン」

ティアの琥珀色の瞳は、いつになく冷たく、鋭かった。

「でも、ここからは遊びじゃない。使節団は、国家の命運を……時に誰かの命を懸けて卓に座る。私自身が、あなたにその資格があるかを見極めさせてもらうわ」

ゲームが始まった。

ケンは全神経を研ぎ澄ませ、ティアの観察に集中した。

(ティアはエルフだ。表情からは何も読めない。だが、俺の特技は人間観察だ。呼吸、指先の微かな動き、視線の配り方……どこかに必ず『欲』や『恐怖』の隙があるはずだ!)

ケンは必死にティアの「バグ」を探した。

しかし、数巡が過ぎた頃、ケンは底知れない恐怖に襲われた。

(……ない。何一つ、読めない)

ティアの指先は、まるで風に揺れる枝葉のように自然で、迷いがない。

彼女が牌を引く時、捨てる時。そこには勝負への執着も、負けることへの不安も、一切存在していなかった。あるのは、ただ淡々と、最善の陣形を組み上げるという「ことわり」だけ。

「どうしたの? 牌を引く手が止まっているわよ」

ティアが静かに告げた。その瞬間、ケンは自分の手が、かつて物流倉庫で重い荷物を支えきれずに震えていた時と同じように、ガタガタと震えていることに気づいた。

「……ドンジャラ」

静かな声と共に、ティアの手牌が倒された。

「森姫揃い、自然の加護。……これで三度目ね」

ケンの持ち点は、瞬く間に削り取られていった。

彼の「相手の醜い欲を読み取る」という三十九年分の人生経験は、八百二十五年という悠久の時を、世界樹と共に生きてきた王女の「無」の前では、全くの無力だった。

「……くそっ、なんでだ……! なんで一回も、振り込ませられない……!」

「ケン。あなたの目は、一体何を見ているの?」

ティアが、冷たく、射抜くような視線を向けた。

「あなたは相手の顔色ばかりを窺っている。相手が何を捨てたか、何を欲しがっているか。そればかりを気にして……自分の手牌と、自分の責任から逃げているわ」

「逃げてるって……俺は、あんたたちみたいに計算が速くないから、必死に読んでるんだよ!」

「いいえ。あなたは、負けた時に『相手が強すぎた』『相手が自分を騙した』と言い訳ができるように、外側ばかりを見ているのよ」

ティアは立ち上がり、卓の上の牌をバラバラに崩した。

「この世界でドンジャラを打つということは、相手の殺意と、自分の選択の重さに耐えるということ。……三年後にあなたが挑むのは、そんな生易しいものじゃない。魔王の末裔ヴェイル。そして、五百年もの恨みを抱き続けるサトウ。……彼らの前で、あなたはまた、相手の顔色を窺って震えるつもり?」

ケンの心臓が、ドクンと跳ねた。

「サトウ……?」

初めて聞く名に戸惑うケンを無視して、ティアは非情な宣告を下した。

「試験は不合格よ。あなたはまだ、公式戦の卓に座る資格はないわ」

ティアはそう言い残し、一度も振り返ることなく謁見の間を去っていった。

周囲の観衆からは、ため息と失笑が漏れる。

ケンは卓の前に一人取り残された。

(覚悟が、足りない……)

図星だった。自分はどこかで、この世界を「ゲームの延長」だと思っていた。自分が召喚された「特別な存在」だから、最後にはどうにかなるという甘えがあった。

「……言われたな、三十九歳」

ずっと沈黙していたフェニクスが、ケンの肩に飛び乗った。

「あいつの言う通りだ。お前は他人の顔色ばかり見て、自分の盤面……自分の人生から逃げている。それでは一生、タナカの遺したこの世界は救えないぞ」

ケンは、崩された牌を見つめた。

八百二十五年という時間を背負う覚悟。それに引き換え、自分は三十九年間、上司に怒られないように顔色を窺うだけの人生だった。

「……フェニクス」

ケンは、血の滲むような声で絞り出した。

「教えてくれ。俺はどうすれば……あいつらみたいになれる? 計算もできない、魔法も使えない俺が、どうやって天才たちに勝てるんだ」

「なれねえよ」

フェニクスは即答した。

「お前は凡人だ。だが、凡人には凡人の、狂った戦い方がある」

フェニクスの炎が、メラリと強く輝いた。

「天才たちが瞬時に計算する盤面を、お前は泥臭く、すべて『記憶』しろ。これまでに捨てられた全ての牌、山に残っているはずの全ての確率。それを脳髄に焼き付けろ。どんなプレッシャーの中でも、思考が止まらないほどの『狂気の記憶力』。それだけがお前の生き残る道だ」

すべてを記憶する。

八十三枚の牌の行方を、極限の死闘の中で一手の狂いもなく脳内に叩き込む。それは、凡人が天才に抗うための、あまりにも過酷な茨の道だった。

「……やってやるよ」

ケンは、震える手で牌を握りしめた。

「来年……三年目の試験で、必ず俺は……あいつを黙らせる」

鈴木ケンの二年目は、最も信頼する少女からの「完敗」と、己の浅ましさへの「絶望」から幕を閉じた。

しかし、その絶望の底で、三十九歳の男の眼には初めて、本物の「闘志」が宿っていた。

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