片づかない言葉
創立祭が終わって二日目の午後、エレノアは自室の机に向かっていた。
窓は半分だけ開けてある。春の風はまだ少し冷たく、紙の端をかすかに鳴らした。机の上には、創立祭後の報告書の控えと、記録用の帳面、それから返却済みの札をまとめた小さな束が並んでいる。
どれももう急ぎではない。けれど、曖昧なまま積んでおくには落ち着かないものばかりだった。
エレノアは一枚ずつ紙の角を揃え、薄い紐で綴じ直す。
記載漏れはない。順番も合っている。必要な印も揃っている。
それなのに、なぜか胸の内だけが落ち着かなかった。
片づけることには慣れていたはずなのに、昨日のあの言葉だけが、まだどこにも収まらない。
小さく息をついて、エレノアは次の紙束へ手を伸ばした。
紙は揃う。記録も残せる。必要なものは、あるべき場所へ戻してやればよい。そうして机の上が整っていくのを見るのは、昔から嫌いではなかった。
けれど今は、その整った景色の中にひとつだけ、収まりの悪いものがある。
「……妙ですわね」
呟いても、もちろん答える者はいない。
何か特別なことがあったわけではない。
創立祭の残務の確認をしていて、困っている下級生がいて、そこへたまたまあの人が通りかかった。ただ、それだけのことだ。
それだけのこと、だったはずなのに。
『今日もそうである必要はありません』
不意に蘇った声に、紙を押さえていた指先が止まる。
必要ではない。
そうである必要はない。
その言葉だけが、妙に静かに残っていた。
自分はこれまでずっと、埋めることを当然としてきた。
空いたところへ手を伸ばすこと。足りない確認を引き受けること。少し整えれば済むことなら、そのほうが早いと思ってきた。
誰かがやらなければならないのなら、できる者がやるしかないと思っていた。
婚約者の不在を埋めることも、流れを止めないことも。
理解ある婚約者でいることも、記録係として抜けを作らないことも。
あれは従順さではなく、私なりの誠実さだった――そう思っていた。
間違いだった、とまでは思わない。
少なくとも、自分なりに考えて選んできたことのはずだった。
けれど。
『あなたがなさるのが早いのでしょう。けれど、それと必要かどうかは別です』
その一言が、綺麗に揃えた紙の端を少しだけずらすみたいに、心の内へ触れてくる。
エレノアは無意識に、机の木目を指でなぞった。
つるりと見える表面にも、触れれば小さな凹凸がある。
遠くから見れば整っていたものが、近くで見ればそうでもない。
そんなことは、別に珍しくもないのに。
早く済むことと、自分が引き受けるべきことは、本当に同じだったのだろうか。
そう考えた途端、胸の奥がわずかに冷える。
それではまるで、自分がしてきたことすべてを疑うようではないかと思って、エレノアはそっと眉を寄せた。
違う。
そこまで簡単な話ではない。
引き受けてきたことのすべてが、ただ都合のよい振る舞いだったわけではない。
波風を立てないことも、滞りを出さないことも、自分の中では確かに意味のある選び方だった。誇りと呼ぶにはささやかでも、少なくとも、何も考えずにそうしていたわけではない。
だからこそ、片づかない。
仕方がなかったのだと思おうとするたびに、
あの声が、静かにそれを止める。
『今日もそうである必要はありません』
何度並べ直しても、そこだけ綺麗に重ならない。
エレノアは紙束を綴じる紐を引いた。
きゅ、と小さく音がして、結び目が締まる。
そのまま次の紐を取ろうとして、ふと手が止まった。
『失礼ながら、少し安心しました』
その言葉を思い出したとたん、指先からするりと紐が滑り落ちた。
机の上に細い紐が落ちる。
たいしたことではない。拾えば済む。
けれどエレノアは、しばらくそれを拾えなかった。
安心。
あの人は、そう言った。
それは褒め言葉ではなかった。
よくやっている、と認める言葉でもない。頼りになる、と都合のよさを誉める言葉でもない。
ただ、自分が無理をしすぎていないことへ、そっと息をつくような声音だった。
そんなふうに安心されたことが、これまであっただろうか。
婚約者に。
周囲に。
あるいは、家の者に。
忙しそうだと気づかれたことはあったかもしれない。
滞りなく役目を果たせるかと問われたことも、きっとあった。
けれど、無理をしていないことそのものに安堵するような声を、エレノアはあまり知らなかった。
「……ありませんわね」
落ちた紐を拾い上げながら、エレノアは小さく呟く。
少なくとも、仕事ぶりを評されたのではなかった。
あれは、ただ役目のための言葉ではなかった気がする。
そこまで考えて、エレノアはゆるく首を振る。
その先を言葉にしてしまうには、まだ何もかも曖昧すぎた。
ただ、残っているだけだ。
昨日、渡り廊下で向けられた言葉が。
あのときの、押しつけるでもなく見過ごすでもない静かな声音が。
自分を当然の受け皿として扱わなかった、あの人のまなざしが。
それだけのこと。
それだけのことのはずなのに、机の上のどの紙よりも、きちんと重みを持って残っている。
エレノアはゆっくり顔を上げた。
窓の外では、午後の日差しが中庭の石畳をやわらかく照らしている。創立祭の飾りはもうなく、人影もまばらで、喧騒はすっかり遠のいていた。
静かな午後だった。
あまりに静かで、自分の胸の内側でだけ、整わないものがあることがよく分かる。
机の上は片づいている。
記録も、控えも、返却札も、あるべき場所へ収まっている。自分の手は、今日もきちんと役目を果たした。
それなのに、心の中にだけ、まだ片づかないものがある。
名前を知らないままでも、残るものは残るらしい。
エレノアは最後の紙束を棚へしまい、空いた机の上をもう一度見渡した。
整っている。見慣れた景色だ。昨日までの自分なら、それで十分だったはずなのに。
片づけられないことを、すぐに悪いことだとは思えなかった。
それが何かはまだ分からない。
けれど、昨日までと同じように整えているのに、もう昨日までと同じではいられないことだけは、静かに分かっていた。




