少し違う終わり方
創立祭の賑わいは、午後もまだ学園のあちこちに残っていた。
中庭の屋台には相変わらず人が集まり、回廊には展示を見て回る来客の姿が続いている。
けれど朝のようなせわしなさは、もう少しやわらいでいた。笑い声の調子も、呼び込みの声も、どこか終わりの気配を含みはじめている。
朝のざわめきが、少しずつ帰り支度の気配に変わっていく。
そんな時間だった。
「エレノア様、お手すきの際で構いませんので、こちらをご確認いただけますか」
呼ばれて振り向くと、下級生の委員が両手で帳面を抱えて立っていた。
差し出されたのは、来場者数の途中集計だった。
「ええ、拝見しますわ」
帳面を受け取り、数字の並びを一つずつ確認していく。
記入漏れはない。午前中の混雑を考えれば、よく整っているほうだ。
「こちらで問題ありません。午後の分は欄を変えて続けてくださいな」
「ありがとうございます。助かりました」
「丁寧にまとめられていますわ。このままで大丈夫です」
そう言うと、相手は目を丸くしてから、ほっとしたように息をついた。
「……よかった。
先ほどは助かりました。きちんとお礼を申し上げたくて」
「お礼を言われるほどのことではありませんわ」
「いいえ。今朝も、その、いろいろ整えてくださっていたのだと分かって……」
言いかけて、下級生は少し言葉を濁した。
けれど、それで十分だった。
「では、午後もお願いいたします」
「はい」
以前なら、こういう言葉は聞き流していたかもしれない。
受け取る余裕がなかったのだろう。
次の確認へ向かう途中、別の委員からも声がかかる。
「エレノア様、こちらの展示札ですが、お時間のあるときで構いませんので見ていただけますか」
「承知しました。順に確認いたしますわ」
「急ぎません。落ち着いてからで大丈夫です」
その一言に、エレノアはわずかに目を上げた。
急ぎません。
落ち着いてからで大丈夫です。
前なら、そう言われる前に自分で急いでいた。
誰かの仕事が滞れば、その先に困る人が出る。だから先回りしなくてはならない――そう思っていた。
けれど今日は違った。
頼まれることはあっても、押しつけられてはいない。
その違いは思った以上に大きかった。
やがて中庭側の控えへ向かうと、少し張りつめた声が聞こえてきた。
「来賓のお見送り順ですが、最終確認はどなたがお取りになるのですか」
「その件、まだ確定していなかったのですか?」
「委員長から伺っている者が見当たらなくて……」
控えの前には、来賓対応の係と実行本部の補助役が集まり、小さく立ち往生していた。
札の並び、退出導線、見送り役の立ち位置。どれも細かなことだが、最終確認なしでは動きにくい。
「では、このままでは動けませんね」
誰かのその言葉で、場の空気が少し沈む。
大きな混乱ではない。
けれど、大きくないからこそ誤魔化されてきた滞りだった。
エレノアは少し距離を置いたまま、その様子を見ていた。
以前なら、おそらく自分から歩み寄り、委員長の意図を推し量るように整え、あとで記録を合わせていたはずだ。
「エレノア様」
補助役の一人がこちらへ気づく。
「申し訳ありません。
この並びだけでも先に整えていただけないでしょうか」
「記録上必要な整理はいたします。ただ、その後の判断は担当へお戻しください」
「……はい」
「現状の案を二つに分けて記録しておけば、確認後の差し替えはしやすいはずですわ。
ただ、どちらを採るかは私では決められません」
「分かりました」
相手は拍子抜けしたように一度瞬いたが、すぐにうなずいた。
エレノアは控え机の上に紙を広げる。
「見送り順はこの形とこの形の二案ですね。
違うのは第三来賓の退出導線だけ。ですから、記録は共通部分を先に整えます」
「ありがとうございます」
「私は記録を整えるだけです。最終判断がついたら、担当の方で札を入れ替えてくださいな」
「承知しました」
そこへ、隣で聞いていた上級生の委員が静かに口を開いた。
「ええ、それで結構です。こちらで抱え込むことではありませんもの」
その言葉に、周囲が小さくうなずく。
以前なら、こんなふうにはならなかっただろう。
“ではエレノア様が”と、そのまま全部が流れていたはずだ。
けれど今は違う。
彼女が引き受けないことを、冷たいとは誰も思っていなかった。
「こちら、記録欄はもう整いました。
判断がつき次第、担当名と時刻だけ追記してください」
「はい。助かります」
「案内係にも共有してまいります」
「お願いいたします」
場は今度こそ動きはじめた。
少しぎこちなく、それでも先ほどよりは正しい形で。
控えを離れて回廊へ戻ると、窓から差し込む光が少し傾いていた。
午後の白さは和らぎ、廊下の床に長い影が落ちている。
展示の片づけに入った係が、壁際で札をまとめていた。
そのひとりがエレノアに気づいて顔を上げる。
「エレノア様、こちらはもう片づけに入っております」
「そう」
「あとは私たちで大丈夫です」
何気なく言われたその一言に、エレノアは足を止めた。
「あとは――?」
「はい。予備の札も台帳も、確認方法を教えていただいたので。
こちらで揃えて、本部へ戻しておきます」
「……そう。では、少しだけお願いいたします」
「お任せください」
委員は明るくうなずいて、再び手元の作業へ戻っていく。
それはただの気遣いではなく、きちんと受け渡された仕事の言葉だった。
エレノアはその場を離れながら、ふと息をついた。
祭りの音が少し遠くなっている。
それでも今日は、まだ急いで戻る理由がなかった。
回廊を曲がると、中庭の賑わいがひときわ広く目に入った。
片づけの始まった屋台、帰り支度をはじめる来客、名残惜しそうに立ち話をする生徒たち。
創立祭は終わりへ向かっているのに、その終わり方は朝には想像できなかったほど穏やかだった。
足の向くままに、エレノアは図書塔へ続く石畳のほうへ歩いた。
ほんの少しだけ、立ち止まりたかった。
塔の脇の影は長く伸び、窓に夕方の光が淡く映っている。
昨日と同じ場所ではない。
けれど、昨日から続いている静けさが、確かにそこにあった。
「お一人ですか」
落ち着いた声がして、エレノアは振り返る。
濃紺の制服。
昨日、図書塔で会った彼が、夕暮れの光の中に立っていた。
「少しだけ、そのつもりでしたの」
「それは失礼しました」
「いいえ」
彼はすぐに去ることも、無理に近づくこともしなかった。
その距離が、かえって心地よい。
少しして、彼の視線が中庭のほうへ向く。
「盛況だったようですね」
「ええ。慌ただしくはありましたけれど」
「それでも、今日は少し違って見えます」
エレノアはその言葉に、思わず微笑んだ。
「ええ。でも、今日は少し違って見えますわ」
祭りの終わり。
賑わいのあとに残る静けさ。
遠くで片づけの音がして、それさえどこか穏やかに聞こえる。
最後まで誰かの不在を埋め続けなくても、一日は終わるのだと。
そんな当たり前のことが、今は静かに胸へ落ちてくる。
「では、私はこれで」
「ええ。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
短いやりとりのあと、彼は静かに去っていく。
その背を見送ってから、エレノアはもう一度だけ中庭を振り返った。
片づいていく飾り。
薄れていくざわめき。
終わっていく一日。
エレノアはゆっくりと息をつき、夕方の光の中を歩き出した。
今日の終わりは、昨日までと少し違っていた。




