表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/45

残るのは言葉

 朝の委員会室には、まだ一日の始まりらしい静けさが残っていた。


 窓から差し込む光はやわらかく、長机の上に並んだ紙束の端を白く照らしている。廊下を行き交う足音もまだ少なく、扉の向こうのざわめきも遠い。


 エレノアは入室してすぐ、その静けさの中に、昨日までとは少し違う整い方があることに気づいた。


 確認待ちの書類。

 すでに済んだもの。

 保留として置かれているもの。


 それぞれが、前より分かりやすく分けられている。机の上にただ積まれているのではなく、流れに沿って置かれていた。


「おはようございます、エレノア様」


 先に来ていた下級生が立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。


「おはようございます」

「こちら、確認待ちのものは先に分けておきました。昨日の分も、済んだものとまだのものを分けております」

「まあ」


 エレノアは目を細め、机の上をあらためて見渡した。


 ただ丁寧にそろっている、というだけではない。

 どこで止まっているのか、何が誰の確認を待っているのかが、一目で分かるようになっている。


「今のほうが、どこで止まっているのか見えやすいですね」


 別の委員が、ほっとしたように言った。

 何気ない声だったけれど、その言葉はエレノアの胸の内へ小さく波紋を広げる。


 昨日のやり取りは、その場をしのぐためだけのものではなかったのだ。


「そうね。これなら、次に見る方も迷わずに済みそうですわ」

「はい。前よりずっと分かりやすいです」


 その“前より”という言葉に、エレノアはほんの少しだけ息をついた。


 何かを変えるとき、自分だけがそう思っているのではないかと不安になることがある。けれど、目の前の整い方は、それが思い込みではなかったと静かに教えてくれていた。


 席に着き、手袋を外して机に置いたころ、先ほどの下級生がためらいがちに声をかけてきた。


「あの、エレノア様」

「どうしましたの」

「先日、分けてくださって助かりました」


 あまりにまっすぐな言葉で、エレノアは一瞬だけ返事を忘れた。


 下級生は、自分の声が強すぎたと思ったのか、少し慌てたように続ける。


「ご面倒をおかけしたのではと心配していたのですが、むしろ逆でした。あのあと、誰がどれを持つべきか分かりやすくなって……皆も迷わずに動けましたので」

「……そう」


 その一言が、思いのほかやさしく胸に落ちた。


 線を引くことは、誰かを突き放すことだと、どこかで思い込んでいたのかもしれない。

 少なくとも、少し前までのエレノアならそうだった。自分が受けないことで困る人がいるのではないか、自分が止まることで空気が悪くなるのではないかと、先回りして恐れていた。


 けれど返ってきたのは、不満ではなかった。


「それなら、よかったわ」

「はい。本当に」


 下級生はほっとしたように微笑む。

 その笑みがあまりにも素直で、エレノアも自然と頬をやわらげた。


「今後も、確認先がはっきりしているほうが動きやすいと思います」

「ええ。わたくしもそう思いますわ」


 短いやり取りが終わったあとも、その言葉はしばらく胸のどこかに残っていた。


 助かりました。


 それだけのことなのに、今までずっと返ってこなかったもののようにも思えた。

 裏方の仕事が片づけば、それで終わりだった。整っていることは当然で、誰がどこを整えたかは、そのまま見えなくなっていく。


 それが当たり前だと思っていたのに、今日は小さな言葉になって戻ってきた。


 午前の仕事がゆるやかに進み始めるころ、別の委員が数枚の書類を抱えてエレノアの席へやってきた。


「エレノア様、少しよろしいでしょうか」

「ええ、どうなさいましたの」


 差し出された紙には、創立祭後のまとめに関する簡単な報告と、今後の整理方法についての控えが添えられていた。見慣れた類いの書類だ。

 けれど、相手の来意はいつもとは少し違っていた。


「こちら、お願いするというより、まずお考えをお聞きしたくて参りました」

「……わたくしの?」


 思わず問い返してしまう。


「はい。どなたに先にご相談すべきか迷ってしまって……。確認の順をどうしたら、皆が動きやすいか、エレノア様でしたらどうなさるかと思いまして」


 エレノアは相手の顔を見た。


 そこにあるのは、押しつける前提の遠慮ではない。

 処理を任せるための言い回しでもなかった。


 意見を聞きたい。

 どう考えるかを知りたい。


 そういう頼られ方をされたことが、これまで一度もなかったわけではない。けれど少なくとも、こうして当然のように――“手を借りる”のではなく、“考えを聞く”ために来られることには、まだ慣れていない。


「少し、拝見してもよろしいかしら」

「はい、もちろんです」


 書類を受け取り、内容を目で追う。

 大きく複雑な問題ではない。けれど、順番を曖昧にしたままそれぞれが動けば、またどこかで流れが滞るだろうということはすぐに分かった。


 エレノアは紙の端を指先で押さえたまま、少し考える。


「急いで回すより、順を整えたほうが結局は早いのではないかしら」

「はい……」


 相手は真剣な顔で続きを待っていた。

 その待ち方が、また少し不思議だった。以前なら、説明の途中でも“では、それをお願いできますか”へ流れていくことが多かったのに、今日はちゃんと聞いている。


「まず、こちらは確認の要るものと、共有だけで済むものを分けたほうがよろしいと思いますわ。そして確認の要るものは、順番を先に決めてから回したほうが、途中で止まりません」

「なるほど……」

「この形にしておけば、次に見る方も迷わずに済みますわ。今のままですと、見る方によって扱いが変わってしまいそうですもの」

「たしかに、その通りです」


 相手の表情が、ふっと明るくなる。


「そのほうが分かりやすいです。では、そのようにいたします」

「ええ。もし途中で迷うようでしたら、確認先だけもう一度整理いたしましょう」

「ありがとうございます。そう言っていただけると、進めやすくなります」


 書類を抱え直したその人は、来たときよりもずっとはっきりした足取りで席を離れていった。


 エレノアはしばらく、その背を見送っていた。


 自分の言葉が、そのまま受け取られる。

 命令でもなく、押しつけでもなく、ただ“考え”として渡したものが、相手の中で役に立つ形になっていく。


 ほんの小さなことのはずなのに、胸の奥へ静かに広がる心地があった。


 今まで求められていたのは、“手”だったのだ。

 席を埋めること。書くこと。まとめること。遅れたぶんを片づけること。誰かがいないときに、その空白を見えないようにすること。


 けれど今日は違う。


 自分が何をどう考えるかを尋ねられた。

 そして答えた言葉が、ちゃんと受け取られた。


 その違いを、エレノアは少し遅れてから強く意識した。


 昼前、いくつかの書類を別室へ届けた帰りだった。


 廊下の角を曲がったところで、見覚えのある姿が視界に入る。

 静かな色合いの制服、姿勢のよい立ち方、こちらへ向けられる視線の落ち着き。図書室で言葉を交わした彼だった。


 エレノアは一瞬だけ足を止めかけ、それを不自然にならない程度に歩幅へ溶かす。


「ごきげんよう」

「ごきげんよう、エレノア様」


 彼は丁寧に一礼し、それからわずかに目を細めた。


「先ほど、少し拝見いたしました」

「……そうでしたの」


 見られていたことそのものより、それを不快に感じていない自分に気づいて、エレノアは少しだけ声をやわらげる。


「よい整理の仕方でしたね」

「ありがとうございます」


 短い言葉だった。

 けれど、ただ褒めるために置かれたものではなく、ちゃんと見たうえで渡された言葉だと分かる。


 彼はさらに、ほんの少しだけ続けた。


「本日は、迷われませんでしたね」


 その一言に、エレノアは目を瞬かせた。


 図書室で本を選んだ日のこと。

 迷う時間も無駄ではないと言われたこと。

 そして昨日、自分の手を止めた一瞬のことまでが、細い糸のようにつながる。


「……ええ。少しだけ」

「それは何よりです」


 彼はそれ以上、踏み込んでこなかった。

 問いただしもせず、近づきすぎもせず、ただ静かにその変化を受け取るような声音だった。


 それが、かえって胸に残る。


「では、失礼いたします」

「ええ。ごきげんよう」


 すれ違ったあとも、彼の言葉だけが廊下の光の中に薄く残っているような気がした。


 本日は、迷われませんでしたね。


 あれはきっと、書類のことだけではない。

 そう思ったけれど、その意味を深く追いかけるには、まだ今日の胸の内は少しあたたかすぎた。


 午後の委員会室は、朝よりも少しにぎやかだった。

 それでも流れは乱れず、確認待ちの書類は確認待ちの束へ、済んだものは済んだものとして収まっていく。


 小さなことだ。

 けれど、その小ささの積み重ねで空気は変わる。


 誰かが一人で抱え込まなくても、整う形がある。

 そしてその整い方は、誰かを便利に使い切ることでしか保てないものではなかった。


 エレノアはいつもより軽い手つきで紙をそろえながら、ふと、自分が今日は何度も息を詰めずに済んでいることに気づいた。立ち上がるたび、声をかけられるたび、身構えていない。


 助かりました。

 お考えをお聞きしたくて。

 そのほうが分かりやすいです。

 よい整理の仕方でしたね。


 返ってきた言葉はどれも小さい。

 けれど小さいからこそ、胸の中に余計な波を立てずに残るのかもしれなかった。


 夕方、自室へ戻るころには、窓の外の光は少しやわらいでいた。

 廊下を歩く足音は朝よりゆっくりで、行き交う人の数もまばらになっている。


 部屋の扉を開けると、机の上に昨夜の続きを待つ本が置かれていた。

 それを見た瞬間、エレノアはようやく今日一日を胸の内へ収めるように息をつく。


 椅子を引き、座る。

 すぐに本を開くのではなく、その前に少しだけ静かな時間を置いた。


 今日返ってきた言葉を、一つずつ思い返す。


 先日、分けてくださって助かりました。

 ご面倒をおかけしたのではと心配していたのですが、むしろ逆でした。

 この件、エレノア様のお考えをお聞きしたくて。

 そのほうが分かりやすいです。では、そのようにいたします。

 よい整理の仕方でしたね。

 本日は、迷われませんでしたね。


 どれも大げさではない。

 だからこそ、作りものめかず、胸の奥へまっすぐ落ちる。


 自分を使い切らなければ、何も残らないのだと思っていた。

 先に差し出し、先に埋めて、先に整えなければ、人との関わりはほどけてしまうのだと、どこかで信じていた。


 けれど、違うのかもしれない。


 自分のぶんを残したままでも、返ってくるものがある。

 線を引いても、壊れないものがある。

 むしろ、そのほうがきれいに結び直される関係もあるのだと、今日のエレノアは少しだけ知ってしまった。


「今日は、時間だけではなくて、言葉も残っているのね」


 そう呟くと、部屋の静けさがやわらかくなった気がした。


 エレノアは本の表紙にそっと触れ、頁を開く。

 読みかけの物語は、昨夜と同じようにそこにあった。けれど本を開く自分は、少しだけ違っている。


 自分のための時間がある。

 そのうえで、今日返ってきた言葉もまた、自分の中に残っている。


 それは不思議なほど静かで、けれど確かなあたたかさだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ