第9話 紫の闇と 忘れ去られた転生者
緑の国から遠く離れた、太陽の光すら届きにくい北の大地。
荒涼とした岩山を切り裂くように建てられた巨大な黒曜石の城――それが、魔王の末裔が支配する国『ヴェイル共和国』の首都である。
その日、城の最深部にある豪奢な私室では、一つの国の命運が、あまりにも静かに決しようとしていた。
「……ドンジャラ。魔王降臨」
涼やかな、よく通る美声が響いた。
卓を囲んでいた小国の王が、魂を抜かれたように口を半開きにして固まる。
「ひっ……! 嘘だ、そんな……わが国の資源採掘権が……すべて……」
王の絶望を正面から受け止めているのは、眩しいほどの好青年だった。
サラリとした銀髪に、吸い込まれるようなアメジストの瞳。上質な紫のジャケットをスマートに着こなし、その唇には人当たりの良い、爽やかな笑みが浮かんでいる。
彼こそが、ヴェイル共和国の最高指導者――ヴェイルその人であった。
「嘘ではありませんよ、王様。私たちは先代の裁定者・田中勇様が定めた『天律』のルールを何よりも尊重しています。暴力は使わず、殺し合いもせず、ただ八十三枚の牌によって決着をつける。……貴方は負け、私は勝った。それだけのことです」
ヴェイルは、卓の中央に置かれた禍々しいドクロの牌――黒牌(魔王)を、細く美しい指で愛おしそうに撫でた。
「平和とは素晴らしい。これほど理知的に、合法的に、他者のすべてを奪い取ることができるのですから」
ヴェイルが軽く指を鳴らすと、影の中から現れた兵士たちが、泣き叫ぶ王をズルズルと引きずって退室させていった。扉が閉まると、部屋には重苦しい静寂が戻る。
「……相変わらず、悪趣味な勝ち方をするわね」
部屋の隅、影の中から一人の女性が歩み寄ってきた。
年齢は三十歳前後に見える。黒いシックなドレスに身を包み、夜の海のように深い黒髪を揺らしている。その美貌には、どこかこの世の理を悟りきったような、冷ややかな透明感があった。
彼女の名は、サトウ。
五百年前、田中勇と共にこの世界に召喚された「十人目の仲間」であり、田中の初恋の相手。そして、延命の魔術によって五百年という歳月を生き続けている、もう一人の転生者。
「おや、サトウ。見ていたのですか。僕はただ、彼に『希望』を与えてあげただけですよ。逆転のチャンスという名の、ね」
ヴェイルは椅子に深く腰掛け、サトウを見上げて微笑んだ。その顔は、まるで母を慕う子供のように無垢だった。
「希望……? あなたがやっているのは、田中君が作ったルールを最悪の形で利用した、ただの搾取よ。ドンジャラの才能がない弱者は、抗うことすら許されず、法律の名の下にすべてを奪われる。これなら、剣で殺し合っていた時代の方がまだ救いがあったわ」
サトウの言葉には、重い棘があった。
彼女は知っている。田中勇がどれほど平和を願い、どれほどこのルールを信じていたかを。そして、自分のような「才能なき凡人」が、英雄たちの傍らでどれほど惨めな思いをしてきたかも。
「サトウ、貴女こそ残酷だ。田中勇の作った世界を肯定することは、貴女のような弱者を否定することと同義なのに。……それで、緑の国の『新しい裁定者』はどうでした?」
ヴェイルの問いに、サトウは窓の外、遠い南の空を見つめた。
「鈴木ケン。三十九歳の日本人。……田中君とは正反対の、何一つ持たない男よ。牌効率の計算も遅いし、緑の国の子供にすらカモにされている」
サトウの唇が、自嘲気味に歪む。
「でも、彼には一つだけ、田中君が持っていなかったものがある。……社会の底辺で、理不尽に耐え続けてきた人間の『眼』よ」
「ほう……?」
ヴェイルのアメジストの瞳が、面白そうに輝いた。
「彼は天才じゃない。だからこそ、負ける者の痛みを知っている。……田中君が最後の一手で、私を……『ババ』を切り捨てることができなかった理由も、彼なら理解できるかもしれない」
サトウは、卓の上に残された白牌(勇者)を手に取った。そこに描かれた学ラン姿の少年を見つめる彼女の瞳には、愛憎の入り混じった複雑な光が宿っていた。
「田中君。あなたは私を残して、自分だけ帰ることなんてできなかった。だからこの世界に残り、この歪な平和を作って死んだ。……私は、そんなあなたの遺作を、この手で終わらせるために生きているのよ」
サトウの右手が、微かな闇の魔力を帯びる。
その姿は、八十三枚の牌の中に刻まれた紫の属性――『闇魔』のモデルそのものであった。
「楽しみですね、サトウ。その中年男性が、この世界の欺瞞に気づき、僕たちの卓に座る日が。その時、彼は一体どちらの味方をするのでしょうね」
爽やかな笑顔を浮かべる魔王の末裔と、五百年の怨念を抱く初恋の少女。
紫の国に渦巻く深い闇が、まだ己の運命を知らぬ鈴木ケンの元へと、静かに忍び寄ろうとしていた。




