あなたに渡るもの
創立祭の翌朝、学園は驚くほど静かだった。
昨日まで色布や花で飾られていた回廊は、もうほとんど元の石造りへ戻っている。
中庭の屋台も片づき、賑わいの名残は、端に寄せられた箱や束ねられた札の中にかすかに残っているだけだった。
飾りの外れた回廊は、昨日より少しだけ広く見えた。
エレノアは記録帳を抱え、創立祭の残務確認のために本部用の小部屋と資料棚の間を往復していた。
来場者数の最終記録、展示ごとの報告書、貸出備品の返却欄の照合。祭りが終わったあとに残るのは、いつだって紙と記録ばかりだ。
「残っているのは、紙と記録ばかりですわね……」
誰にともなく呟いて、エレノアは小さく息をつく。
けれど不思議と、昨日までのような重さはなかった。やるべきことはまだ残っている。それでも、すべてを自分が埋めなければならないような切迫は、もう少し遠い場所へ下がっている。
資料棚の前で帳面を整えていると、実行委員の下級生が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、エレノア様」
「なあに」
「この件、どなたに確認すべきか分からなくて……」
差し出された紙には、来賓控え室で使った備品の返却欄が挟まっていた。
記入は途中までされているのに、最後の確認印だけが空いている。
「確認印がないのね」
「はい……。委員長印が必要だと聞いたのですが、昨日のうちに確認が終わっていないままで」
「そう」
下級生は紙を抱えたまま、困ったように視線を泳がせる。
「エレノア様でしたらお分かりになるかと思いまして……」
その言葉に、エレノアの指先がほんのわずかに止まった。
悪気はないのだろう。
ただ、前ならこうして自然に自分へ流れてきていたのだ。誰が確認するべきか分からないもの。整っていないもの。少しだけ面倒なもの。そういうものは、気づけばいつも彼女の手元に集まっていた。
「ひとまず私が――」
そこまで言いかけて、エレノアは口を閉じた。
昨日、自分で決めたはずだった。埋めないこと。抱えすぎないこと。
それでも、滞れば困る人が出る。そう思うと、身体は昔のほうへ戻ろうとする。
「……確認が必要な箇所だけ、先に分けましょうか」
完全に引き受ける言い方ではない。
それでも、まだ反射のように手を伸ばしかける自分がいる。
「ありがとうございます」
下級生がほっとしたように顔を上げた、そのときだった。
「また書類をお持ちなのですね」
静かな声がして、エレノアは振り返る。
図書塔へ続く渡り廊下の角。
そこに、濃紺の制服を着た彼が立っていた。創立祭の夕方に会った、あの人だ。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
昨日と同じく落ち着いた声音だったが、今日は彼の視線がエレノアの顔より先に、彼女の手元の紙へ向いている。
「創立祭は終わったはずですが」
「ええ。残務が少し」
「そのようですね」
彼はそう言ってから、ほんのわずかに言葉を探すような間を置いた。
それから、下級生が抱える紙へ目を向ける。
「失礼。ですが、その紙はあなたに渡るものなのでしょうか」
下級生がきょとんと目を瞬く。
エレノアも、一瞬だけ返す言葉を失った。
「……確認先が分からないとのことでしたので」
「なるほど」
彼は静かにうなずく。
すぐに言い切らず、一度受け取ってから置き直すようなうなずき方だった。
「その確認は、本来どなたのお役目ですか」
「え」
「委員長印が必要だとおっしゃいましたね。でしたら、確認すべき相手は委員長か、それに準ずる担当ではありませんか」
問いかけられたのは下級生だった。
けれどその言葉は、エレノアの胸にも静かに落ちる。
「そ、それは……はい」
「あなたが困っておられるのは分かります」
彼はそこで少しだけ言葉を和らげた。
「ですから、確認先を探すこと自体は必要なのでしょう。
ただ、困っておられることと、その方が引き受けるべきかどうかは別です」
方――と言われて、下級生ははっとしたようにエレノアを見る。
“エレノア様なら”という空気を、そのまま当然にしない声だった。
エレノアは紙を見下ろしたまま、小さく口を開く。
「私が確認先だけ整理すれば、早いのは確かですわ」
「ええ。あなたがなさるのが早いのでしょう」
彼は否定しなかった。
そのことがかえって、言葉を軽くしなかった。
「けれど、それと必要かどうかは別です」
「……」
「いつもそうしてこられたのかもしれませんが」
彼はそこでほんの少しだけ目を伏せた。
「……いえ。
今日もそうである必要はありません」
わずかな言い直しが入ったせいか、その言葉は前より少しだけ人の温度を持って聞こえた。
責めるでも、咎めるでもなく。
ただ、選び直していいのだと、静かに返してくれる声だった。
エレノアは、ようやく息を吐く。
「……そうしなければ、滞るかもしれませんもの」
「滞らせているのが誰かは、別にあるのでしょう」
その一言に、下級生が慌てたように顔を上げた。
「も、申し訳ありません、私――」
「あなたを責めているのではありません」
彼はやわらかく言った。
「確認の流れが曖昧なまま残っていることと、それを当然のように別の方へ渡してしまうことは、同じではないというだけです」
言い方が丁寧であるぶん、言葉の形がよく見えた。
誰かを傷つけるためではなく、曖昧なまま押し流されかけたものを、きちんと元の場所へ戻すための言葉だった。
下級生は何度も頭を下げる。
「すみません……委員長代理の先輩に確認してきます」
「ええ。そのほうがよろしいでしょう」
下級生が走り去っていくのを見送ってから、エレノアはまだ紙を持ったまま立っていた。
少ししてから、ようやく彼へ向き直る。
「……助かりました、と申し上げるべきなのかしら」
「そう思われたのでしたら、光栄です」
少しだけ、彼の口元がやわらいだ。
「けれど、私は大したことはしておりません」
「いいえ」
エレノアは首を振る。
「大したことでしたわ。
あのままなら、私はたぶん、また同じように整えていたでしょうから」
彼はそれにすぐ返事をせず、ほんの一拍置いてから言った。
「昨日のあなたは、必要以上には手を広げておられなかった」
「……見ていらしたのですか」
「ええ」
彼はごく自然にうなずいたが、そのあと少しだけ困ったように視線を外した。
「その……よく働いておられましたから。
目立たぬように、というのは語弊があるかもしれませんが」
「いいえ。合っていますわ」
その小さな言い直しが、かえっておかしかった。
創立祭のあいだ、できるだけ目立たないように、それでいて滞りが出ないように動いていたのは確かだ。そんなところまで見ていた人がいたのかと思うと、不思議な気持ちになる。
「以前のあなたを知っているわけではありません」
彼は言う。
「ただ、昨日は、引くべきところで引いておいででしたね」
「……」
「失礼ながら、少し安心しました」
安心。
その言葉が、思いがけず静かに胸へ触れた。
褒めるでもなく、持ち上げるでもなく。
ただ、自分が無理をしすぎずに済んでいたことへ、静かに安堵してくれる人がいる。
それはこれまでのエレノアにとって、あまり覚えのない種類の言葉だった。
「安心、なさるのね」
「ええ」
「どうして」
「昨日のあなたは、少しだけ――」
彼はそこで言葉を切る。
言いかけたあと、続きの形を測るようにほんの少し黙った。
「……いえ。申し上げすぎるのは無粋ですね」
それ以上は踏み込まない。
その引き方すら、どこか丁寧だった。
渡り廊下の先では、窓の外の春の光が白く石床へ落ちている。
昨日の華やかさが引いたあとの静けさは、空虚というより、ようやく物の輪郭が落ち着いたような静けさだった。
「では、私はこれで」
彼が一歩、後ろへ下がる。
「あなたのお時間を取りすぎるのも無粋でしょう」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
彼はそれだけ言って、図書塔のほうへ去っていった。
引き留めるには短く、忘れるには少しだけ長く残る背中だった。
エレノアはしばらくその場に立ち尽くし、それから手元の紙へ視線を落とす。
先ほどまでなら、当たり前のように自分が整えていたかもしれない書類。
けれど今は、それを自分の役目だと即座に引き受ける気にはならなかった。
不思議だった。
何が変わったのかを、うまく言葉にはできない。
けれど、さきほど返されたものは、書類ではなく、もっと別の何かだった気がした。
やがて戻ってきた下級生は、少し息を弾ませながら言った。
「確認先、分かりました。委員長代理の先輩にお願いできるそうです」
「それならよかったわ」
「先ほどは、申し訳ありませんでした」
「いいの。次から分かれば、それで十分ですわ」
下級生はほっとしたように頭を下げ、今度はちゃんと自分の向かう先を知った足取りで廊下の向こうへ去っていく。
その背を見送りながら、エレノアはふと窓の外を見る。
創立祭の飾りが消えた中庭は、昨日より静かで、少しだけ広い。
広くなったのは、回廊だけではないのかもしれなかった。
エレノアは記録帳を抱え直し、今度は自分の役目のために歩き出す。
胸の奥に残る静けさは、まだうまく名づけられなかった。




