空いていた席
創立祭当日の朝、学園はいつもより早い時間から華やいでいた。
校舎をつなぐ回廊には色布が渡され、中庭には仮設の屋台や案内板が並ぶ。朝の光を受けて飾りつけの金糸がきらめき、行き交う生徒たちの声はどこか浮き立っていた。
まだ開場前だというのに、すでに祭りは始まっているようだった。
「おはようございます、エレノア様。本日もお忙しそうですね」
展示用の記録札を束ねていたエレノアへ、下級生の委員がぺこりと頭を下げる。
その頬には準備の忙しさよりも、祭りの日の高揚が先に出ていた。
「おはようございます」
「昨日も遅くまでいらしたのでしょう? お疲れではありませんか」
「ええ。でも今日は、慌てずに済みそうですわ」
そう返した自分の声が、思っていたより穏やかだったことに、エレノアは少しだけ驚く。
にぎやかな朝なのに、胸の奥にはまだ昨日の静けさが残っていた。
夕暮れの図書塔、革装丁の本、窓から差し込むやわらかな光。
そして――今日はようやく、ご自分の場所におられるように見えます、という声。
「エレノア様?」
呼ばれて、エレノアは小さく瞬きをした。
「ごめんなさい。何でしたかしら」
「案内札の追加分を、どちらへ回せばよいか確認したくて」
「それでしたら受付側の卓上用へ。予備は二部だけ残しておいてくださいな」
「はい!」
下級生はぱっと表情を明るくして走っていく。
その背を見送りながら、エレノアは記録札の紐を整え直した。
朝からするべきことは多い。図書塔展示の確認、委員会の進行補助、来賓向け資料の受け渡し、各係の記録。
けれど不思議なことに、以前のような息苦しさはなかった。
忙しいことに変わりはない。
ただ、何もかもを自分が拾わなければならないと思わなくてよくなっただけで、ずいぶん違う。
ほどなくして、別の委員が小走りにやって来る。
「エレノア様、装飾係からこちらへ回してほしいと頼まれた布が――」
「その件は装飾係の担当ですわ。私からではなく、そちらへ直接お願いいたします」
「え、ですが、今お忙しそうで」
「ええ。ですから、担当へ」
きっぱりと言っても、声音はやわらかいままだった。
相手も叱られたとは思わなかったのだろう。少し戸惑いながらも、「承知しました」と頭を下げて去っていく。
また別の生徒が寄ってくる。
「これ、来賓席の卓上札ですが、並び順の変更があるかもしれないそうで……」
「こちらは受け取ります。ただ、判断が必要な部分は私では決められません」
「では、どうすれば」
「委員長の確認が必要です」
その一言で、相手の表情が止まった。
「委員長、ですか」
「ええ」
「ですが、まだこちらには……」
「存じております」
エレノアは静かに札を揃えた。
必要なことを、必要なままに返しているだけだ。
「確認が取れ次第、並びは修正できます。ひとまず現状のままで置いてくださいな」
「は、はい」
委員はどこか落ち着かない顔のまま去っていった。
そのやりとりからほどなくして、控室のほうで小さなざわめきが起きた。
「掲示内容の変更でしたら、委員長の確認が必要です」
エレノアがそう告げると、装飾係の生徒が目を見開く。
「え、今ここで決められませんの?」
「申し訳ありません。私の役目はここまでですの」
「でも、開場まであまり時間が……」
壁際の掲示には、来賓向け案内と催し時間の一部修正が必要だった。
小さな変更ではあるが、対外向けの表記に関わる以上、独断では決められない。
以前のエレノアなら、委員長の意向を推し量って整え、あとから報告だけ済ませていたかもしれない。
けれど今はしなかった。してはならないことを、しないだけだ。
「委員長は、まだお見えではないのですか」
誰かがそう口にした。
それは責める声でも大きな声でもなかったが、その場にはっきり響いた。
「来賓対応の導線まで決めるなら、判断が必要でしょう?」
「では、今までこういう確認は……誰が?」
その問いに、場が一瞬しんとした。
エレノアは手元の記録用紙へ視線を落とし、一呼吸置く。
「私は記録と進行補助をしていただけですわ」
そう答えると、誰かがためらうように言った。
「まさか、ずっとエレノア様が整理してくださっていたのですか」
エレノアは返事の代わりに、記録用紙の端を静かに揃える。
「本件は、委員長確認待ちとして記録しておきます。
変更が確定した時点で再掲示すれば間に合うでしょう」
「……はい」
「来賓席の札は現状維持。装飾係の追加掲示も同様に保留で。開場後に動線へ影響が出るようなら、まず実行本部へ共有を」
「承知しました」
静かに指示が流れ、場はようやく動き出す。
けれど今度は、誰もそれを当然のことのようには受け取っていなかった。
控室を出たあとも、小さな滞りはあちこちに見えた。
催しの時間確認、案内札の表記ゆれ、来賓誘導の順路確認。
どれも大問題ではない。けれど、そのたびに周囲は、どこを通せばよかったのかを考える顔になる。
ああ、ここはずっと空いていたのだと。
そんな気配が、ようやく人の目に触れはじめていた。
中庭へ出ると、開場を待つ来客の列が見えはじめていた。
色とりどりの旗が風に揺れ、屋台準備の甘い匂いが流れてくる。
にぎわいは増していくばかりなのに、エレノアの心は不思議なほど静かだった。
「エレノア様」
背後から呼ばれて振り向くと、図書塔展示を手伝っていた生徒が両手で箱を抱えて立っていた。
「先ほどは助かりました。
展示札の予備、きちんと分けておいてよかったです」
「それは何よりですわ」
「……いつも、ありがとうございます」
その“いつも”の響きが、これまでとは少し違って聞こえた。
いつものように助けてもらう、ではなく。
いつも整えてもらっていたのだと、ようやく分かった人の言い方だった。
エレノアはほんの少し目を和らげる。
「お役に立てたなら、よかったですわ」
中庭の向こう、図書塔へ続く石畳のあたりに、見覚えのある人影が立っていた。
濃紺の制服。
騒がしい朝の光の中でも、不思議とあの人だけが落ち着いて見える。
相手もこちらに気づいたのか、ほんのわずかに視線が合った。
それだけで、昨日の静かな展示室の空気が一瞬、胸の奥へ戻ってくる。
エレノアは迷うことなく会釈した。
「……ごきげんよう」
距離があるから、声は届かなかったかもしれない。
けれど相手はわずかに目元を和らげ、同じように一礼した。
それだけだった。
それ以上、近づいてくることも、言葉を重ねることもない。
なのに、なぜかそれで十分だった。
昨日の静けさが消えたのではなく、胸の奥に残ったまま、こうして今日の景色と重なっている。
そのことが、ひどく自然に思えた。
「エレノア様、記録簿はこちらでよろしいでしょうか」
「ええ、確認しますわ。少しお待ちくださいな」
差し出された書類を受け取りながら、エレノアは中庭の喧騒へ目を向ける。
笑い声。
呼び込みの声。
どこかで鳴り始めた小さな楽音。
陽射しを受けてきらめく旗。
ここにいることが、前ほど苦しくない。
誰かの不在ばかりを気にしていた昨日までとは、少しだけ違う。
にぎやかな真ん中にいても、もう前ほど息苦しくはなかった。
記録簿を閉じ、エレノアは次の持ち場へ向かう。
創立祭は始まったばかりだ。
人の流れも、役割も、これからまだ何度も動くだろう。
それでも今日の彼女は、昨日までより少しだけ軽い足取りで、その賑わいの中へ進んでいった。




