光のあるうちに
創立祭を翌日に控えた学園は、夕方になってもまだ落ち着かなかった。
中庭では最後の飾りつけが進み、渡り廊下のあちこちで色とりどりの布が風に揺れている。遠くからは、実行委員たちの呼び合う声や、木箱を動かす鈍い音が絶え間なく聞こえてきた。
それでも図書塔の展示室だけは、別の時間の中にあるように静かだった。
高い窓から差し込む夕光が、長机の上に並べられた古書の革装丁をゆっくりとなぞっている。
金箔の押された背表紙は光を受ける角度によって色を変え、薄く積もった埃さえ、どこか静かな輝きに見えた。
エレノアは展示札を一枚持ち上げ、古書の横へそっと差し込む。
「この位置ですと、表紙の金箔が夕方の光に沈んでしまいますわね」
小さくそう呟き、札をほんのわずかに動かす。
もう少しだけ角度を変えると、題字がやわらかく光を拾った。
「……ええ、これで」
誰に聞かせるでもない声は、静かな展示室の中で薄くほどけて消えた。
創立祭用の特別展示は、例年よりも古書の数が多い。
数百年前の地誌、寄贈された詩集、王家の記録を写した複製本。
どれも手入れは行き届いているが、扱いには気を遣う。だからこそ、こうして一冊ずつ位置を整えていく作業は嫌いではなかった。
以前の自分なら、こういう時間にも気は休まらなかっただろう。
委員長の確認は済んでいるだろうか。
搬入で止まっているところはないだろうか。
誰かが困っているのに、自分だけ静かな場所にいてよいのだろうか。
いつも、どこかへ心が引っぱられていた。
けれど今日は、目の前の本へ指を置いたまま、その背表紙の細かな傷まで見ていられる。
誰かを探さなくてもよい時間があることが、まだ少しだけ不思議だった。
今は、この本のことだけ考えればいい。
そう思って手を伸ばしたとき、入口のほうで控えめに扉が鳴った。
「失礼。まだ入っても構いませんか」
低く落ち着いた声だった。
エレノアが振り向くと、夕光を背にした男子生徒が入口に立っていた。
濃紺の制服はよく整っているが、きっちりとした優等生然とした印象とは少し違う。むしろ、どこか余計なものを寄せつけない静けさがある。
その顔立ちは整っていたが、それ以上に目を引いたのは、その視線の置き方だった。あわてず、覗き込まず、けれど確かにこちらを見ている。
「ええ、もちろんです」
「展示準備中でしたか。邪魔をするつもりはなかったのですが」
「大丈夫ですわ。何かご用でしょうか」
彼は室内をゆるく見回し、並べられた古書へ目を留める。
「創立祭の展示に、寄贈本が含まれると聞きました。
閲覧は明日からでしょうが、配置だけでも見ておきたくて」
「そうでしたのね」
それなら不自然ではない。
図書塔の展示は、読書好きの生徒のあいだでは毎年それなりに話題になる。
エレノアは机の脇へ一歩退いた。
「まだ整えの途中ですが、それでもよろしければ」
「十分です」
彼はそう言って歩み寄る。
革装丁の詩集の前で立ち止まり、題字を追うようにわずかに目を細めた。
「この時間の図書塔は、祭りの前とは思えないほど静かですね」
「ええ。下とは別の場所のようですわ」
「その静けさに、よくお似合いです」
あまりにもなめらかに落ちてきた言葉に、エレノアは一瞬、返事を失った。
けれど彼は、何かを言い含めたというふうでもなく、そのまま目の前の展示札へ視線を落としている。
褒め言葉だったのかどうかすら、曖昧なほど自然だった。
「ありがとうございます、と申し上げるべきでしょうか」
「お困りになるようなことを言いましたか」
「少しだけ」
そう答えると、彼はわずかに笑った。
声を立てない、ほんの短い笑みだった。
その表情でようやく、彼がただ無表情な人ではないのだと分かる。
「失礼しました。
ただ、本当にそう思ったものですから」
「本当に、とは」
「今日はようやく、ご自分の場所におられるように見えます」
夕方の光が、窓辺から一段深く室内へ差し込んだ気がした。
エレノアは持っていた展示札を指のあいだで留めたまま、彼を見る。
「……そのように見えるものですか」
「ええ」
「私は、ただ自分の役目をしているだけです」
「そうでしょうね」
彼はあっさりと頷いた。
否定も、持ち上げもせず、ただそのまま受け取る調子だった。
「ですが以前のあなたは、誰かのために急いでおられるように見えました」
「……」
返す言葉が見つからない。
その言い方は責めるでも、慰めるでもない。
だからこそ、まっすぐに胸へ届いてしまう。
彼は本の背に指を触れないぎりぎりのところで手を止め、題字を眺めたまま続けた。
「今は違う」
「違う、と」
「ええ。
ようやく、ここに立っておられる」
どうして、そんなことを言えるのだろう。
エレノア自身ですら、まだうまく言葉にできていないのに。
誰かの不在ばかりを気にしていた自分と、今日、古書の位置だけを見ていられる自分の違いを。
胸のうちでようやく形になりかけたものを、目の前の相手は、まるで最初から見えていたもののように言う。
「そのようなことを言われたのは、初めてですわ」
気づけば、そう口にしていた。
彼はそこで初めてこちらを見た。
古書でも展示でもなく、エレノア自身へ静かに視線を置く。
「でしょうね」
「……随分、はっきりおっしゃるのですね」
「見えていることを言っただけです」
それだけなのに、なぜこんなにも落ち着かないのか分からない。
図書塔は静かだ。
窓の外ではまだ準備の音が続いているのに、ここだけは別の膜で包まれているように穏やかで、その穏やかさの中で彼の言葉だけが妙に輪郭を持つ。
エレノアは視線を少し落とした。
「見えていること、ですか」
「ええ」
短く返しただけで、彼はそれ以上踏み込まなかった。
それがかえって、言葉の余白を深くする。
沈黙が落ちた。
けれど気まずくはなかった。
むしろ、次の言葉を探して壊してしまうのが惜しいほど、その沈黙は夕方の展示室に馴染んでいた。
やがて彼は、もう一冊の寄贈本へ視線を移し、小さく息をつく。
「この詩集は、明日の光のほうが映えそうですね」
「ええ。朝のほうが金箔が明るく出ますから」
「では、また光のあるうちに拝見したいものです」
それが本のことを指しているだけではないように聞こえてしまったのは、エレノアの思い過ごしだったのだろうか。
彼は一歩下がり、入口のほうへ向き直る。
「長居をしました。
続きを、どうぞ」
「……ごきげんよう」
「ごきげんよう、エレノア嬢」
名を呼ばれたことに、扉が閉まったあとでようやく気づく。
いつ名乗っただろう。
委員会や展示の名簿で知っていても、おかしくはない。
そう思うのに、妙にそこだけが胸へ引っかかった。
展示室には、また静けさが戻っていた。
高窓から差し込む光は少しだけ淡くなり、古書の背表紙に落ちる金色も先ほどよりやわらかい。
外のざわめきは遠く、まるで別の世界の音のようだった。
エレノアは机に置いたままの展示札を取り上げようとして、その手を止める。
今日はようやく、ご自分の場所におられるように見えます。
その言葉が、何度も胸の内で静かに繰り返された。
そんなふうに言われたことはなかった。
理解ある婚約者。
気が利く人。
手際が良い。
落ち着いている。
そういう言葉なら、これまでにも向けられてきた。
けれどそれはいつも、誰かの隣にいる自分や、何かをうまく回している自分へ向けられたものだった気がする。
今日のあの言葉は違った。
何かをしているからではなく、誰かを立てているからでもなく、ただここに立っている自分へ向けられていた。
それが、こんなにも落ち着かない。
エレノアは古書の背にそっと指先を置いた。
ひやりとした感触が、少しだけ熱を持った胸のうちと対照的だった。
図書塔は静かなままなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
しばらくそのまま立ち尽くしてから、エレノアは小さく息をつき、もう一度展示札の位置を整え直す。
けれど先ほどまでとは違い、手元の文字に意識を向けても、あの声の残響が完全には消えてくれない。
明日になれば、創立祭が始まる。
今日よりさらに人も増え、図書塔もにぎわうだろう。
それなのにエレノアの胸には、祭りのざわめきとは別の、小さな波だけが静かに残っていた。




