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手の届くところだけ

 創立祭を二日後に控えた学園は、どこへ行っても人の気配と紙の擦れる音に満ちていた。


 中庭では舞台装飾の仮組みが進み、廊下では案内札を抱えた生徒たちが足早に行き交う。階段の踊り場にはまだ結びきれていない布花の束が積まれ、窓辺には運び込まれた木箱がいくつも並んでいた。


 にぎやかで、慌ただしくて、少し浮き立っている。

 それでも図書塔の一角だけは、外の空気と切り離されたように静かだった。


 エレノアは机の上へ広げた帳面に目を落とし、貸出記録と展示用資料の一覧を照らし合わせていた。

 窓から差し込む光はやわらかく、インクの乾く速度さえ落ち着いて見える。


 以前の自分なら、こうして座っている間にも、何か抜けがあるのではないかと落ち着かなかっただろう。

 誰かが困っているなら手を貸さなければならない。

 呼ばれる前に気づいて動かなければならない。

 そういう張りつめた気持ちが、いつもどこかにあった。


 けれど今日は、少し違った。


 目の前の仕事に目を向けているだけでいい時間がある。

 それをまだ完全には信じきれないまま、それでもエレノアはページを一枚めくった。


「エレノア様、少々よろしいでしょうか」


 声をかけられて顔を上げると、実行委員の腕章をつけた女子生徒が、数枚の書類を抱えて立っていた。

 その後ろには、同じく準備に追われているらしい男子生徒が不安そうな顔で覗き込んでいる。


「どうなさいました?」

「こちら、模擬店の配置に関する最終確認なのですが……アルフレッド様の確認待ちになっていたものがありまして」

「ああ……」

「エレノア様なら、お分かりになりますよね」


 その言葉は、あまりにも自然に出てきた。

 押しつけるような響きではない。

 むしろ、ごく当たり前の手順を確かめるような言い方だった。


 エレノアは書類へ目を落とした。

 配置図の端には、見覚えのある筆跡で簡単な印がついている。アルフレッドが途中まで見ていたものなのだろう。

 以前なら、ここで何も考えずに受け取っていたはずだった。


「ええ、では――」


 言いかけて、エレノアは止まる。


 ほんの短い間だった。

 相手にはためらいとすら見えなかったかもしれない。

 けれどその一瞬のあいだに、胸の奥で小さく引っかかるものがあった。


 最初から、譲るほうに置かれていたのは、私だったのかもしれない。


 昨日、自分の中で静かに形を持った言葉が、ふたたび胸の内に浮かぶ。


「……少し、確認させてください」


 そう口にした直後、自分が思った以上に息を詰めていたことに気づいた。

 喉の奥が、かすかに乾いている。


 エレノアは書類を受け取るかわりに、机の上へ視線を向けたまま必要な箇所を示した。


「こちらの確認まではできます。その先は、模擬店担当の方へお戻しください」

「え?」


 女子生徒が目を丸くする。

 その横で男子生徒も、書類を抱え直したまま固まった。


「配置そのものに矛盾がないかは見られます。ただ、最終の承認や差し替えの手配は、担当の方がなさったほうがよろしいかと」

「で、ですが……いつもはそのまま整えてくださっていたので……」


 その一言は、責めるつもりで出たものではなかったのだろう。

 戸惑いのまま、つい口からこぼれただけだ。


 けれど、その自然さがかえってよく分かった。


 やはりそうだったのだ。

 誰も不思議に思わないまま、私は“そのまま整える人”になっていた。


 エレノアは胸の奥に小さく痛みが走るのを感じた。

 けれど、それは昨日までのように輪郭のない痛みではなかった。


「今までは、そうだったのかもしれませんね」


 やわらかく答えながら、エレノアは配置図の一か所へ指先を置いた。


「ただ、この印のままですと、搬入の導線が少し重なってしまいます。こちらを先に、実行委員長の控えにある進行表と照らし合わせてください」

「進行表、ですか」

「ええ。控えにも同じものがあります。まずはそちらをご確認いただければ、担当の方でも判断しやすいと思います」


 二人は書類を抱えたまま、一瞬言葉を失った。

 どこへ向かうべきかを、その場でようやく考え始めたようだった。


「では、どなたにお持ちすれば……」

「模擬店の担当責任者の方へ。控えの進行表を見たうえで、必要なら実行委員長へ確認なさってください」

「エレノア様は……」

「私が今お手伝いできるのはここまでです」


 一瞬、空気が止まったように思えた。

 けれどエレノアは、言葉をそこで切り捨てなかった。


「けれど、手順はご一緒に確認できます。

 今お伝えした順で動いていただければ、大きくはずれないはずです」


 その言い方に、ようやく二人の表情が少しゆるむ。

 突き放されたのではなく、全部を預けられなかっただけなのだと分かったのだろう。


「……分かりました」

「ありがとうございます。確認してまいります」


 二人が去っていく背中を見送りながら、エレノアはゆっくりと息を吐いた。


 胸の内が、わずかに熱い。

 断ったからではない。

 今までなら何も考えず引き受けていたものを、今日はそのまま受け取らなかった。

 その小さな違いが、思っていたよりも大きかった。


 机へ向き直ろうとしたところで、今度は別の方向から慌ただしい足音が近づいてきた。


「エレノア様、展示札の予備をご存じありませんか」

「予備の束でしたら、東側の棚の二段目です」

「ありがとうございます! それと、貼り出し位置の――」

「貼り出し位置は、一覧表の右端に記してあります。

 ただ、掲示そのものは図書委員の方にお願いしてください。私のほうでは手を離せませんので」


 言いながら、自分でも少し驚くほど声は落ち着いていた。


 相手の生徒は一瞬だけ目をしばたたかせたが、すぐに頷く。


「承知しました」

「分からない箇所だけお持ちください」

「はい」


 それで会話は終わった。

 誰も困り果ててはいない。

 ただ、今までとは流れが違うだけだ。


 図書塔の入口付近では、別の委員たちが小声で何かを確認し合っていた。

 どこかひとつの歯車が止まったわけではない。

 けれど、今までなめらかに見えていた動きの下に、誰が何を埋めていたのかが少しだけ見える。


 アルフレッドが不在であること。

 その穴を、自然にエレノアへ流し込んできたこと。

 そして、その流れが“彼女なら整えてくれる”という信頼めいた形で覆われていたこと。


 エレノアは帳面の上へ指先を置いた。


 あれは信頼だけではなかったのだ。

 少なくとも、私が受け取り続けることで成り立っていたものだった。


 見えてしまえば、少し寂しい。

 けれど、見えないまま背負い続けるよりは、ずっとよかった。


 やがて先ほどの二人が戻ってきた。

 今度は少しだけ息を整えた顔をしている。


「確認が取れました。搬入時間をずらせば問題ないそうです」

「それはよかったです」

「先ほど、ありがとうございました。

 その……自分たちで確認すべきでしたのに」

「いいえ」


 エレノアは小さく首を振った。


「間に合ったのなら、何よりです」

「はい……」


 女子生徒は少しだけ気まずそうに笑い、それから深く頭を下げた。

 その様子を見て、エレノアの胸のうちにも不思議とやわらかいものが残った。


 全部を受け取らないことは、冷たいことではないのかもしれない。


 その考えはまだおそるおそるしたものだった。

 けれど、昨日よりはずっと自然に胸へ落ちてくる。


 再び静けさが戻った図書塔で、エレノアは帳面を閉じ、必要な資料を束ね直した。

 窓の外では、夕方へ向かう光が少しずつ色を変え始めている。


 今日、自分がしたことはほんのわずかなことだ。

 誰かをやりこめたわけでも、はっきり拒んだわけでもない。

 ただ、自分の手の届くところと、そうでないところを分けただけだ。


 それだけなのに、心は思っていたより静かだった。


 私の手の届くところだけで、今日は十分だった。


 そう思ったとき、肩の力が少しだけ抜ける。

 外ではまだ準備のざわめきが続いている。

 けれどその音に急かされることなく、エレノアは自分の机の上を整えた。


 やるべきことは、まだある。

 それでも今日は、少し失わずに済んだ気がした。

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