譲るほうに置かれて
午後の光は、病室の白いカーテンをやわらかく透かしていた。
窓は少しだけ開いている。春の空気は薄く、薬草を煎じたような匂いと混じって、部屋の中へ静かに流れ込んでいた。寝台の脇には水差しと読みかけの本、それからまだ手のついていない温かい茶が置かれている。
リディアは枕へ浅く身を預けたまま、うっすらと目を伏せていた。顔色はよくない。頬の白さも、肩の細さも、弱っていることを誤魔化しようがないほどだった。
「まだ少しおつらいのですね」
アルフレッドが声を落として言う。
その声音には、たしかに心配があった。
それ自体は嘘ではないのだろう。
リディアはかすかに首を振る。
「申し訳ありません……少し休めば大丈夫だと思ったのですが」
「無理をしなくていい」
「ですが、創立祭のご準備もおありでしょう」
その言葉に、アルフレッドは一瞬だけ目をそらした。
学園のことを忘れていたわけではない。ただ、今この場でそれを前に出す気にはなれなかったのだろう。
「学園へ戻らなくてよろしいのですか」
リディアの問いは、責める響きではなかった。
むしろ、本当に不思議そうな、少し戸惑ったような声だった。
「わたくしのことは、少し休めば……」
「いや、君を一人にはできない」
ほとんど間を置かず、アルフレッドはそう答えた。
その言葉だけを聞けば、いかにも優しく聞こえる。
だが、リディアはそれに安堵して微笑むわけではなく、むしろ指先を小さく握り合わせた。
「そんなにお時間を使わせてしまって、申し訳ありません」
「気にしなくていい」
「でも……」
それ以上を言い切れず、リディアは視線を伏せた。
その戸惑いは、引き止める人のものではなかった。
「こちらは何とかなる。エレノアもいる」
その一言が、ひどくなめらかに部屋へ落ちた。
アルフレッドにとって、それはたぶん自然な文脈だったのだろう。
困ったことがあっても、エレノアがいる。
自分がここにいても、あちらは回る。
そういう前提が、彼の中ではまだ崩れきっていない。
リディアはわずかに視線を伏せた。
「エレノア様に、ご迷惑をおかけしていないとよいのですが……」
「彼女はきちんとしている。大丈夫だ」
「……そう、ですわね。エレノア様は、なんでもきちんとなさる方ですもの」
それは悪意のない言葉だった。
皮肉でもなく、牽制でもない。
ただ、彼女の中で自然にできあがっていた認識をそのまま口にしただけだ。
エレノアは、きちんとしている人。
抜かりなく整える人。
任せておける人。
その言葉を聞いたとき、アルフレッドは否定しなかった。
できなかったのかもしれない。
彼自身もまた、同じ認識の上に立ってここまで来ていたのだから。
「ご無理をなさらないでくださいね」
「無理などしていない」
そう言いながらも、アルフレッドの声にはわずかに硬さが混じっていた。
無理をしているのではない。正しいことをしているのだ。
そんなふうに、自分へ言い聞かせるような響きだった。
リディアはそれ以上は言わなかった。
寝台の脇に置かれた茶器へ目を落とし、細い指先でカップの取っ手へそっと触れる。
その仕草ひとつにも、彼女が本当に弱っていることは見える。
だが同時に、この部屋の中だけでは見えないものも確かにあった。
誰が、どこで、その分の穴を埋めているのか。
誰が、自然に“何とかしてくれる側”へ置かれているのか。
その構図を一番見ていないのは、たぶんアルフレッド自身だった。
場面が変わると、図書塔の空気は病室とはまるで違う静けさで満ちていた。
高窓から射し込む午後の光が、机の端と記録帳の罫線を白く照らしている。
エレノアはペン先を止め、乾きかけたインクを少しだけ眺めた。
今日の図書塔は静かだ。
静かで、整っていて、誰かの呼び声に先回りして耳を澄ませる必要もない。
そのことが、まだ少し不思議だった。
ページをめくろうとしたとき、廊下から小声の会話が聞こえてきた。
図書塔へ出入りする実行委員たちの声だ。
「アルフレッド様は、今日もリディア様のところにいらっしゃるそうです」
「そうなの? では、こちらの確認はまた……」
「エレノア様なら、こちらをお願いしてもよろしいですよね」
紙を持ったまま、エレノアの指先がわずかに止まる。
責める声ではない。
むしろ、ひどく自然なやりとりだった。
アルフレッドが行けない。
なら、エレノアに頼めばいい。
彼女ならきっと整えてくれる。
その流れが、あまりに滑らかに出来上がっている。
エレノアは目を伏せ、静かに息を吐いた。
胸が強く痛んだわけではなかった。
かわりに、もっと静かなものが落ちてくる。
ああ、と。
私は、あの方に押しのけられていたわけではなかったのかもしれない。
リディアに何かを奪われていたのではない。
最初から私は、差し出すほうに置かれていた。
理解するほうに、譲るほうに、埋めるほうに。
そうして“きちんとした人”であることを、周囲にも、たぶん自分にも、当然のこととして求められていたのだ。
それは誰か一人だけの悪意ではない。
リディアもまた、その配置の中で“守られる人”として扱われていたのだろう。
けれど、だからといって自分が削られてよかったことにはならない。
エレノアは記録帳へ視線を戻した。
罫線の上に並ぶ文字は、少し前と同じように整っている。
けれど、それを見ている自分の目だけが少し違っていた。
「最初から、譲るほうに置かれていたのは、私だったのかもしれない」
声に出すと、その言葉は不思議なくらい静かに胸へ落ちた。
怒りで震えるわけでもなく、悲しみで崩れるわけでもない。
ただ、長く曇っていた窓が、ようやく少しだけ拭われたような感覚だった。
そう思ったとき、胸のつかえが少しだけ下りた。
だからといって、すぐにすべてが軽くなるわけではない。
でも、何に傷ついていたのか分からないまま立ち尽くすよりはずっといい。
彼女が奪ったのではなく、私が差し出すものとして見られていた。
まだ言い切るには早いのかもしれない。
けれど、少なくとも今はそれがいちばん近い気がした。
エレノアはペンを取り上げ、記録帳の余白へ小さく注記を足した。
手元の仕事は、相変わらず静かに進む。
図書塔の空気も、彼女を急かさない。
廊下の向こうではまだ誰かが慌ただしく走っていた。
誰かが呼び、誰かが答え、創立祭前の学園は忙しさの中にある。
それでも、この机の前にいる限り、今のエレノアにはちゃんと自分の時間がある。
それは、少し前の自分にはなかったものだ。
彼女はもう一度だけ、先ほどの言葉を心の中で繰り返した。
私は、あの方に負けていたわけではない。
そう思えたとき、胸の奥でずっと絡まっていた糸の一本が、ようやくほどけた気がした。




