正しい位置へ
創立祭が終わって数日が過ぎると、学園は驚くほど早くいつもの顔へ戻っていった。
廊下から飾りは消え、掲示板の華やかな案内も半分ほど剥がされ、委員会室の長机には、祝祭の名残ではなく、いつもの書類と帳面が並ぶようになった。騒がしさが抜けたぶん、紙をめくる音や椅子を引く音がかえってよく響く。
その日の午後も、エレノアは委員会室の端で返却帳を確認していた。
創立祭に使った備品の返却記録と、各担当から上がってきた最終報告を照らし合わせる。もう大きな問題は終わっている。ただ、こういう最後の細かな照合にこそ、小さな抜けは残りやすかった。
「エレノア様」
控えめな声に顔を上げると、下級生の一人が返却札の束を手に立っていた。まだ少し緊張が抜けない様子で、視線を札と帳面の間に行き来させている。
「返却札の数が、一枚合っていません」
差し出された札を見て、エレノアはすぐに事情を察した。
創立祭当日は慌ただしかった。備品の移動も多く、返却時の札の扱いが前後したのだろう。珍しいことではない。どこを見ればよいかも、誰に確認すればよいかも、彼女にはおおよそ分かっていた。
だからいつものように、手が先に動きかける。
「わたくしが――」
そう言いかけて、エレノアは口を閉じた。
伸ばしかけた手を、ほんのわずかに止める。
前なら、ここで考えることなどなかった。札を受け取り、返却控えを見て、足りない一枚の行方を探し、必要なら担当者へ声をかける。そうして何事もなかったように整える。それがいちばん早く、いちばん滞らずに済むやり方だったからだ。
けれど今は、その“いちばん早い”の手前で、ひとつ言葉が立ち止まる。
今日もそうである必要はありません。
胸の奥にだけ触れるような声を思い出し、エレノアは静かに息を整えた。
「……わたくしが見ても構いませんけれど」
そこまで口にしてから、彼女はゆるく首を振る。
「まず、担当の方にお尋ねしたほうがよろしいかもしれません」
下級生は目を丸くした。今までのエレノアなら、その場で受け取っていたはずだ。差し出されたものを曖昧なまま返すことは、ほとんどなかった。
「た、担当、ですか」
「ええ。返却時の記録がどこまで残っているかを見れば、すぐに分かることかもしれませんもの」
そう言いながらも、内心では自分の声のわずかな不自然さに気づいていた。“すぐに分かる”のなら、自分で見たほうが早い。そう思う自分もまだ確かにいる。
その場には、ほんの短い空白が落ちた。
今までなら、たぶんその空白が生まれる前に、自分が埋めていたのだろう。誰かが迷うより先に。誰かが口を開くより先に。そうして、滞りなく済んだように見せていたのかもしれない。
「では、わたしが返却記録を見てまいります」
不意に、別の下級生がそう言った。壁際の棚を振り返りながら、少し急ぎ足で記録控えの束へ向かう。
「あ、でしたら担当表はこちらにあります」
今度は別の委員が顔を上げ、机の端に重ねてあった表を引き寄せた。紙をめくる音が重なる。誰かが椅子を引き、誰かが控えの綴じ紐をほどく。
エレノアはその様子を見つめたまま、指先だけを机の縁に置いた。
動けないわけではない。ただ、動かなくてもよいのかもしれない――そんな、ごく小さな可能性が、場の中に遅れて現れるのを見ていた。
「こちらの返却控え、講堂前列の札だけ別紙になっております」
「では、その時点で受け渡しを確認なさった方がいるはずですね」
落ち着いた声がして、エレノアは顔を上げた。
いつからそこにいたのか、委員会室の入口近くに彼が立っていた。以前と変わらず、きちんとした姿勢で、けれど必要以上の存在感を示すこともなく、場の流れの中へ自然に入ってくる立ち方だった。
下級生たちがはっとして背筋を伸ばす。けれど彼はそれを気にした様子もなく、机上の表を一度見下ろしただけで言った。
「でしたら、その確認は担当の方でなさるのがよろしいでしょう」
声は静かだった。責める響きはなく、誰かを急かす色もない。ただ、物事をあるべき位置へ戻すような言い方だった。
「急ぎでなければ、順に確かめれば十分です。返却札そのものは揃っているのですから、紛失ではありませんね」
「は、はい」
返事をした下級生の肩から、目に見えて力が抜ける。彼はその様子を見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「分からないまま持ってくるより、ずっと助かります」
「……ありがとうございます」
彼は机の上の担当表を指先で示した。
「次からは、この表を先に見れば迷わずに済むはずです。返却時に別紙へ回る備品は、ここへ印がついていますから」
「はい、確認いたします」
下級生が真面目にうなずくのを見届けてから、彼はそれ以上前へは出なかった。自分が全部片づけるつもりはないのだと、その立ち位置だけで分かる。
エレノアは視線を落とした。自分の前にはまだ返却帳が開かれたままになっている。見慣れた帳面。何度も指で押さえてきた紙の端。
けれど今、その向こうで起きていることは、少しだけ見慣れていなかった。
自分がすぐに埋めなくても、場は止まらない。少しだけ間ができて、少しだけ人が考えて、それから必要なところへ手が伸びる。それでも、ちゃんと回る。
「エレノア嬢」
名を呼ばれて、顔を上げる。
彼はいつの間にかこちらを見ていた。問い詰めるような目ではない。ただ、確認するような静かなまなざしだった。
「こちらの帳面は、このまま控えへ回してよろしいでしょうか」
「……ええ。問題ありませんわ」
答える声が、思っていたより穏やかだった。彼は小さくうなずく。
「ありがとうございます」
それだけだった。
特別な響きは何もない。人前で、必要な確認をし、必要な礼を述べただけ。それなのに、エレノアの胸の内側では、その短い言葉さえ少し丁寧に置かれていく。
やがて不足分の札の行方も確認が取れ、返却記録の照合は滞りなく終わった。記録の端に小さく訂正が入り、担当者の名が書き添えられる。たったそれだけのことだった。
大きな問題にはならなかった。誰かが叱責されることもなかった。そして、エレノアが何もかもを引き受ける必要もなかった。
委員会室に残る人影が少なくなり、窓の外の日差しがやわらいでいく。紙を重ねる音も、椅子を戻す音も、今はただ静かに遠ざかっていった。
エレノアは閉じた帳面の表紙に、そっと指先を置く。
「……滞りませんのね」
ほとんど独り言のような小さな声だった。
少し遅れても、壊れるわけではない。そう思った瞬間、帳面に置いていた指先から、ふっと力が抜けた。
視線を上げると、彼はすでに別の机で最後の確認を終えていた。誰かに必要以上に声をかけるでもなく、かといって冷たく引くでもなく、ただ場が正しく収まるところまで見届けている。
あの人は、たぶん誰に対してもああなのだろう。
そう思う。下級生にも、委員にも、自分にも。
前と同じ机。前と同じ書類。前と同じ午後。それでも、自分の手の置き方だけが、ほんの少し変わっている気がした。
埋めなくてもよい空白が、世の中にはある。そしてその空白は、思っていたほど恐ろしいものではない。
委員会室の窓から入る風が、帳面の端をかすかに揺らす。その静けさの中で、彼の存在だけがやはり少し重く残る。けれどエレノアは、もうそれを急いで片づけようとは思わなかった。




