残された時間
夜は静かに更けていた。
卓上灯のやわらかな明かりの下で、エレノアは借りてきた本をそっとめくる。
急いで先を知りたいというより、今読んでいる一節の静けさをそのまま手の中に置いておきたくなるような本だった。
「読み終えることより、読んでいる時間のほうが残るのね」
小さく呟いて、少しだけ可笑しくなる。
前なら、本を開いていても次の予定が頭の隅に差し込んできたはずだ。
明日の段取り、返事待ちの書類、先に整えておいたほうがよいこと。そういうものが、頁のあいだからすぐに入り込んできた。
けれど今夜は違う。
何かを片づけるためではなく、ただ読んでいる。そのこと自体がまだ少し不思議で、けれど嫌ではなかった。
ふと本を閉じると、昨日の図書室で交わした短いやり取りが、言葉よりも気配に近い形で思い出された。
――ご自身のために選ぶのでしたら、迷う時間も無駄ではありません。
――その時間を持てたのなら、今日はこちらへいらして正解でしたね。
声が鮮やかに蘇るわけではない。
ただ、その言葉だけが、しおりのように心のどこかへ挟まったままになっている。
エレノアは本を机の端へ置き、静かに息をついた。
明日になれば、またいつもの学園が始まる。
それでも今は、この余韻を少しだけ持ったまま眠りにつきたかった。
翌朝、委員会室へ向かう廊下には、まだやわらかな朝の光が落ちていた。
生徒たちの話し声、窓辺を渡る白い明るさ、運ばれていく教材の束。
何も変わらないはずの朝なのに、エレノアには少しだけ見え方が違っていた。
以前と同じように、人の動きは目に入る。
どこが滞りそうか、誰が手間取っているかも分かる。
けれど、それを見つけた瞬間に自分が埋めに行かなければならないような焦りは、今日はなかった。
まず見ることと、すぐに引き受けることは、きっと同じではないのね。
そう心の中で確かめながら、委員会室の扉を開ける。
机の上には、朝のうちにまとめられた紙束がいくつか並んでいた。
創立祭は終わっても、整理や確認の必要なものはまだ残っている。けれど最盛期のような慌ただしさはなく、室内には落ち着いた空気が流れていた。
「おはようございます、エレノア様」
先に来ていた下級生が立ち上がる。
エレノアは微笑んで頷いた。
「おはようございます。今朝は早いのね」
「はい。昨日の続きで、まとめておいたほうがよいかと思いまして」
「ありがとう。助かりますわ」
机の上を軽く見渡す。
分類も以前より整っていて、誰か一人が無理に抱え込まなくても、少しずつ回るようになってきているのが分かった。
そのとき、扉が開いて別の委員が入ってきた。
腕の中には数枚の書類と、折りたたまれた連絡控えがある。
「申し訳ありません、少しよろしいでしょうか」
「ええ、どうなさいましたの」
「創立祭後の報告書類なのですが、委員長確認の欄がまだ空いておりまして……」
差し出された紙を受け取ろうとして、エレノアはそこで手を止めた。
「委員長確認の件でしたら、いつも通りエレノア様にお願いできればと……」
その言い方に悪気はない。
むしろ、ごく自然だった。
“いつも通り”。
その一言だけで、これまで物事がどんなふうに流れてきたのかが、あまりにもよく見えてしまう。
委員長本人の確認が必要なものでも、先に整えておけば早いからとこちらへ回される。
あるいは不在のあいだに話が止まるのを避けるため、エレノアが預かる。
そういう流れが、いつの間にか“自然なこと”になっていたのだ。
「……少し、お待ちいただけるかしら」
室内の空気が、ほんのわずかに静まった。
大きな声を出したわけではない。
ただ、“いつもの続き”ではないということだけが、静かに伝わったようだった。
エレノアは相手の持つ書類を見つめる。
「それは、わたくしがお受けするものだったかしら」
問いかけるように言うと、頼みに来た委員は少しだけ目を丸くした。
「え……いえ、その……確認欄が空いておりますので、ひとまずお預かりいただければ助かるのですが」
「そう」
エレノアはうなずく。
相手を困らせたいわけではない。責めたいわけでもない。
ただ、何となく流れてきたものを、今回もまた何となく受け取るのは違うと思った。
「こちらは先に、どなたのご確認を通すものだったかしら」
穏やかにそう問う。
頼みに来た委員は一度書類を見下ろし、それから少し考えるように口を開いた。
「本来は、委員長です」
「ええ」
エレノアはやわらかく頷く。
「でしたら、わたくしがお預かりするより、先にそちらへお持ちになるほうがよろしいかと存じます」
「ですが、委員長は今朝もお忙しいかと……」
「そうかもしれませんわね」
その可能性は否定しない。
否定しないまま、エレノアは続けた。
「けれど、そのご判断が必要な書類でしたら、先に通すべき順は変わりませんでしょう」
「……はい」
「わたくしが受けてしまうと、かえって分かりにくくなってしまいますわ」
その言葉に、相手はようやく小さく息をついた。
「そう、ですね……申し訳ありません。先に確認を取ってまいります」
「ええ、お願いいたします」
委員は書類を抱え直し、今度は少しだけ背筋を伸ばして部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、室内には短い沈黙が残る。
けれどそれは気まずいものではなく、置き直された物の位置を皆が見ているような静けさだった。
近くで書類をそろえていた下級生が、はっとしたように別の束を見下ろす。
「……こちらも、先に確認先を分けておいたほうがよさそうですね」
「ええ、そのほうが流れがはっきりいたしますわ」
「では、委員長確認のものは別にいたします」
その声につられるように、向かいの机の委員も手元の控えを見直す。
「昨日の分も、確認待ちと済みのものを分けておきます」
「助かりますわ」
たったそれだけのやり取りだった。
それでも、今まで曖昧なまま寄りかかっていた流れが、少しずつ正しい形へ戻っていく気配があった。
エレノアは机に手を置いたまま、そこでようやく自分が少し緊張していたことに気づく。
強く言ったつもりはない。それでも、前と違う返し方をするには、思っていたよりも力が要ったらしい。
「……今後は、その順をはっきりさせておいたほうがよさそうですわね」
誰にともなく言うと、先ほどの下級生がこくりと頷いた。
「はい。そのほうが、みなも迷わずに済むと思います」
「ええ。そういたしましょう」
短いやり取りのあと、室内の空気は少しずつ元へ戻っていった。
けれど以前とまったく同じではない。
誰かの中で、何かの並び方が少しだけ直されたような感触があった。
それからの時間、エレノアは必要な確認だけを進め、必要以上に手を広げなかった。
目に入ることと、自分が引き受けることは別だと、何度か心の中でそっと確かめながら。
昼を過ぎるころには、書類の山は朝よりも確かに低くなっていた。
けれどそれは、以前のようにエレノア一人が整えた形ではない。
それぞれの持ち場で、持つべき人が動いた結果だった。
窓の外へ視線を向けると、春のやわらかな光が中庭の石畳へ落ちている。
肩で息をするほど忙しいわけではないのに、前ならこの時間にはもっと鈍い重さが身体のどこかに溜まっていたはずだった。
「疲れていないわけではないのに、前ほど重くないのね」
誰にも聞こえないように呟いてから、自分で少し驚く。
たった一度、受け取らないと決めただけで、こんなにも違うのだろうか。
けれど違うのだ、と胸のどこかが静かに答えていた。
その日の終わり、エレノアはいつもより少し早い足取りで自室への廊下を歩いていた。
急いでいるわけではない。
むしろ歩幅は穏やかで、足音まで軽い。
けれど心のどこかに、今日がまだ終わりきっていないような感覚があった。
部屋へ戻れば、机の上には昨夜の続きの本が置かれている。
「部屋に帰れば、まだわたくしの時間が残っている」
そう思った途端、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
前にも夜はあった。
前にも自室はあった。
けれどそこへ戻るころには、たいてい誰かのために使い切ったあとの疲れが先にあった。
今日は違う。
疲れがないわけではない。
けれど、自分のぶんが残っている。
それがこんなにも静かで、こんなにも心強いことなのだと、今になって知る。
部屋の扉を開け、机の上の本へ視線を向ける。
読みかけの頁が、自分を急かしもせず、ただそこに待っている。
エレノアはそっと表紙に触れ、わずかに目を細めた。
昨日借りたばかりの一冊が、今日の選び方まで変えている。
そう思うと少し不思議で、けれど嫌ではなかった。
急がずに戻れる夕方なんて、少し久しぶりだわ。
心の中だけでそう呟いて、エレノアは静かに本を開いた。




