読む人の歩幅
午後の光が、委員会室の窓辺を静かに横切っていた。
創立祭の後片づけもほぼ終わり、長机の上に積まれていた帳面や控えの束も、数日前よりずいぶん低くなっている。紙を揃える音、綴じ紐を結ぶ音、椅子を引く小さな気配。そうしたものが、今日は妙に落ち着いて聞こえた。
「こちらは、もう揃っておりますので」
書類を抱えた下級生が、丁寧に頭を下げる。
エレノアは差し出しかけた手をそのまま止め、相手の手元を一度見た。
「ありがとうございます。あとはこちらで進められます」
別の委員がそう続けて、確認済みの札を受け取っていく。
その動きは急ぐでもなく、けれど迷いもなく整っていた。
エレノアはゆるやかにまばたきをした。
「……そう、もう大丈夫なのね」
誰にも届かないほどの小さな独り言は、そのまま自分の胸の内へ落ちていく。
以前なら、こういう場面で立ち止まることはなかった。
誰かの手が足りないように見えれば補い、迷う気配があれば先回りし、滞りそうなものがあれば、自分のほうへ引き寄せて整えていた。それが自然なことだったし、そうしたほうが物事は早く済んだ。
けれど今日は、すでに回っている流れの中へ、自分がわざわざ入っていく必要を感じなかった。
帳面の端を揃え、机の上を軽く整え終えると、もう急ぎで手をつけるべきことは残っていなかった。
そこで初めて、エレノアは手元から顔を上げる。
窓の外は、まだ午後の明るさを保っている。
夕刻には少し早く、次の予定までには少し余る、曖昧な時間だった。
「少し、お時間が空いてしまいましたわね」
誰にともなく呟いて、エレノアは小さく息をつく。
急ぐ用はない。
呼びに行く相手もいない。
確認のために追いかけるべき背中も、今日は見当たらない。
そうと分かった途端、かえって落ち着かない気がした。
空いた時間がある。それだけのことなのに、どう使えばよいのかすぐには思いつかない。
今までなら、その余白は誰かの仕事や都合で自然に埋まっていたのだろう。
「急ぐ用もないのに、落ち着かないなんて」
少しだけ苦笑がこぼれる。
けれど、笑ってしまえるぶんだけ、もう息苦しくはなかった。
ふと、図書室のことが頭に浮かんだ。
前から気になっていた棚がある。
授業や委員会の資料ではなく、もう少しゆっくり読みたいと思いながら、後回しにしていた本もあったはずだ。
「……図書室なら、まだ開いているかしら」
そう口にしてみると、その考えは思いのほかしっくりきた。
誰かに頼まれたわけでもない。
何かのために必要なわけでもない。
ただ、自分が行ってみたいと思ったから行く。
それだけのことを、少しだけ慎重に選ぶような気持ちで、エレノアは委員会室をあとにした。
図書室は午後の静けさをたたえたまま、いつもより広く見えた。
背の高い本棚が整然と並び、窓際の机には薄く陽が落ちている。ページをめくる音と、ときおり遠くで本を戻す小さな音だけが、やわらかく空気を揺らしていた。
エレノアは入口近くで一度足を止め、静かに室内を見渡した。
慌ただしく用事の合間に通り過ぎるのではなく、こうして“ここにいるためだけにいる”のは、いつぶりだろうと思う。
書架の間へ進みながら、指先で本の背を追う。
題名を眺め、少し気になっては通り過ぎ、また戻る。
急かされないまま本を選ぶのは、思っていたよりも難しく、そして思っていたより心地よかった。
「何を読みたいのかしら、わたくしは」
思わずそんな言葉が漏れる。
誰かの参考になるものではなく。
委員会の役に立つものでもなく。
授業の補助として読むものでもなく。
自分のために読むなら、何を選ぶのがよいのだろう。
ひとつの棚の前で足を止める。
記録や紀行文、古い随筆が並ぶ区画だった。派手ではないが、静かな気配の本が多い。
前に一度気になって、けれどその日は時間がなくて見送った棚だ。
その中の一冊に目が留まる。
淡い色の背表紙に、金の細い文字。
手に取ろうとして、題名をもう一度確かめるように少し身を寄せた、そのときだった。
「――その本を、お探しですか」
落ち着いた声が、すぐ近くから聞こえた。
驚いて振り向くと、彼が本棚の端に立っていた。
手にはすでに別の本を一冊持っている。どうやら同じ棚に用があったらしい。
委員会室とは違う場所で見るせいか、その姿はどこか輪郭がやわらかく見えた。
「……珍しいですわね」
そう言ってから、エレノアは少しだけ言葉を選び直す。
「委員会室ではない場所でお会いするのは、新鮮ですわ」
彼はほんのわずかに目元を和らげた。
「たしかに、そうかもしれません」
「こちらへは、よくいらっしゃるのですか」
「時々。静かな場所ですから」
短い答え方なのに、そっけなくはない。
それだけで、図書室の空気に不思議とよく合っていた。
彼の視線が、エレノアの手元へ落ちる。
「その棚は、記録や紀行文が多かったはずです」
「ええ、少し気になっておりましたの。けれど、何を選べばよいのか迷ってしまって」
「迷われるのも無理はありません」
そう言って、彼は自分の持っていた本を閉じる。
「そのあたりは、役に立つというより、読む人の歩幅に合う本が多いので」
「読む人の……歩幅」
思いがけない言い方に、エレノアは小さく繰り返した。
「ええ。早く読み進めるためのものでも、何かを片づけるためのものでもない、という意味です」
その言葉は静かだった。
けれど、妙に胸に残った。
「読むための本は、役に立つものばかりでなくてよいのでしょうか」
問いというより、確かめるように口にすると、彼は少しだけ考えるような間を置いた。
「ご自身のために選ぶのでしたら、迷う時間も無駄ではありません」
その声音はごく自然だった。
特別な慰めのように聞かせようとしているわけではない。
ただ、そういうものだと知っている人の声だった。
エレノアは本の背表紙へ視線を落とした。
さっきまで少し迷っていた指先が、いつの間にか力を抜いている。
「では、今日は迷っていてもよろしいのですね」
「ええ」
彼はすぐにうなずいた。
「その時間を持てたのなら、今日はこちらへいらして正解でしたね」
その一言に、エレノアは思わず顔を上げた。
やわらかく言われたわけではない。
むしろ口調はいつも通り、静かで落ち着いている。
けれど、その“正解でしたね”は、今日の午後そのものを肯定してくれるように響いた。
「……そうかもしれませんわね」
答えた声が、思っていたより軽い。
胸の内に張っていたものが、細い糸から順にほどけていくような気がした。
彼はそれ以上踏み込まず、棚の端に視線を戻した。
「もし静かなものをお求めなら、その隣の段も似た傾向です」
「ありがとうございます」
「いえ」
それだけ言って、彼は一歩だけ位置を譲る。
近すぎず、遠すぎず、選ぶ邪魔にならない距離だった。
エレノアは先ほどの本をもう一度手に取った。
それから、隣の段も見比べる。
迷う時間が無駄ではないのなら、急いで決める理由もない。
しばらくして、ようやく一冊を選び取る。
薄い装丁の、静かな題名の本だった。
「……今日は、この本にいたしましょう」
ほとんど独り言のようにそう言うと、彼が小さくこちらを見た。
「よい選び方だと思います」
「題名だけで決めてしまいましたのに?」
「題名で手が止まる本には、たいてい理由があります」
その答え方が、少しだけ可笑しかった。
エレノアは声を立てないまま笑い、指先で表紙の角をそっと撫でた。
「では、読むのが少し楽しみですわ」
「それなら、もう十分でしょう」
簡潔な言葉なのに、妙に心へ残る。
それ以上の会話はなくても、もう足りている気がした。
貸出の手続きを終え、図書室を出るころには、窓の外の光が少しだけやわらいでいた。
本を抱えて廊下を歩く。
まだ表紙を開いてもいないのに、その重みが今日は不思議と心地よい。
腕の中に収まる一冊ぶんだけ、自分のための時間を持ち帰っているようだった。
「まだ読んでもいないのに、不思議ですわね」
思わずそう呟いて、エレノアは本の背へそっと指を滑らせる。
足取りが、来たときよりも少しだけゆるやかだった。
窓辺を渡る風が、抱えた本の端をかすかに揺らす。
“今日はこちらへいらして正解でしたね”という一言だけが、しおりのように胸のどこかへ挟まったまま、静かに残っている。
エレノアはそのまま歩きながら、表紙をもう一度そっと撫でた。
この午後を、あとで思い出す気がした。




