表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/45

読む人の歩幅

 午後の光が、委員会室の窓辺を静かに横切っていた。


 創立祭の後片づけもほぼ終わり、長机の上に積まれていた帳面や控えの束も、数日前よりずいぶん低くなっている。紙を揃える音、綴じ紐を結ぶ音、椅子を引く小さな気配。そうしたものが、今日は妙に落ち着いて聞こえた。


「こちらは、もう揃っておりますので」


 書類を抱えた下級生が、丁寧に頭を下げる。

 エレノアは差し出しかけた手をそのまま止め、相手の手元を一度見た。


「ありがとうございます。あとはこちらで進められます」


 別の委員がそう続けて、確認済みの札を受け取っていく。

 その動きは急ぐでもなく、けれど迷いもなく整っていた。


 エレノアはゆるやかにまばたきをした。


「……そう、もう大丈夫なのね」


 誰にも届かないほどの小さな独り言は、そのまま自分の胸の内へ落ちていく。


 以前なら、こういう場面で立ち止まることはなかった。

 誰かの手が足りないように見えれば補い、迷う気配があれば先回りし、滞りそうなものがあれば、自分のほうへ引き寄せて整えていた。それが自然なことだったし、そうしたほうが物事は早く済んだ。


 けれど今日は、すでに回っている流れの中へ、自分がわざわざ入っていく必要を感じなかった。


 帳面の端を揃え、机の上を軽く整え終えると、もう急ぎで手をつけるべきことは残っていなかった。


 そこで初めて、エレノアは手元から顔を上げる。


 窓の外は、まだ午後の明るさを保っている。

 夕刻には少し早く、次の予定までには少し余る、曖昧な時間だった。


「少し、お時間が空いてしまいましたわね」


 誰にともなく呟いて、エレノアは小さく息をつく。


 急ぐ用はない。

 呼びに行く相手もいない。

 確認のために追いかけるべき背中も、今日は見当たらない。


 そうと分かった途端、かえって落ち着かない気がした。


 空いた時間がある。それだけのことなのに、どう使えばよいのかすぐには思いつかない。

 今までなら、その余白は誰かの仕事や都合で自然に埋まっていたのだろう。


「急ぐ用もないのに、落ち着かないなんて」


 少しだけ苦笑がこぼれる。

 けれど、笑ってしまえるぶんだけ、もう息苦しくはなかった。


 ふと、図書室のことが頭に浮かんだ。


 前から気になっていた棚がある。

 授業や委員会の資料ではなく、もう少しゆっくり読みたいと思いながら、後回しにしていた本もあったはずだ。


「……図書室なら、まだ開いているかしら」


 そう口にしてみると、その考えは思いのほかしっくりきた。


 誰かに頼まれたわけでもない。

 何かのために必要なわけでもない。

 ただ、自分が行ってみたいと思ったから行く。


 それだけのことを、少しだけ慎重に選ぶような気持ちで、エレノアは委員会室をあとにした。






 図書室は午後の静けさをたたえたまま、いつもより広く見えた。


 背の高い本棚が整然と並び、窓際の机には薄く陽が落ちている。ページをめくる音と、ときおり遠くで本を戻す小さな音だけが、やわらかく空気を揺らしていた。


 エレノアは入口近くで一度足を止め、静かに室内を見渡した。

 慌ただしく用事の合間に通り過ぎるのではなく、こうして“ここにいるためだけにいる”のは、いつぶりだろうと思う。


 書架の間へ進みながら、指先で本の背を追う。

 題名を眺め、少し気になっては通り過ぎ、また戻る。

 急かされないまま本を選ぶのは、思っていたよりも難しく、そして思っていたより心地よかった。


「何を読みたいのかしら、わたくしは」


 思わずそんな言葉が漏れる。


 誰かの参考になるものではなく。

 委員会の役に立つものでもなく。

 授業の補助として読むものでもなく。


 自分のために読むなら、何を選ぶのがよいのだろう。


 ひとつの棚の前で足を止める。

 記録や紀行文、古い随筆が並ぶ区画だった。派手ではないが、静かな気配の本が多い。

 前に一度気になって、けれどその日は時間がなくて見送った棚だ。


 その中の一冊に目が留まる。

 淡い色の背表紙に、金の細い文字。

 手に取ろうとして、題名をもう一度確かめるように少し身を寄せた、そのときだった。


「――その本を、お探しですか」


 落ち着いた声が、すぐ近くから聞こえた。


 驚いて振り向くと、彼が本棚の端に立っていた。

 手にはすでに別の本を一冊持っている。どうやら同じ棚に用があったらしい。

 委員会室とは違う場所で見るせいか、その姿はどこか輪郭がやわらかく見えた。


「……珍しいですわね」


 そう言ってから、エレノアは少しだけ言葉を選び直す。


「委員会室ではない場所でお会いするのは、新鮮ですわ」


 彼はほんのわずかに目元を和らげた。


「たしかに、そうかもしれません」

「こちらへは、よくいらっしゃるのですか」

「時々。静かな場所ですから」


 短い答え方なのに、そっけなくはない。

 それだけで、図書室の空気に不思議とよく合っていた。


 彼の視線が、エレノアの手元へ落ちる。


「その棚は、記録や紀行文が多かったはずです」

「ええ、少し気になっておりましたの。けれど、何を選べばよいのか迷ってしまって」

「迷われるのも無理はありません」


 そう言って、彼は自分の持っていた本を閉じる。


「そのあたりは、役に立つというより、読む人の歩幅に合う本が多いので」

「読む人の……歩幅」


 思いがけない言い方に、エレノアは小さく繰り返した。


「ええ。早く読み進めるためのものでも、何かを片づけるためのものでもない、という意味です」


 その言葉は静かだった。

 けれど、妙に胸に残った。


「読むための本は、役に立つものばかりでなくてよいのでしょうか」


 問いというより、確かめるように口にすると、彼は少しだけ考えるような間を置いた。


「ご自身のために選ぶのでしたら、迷う時間も無駄ではありません」


 その声音はごく自然だった。

 特別な慰めのように聞かせようとしているわけではない。

 ただ、そういうものだと知っている人の声だった。


 エレノアは本の背表紙へ視線を落とした。

 さっきまで少し迷っていた指先が、いつの間にか力を抜いている。


「では、今日は迷っていてもよろしいのですね」

「ええ」


 彼はすぐにうなずいた。


「その時間を持てたのなら、今日はこちらへいらして正解でしたね」


 その一言に、エレノアは思わず顔を上げた。


 やわらかく言われたわけではない。

 むしろ口調はいつも通り、静かで落ち着いている。

 けれど、その“正解でしたね”は、今日の午後そのものを肯定してくれるように響いた。


「……そうかもしれませんわね」


 答えた声が、思っていたより軽い。

 胸の内に張っていたものが、細い糸から順にほどけていくような気がした。


 彼はそれ以上踏み込まず、棚の端に視線を戻した。


「もし静かなものをお求めなら、その隣の段も似た傾向です」

「ありがとうございます」

「いえ」


 それだけ言って、彼は一歩だけ位置を譲る。

 近すぎず、遠すぎず、選ぶ邪魔にならない距離だった。


 エレノアは先ほどの本をもう一度手に取った。

 それから、隣の段も見比べる。

 迷う時間が無駄ではないのなら、急いで決める理由もない。


 しばらくして、ようやく一冊を選び取る。

 薄い装丁の、静かな題名の本だった。


「……今日は、この本にいたしましょう」


 ほとんど独り言のようにそう言うと、彼が小さくこちらを見た。


「よい選び方だと思います」

「題名だけで決めてしまいましたのに?」

「題名で手が止まる本には、たいてい理由があります」


 その答え方が、少しだけ可笑しかった。

 エレノアは声を立てないまま笑い、指先で表紙の角をそっと撫でた。


「では、読むのが少し楽しみですわ」

「それなら、もう十分でしょう」


 簡潔な言葉なのに、妙に心へ残る。

 それ以上の会話はなくても、もう足りている気がした。






 貸出の手続きを終え、図書室を出るころには、窓の外の光が少しだけやわらいでいた。


 本を抱えて廊下を歩く。

 まだ表紙を開いてもいないのに、その重みが今日は不思議と心地よい。

 腕の中に収まる一冊ぶんだけ、自分のための時間を持ち帰っているようだった。


「まだ読んでもいないのに、不思議ですわね」


 思わずそう呟いて、エレノアは本の背へそっと指を滑らせる。


 足取りが、来たときよりも少しだけゆるやかだった。


 窓辺を渡る風が、抱えた本の端をかすかに揺らす。

 “今日はこちらへいらして正解でしたね”という一言だけが、しおりのように胸のどこかへ挟まったまま、静かに残っている。


 エレノアはそのまま歩きながら、表紙をもう一度そっと撫でた。


 この午後を、あとで思い出す気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ