来たのに戻らない
図書塔の午後は、会議室の喧騒から少しだけ遠い。
高窓から落ちる光はやわらかく、机の上に広げた記録帳の端を静かに照らしていた。紙をめくる音も、インクの乾く気配も、ここではちゃんとひとつずつ時間を持っているように思える。
エレノアはページの端を押さえながら、小さく息を吐いた。
「今日は、頁の途中で閉じなくていいのね」
声にしてみると、それは少しだけ可笑しかった。
ひどく些細なことのようでいて、少し前までの自分にはそれができなかったのだ。
誰かの呼び声で、書きかけの文を置く。
誰かの都合で、本を閉じる。
戻ってきたときには、さっきまでの思考をもう一度拾い直す。
そういうふうに、ずっと自分の時間を細かく手渡してきたのだと、今なら分かる。
けれど今日は違う。
記録帳に向かう肩の力が軽い。
一文を書き終え、その流れのまま次の行へ進める。
それだけのことが、思ったよりずっと穏やかだった。
この時間が、ようやく私のものになってきた気がする。
エレノアは記録帳の余白へ、今日の進行を書き足す。
頁の上には整った字が並び、そのどれもが急かされていない。
それがひどく静かで、ひどく心地よかった。
廊下を渡ってくる足音が聞こえたのは、そのときだった。
図書塔では珍しい、少し迷いを含んだ足取り。
けれど聞き覚えのある靴音だった。
エレノアが顔を上げるより少し早く、開き気味だった扉の向こうに人影が止まる。
「……エレノアは、ここにいるのか」
アルフレッドだった。
その姿を見た瞬間、以前のように胸がせわしなく騒ぐことはなかった。
ただ、少しだけ驚いた。
彼のほうから、ここまで来るのは珍しかったからだ。
「おります」
エレノアは立ち上がらずに答えた。
声音は自然に落ち着いていた。
アルフレッドは扉のところで一度だけためらうように目を動かしてから、部屋へ入ってきた。
会議室で見るときよりも少しだけ疲れて見える。だが、それ以上に、どこか居心地悪そうだった。
「少しだけ、話がしたい」
「何かご用でしょうか」
エレノアの返しは、礼儀を欠いてはいない。
けれど、前のように彼の言葉を受ける前から席を立つことも、表情を先回りでやわらげることもなかった。
アルフレッドはそのわずかな差を、たぶん、まだうまく言葉にできていない。
ただ、前とは違うとだけ感じている顔をした。
「確認したいことがいくつかあるんだ。君ならすぐ分かると思って」
「確認でしたら伺いますが、今すぐでなくてもよろしければ、この頁だけ終えさせてください」
その一言を口にした瞬間、部屋の空気が少しだけ止まった。
アルフレッドは目を瞬いた。
今までならエレノアがそう言ったことはなかったのだろう。
確認だろうと雑事だろうと、彼が呼べばすぐ来る。彼の中では、それがたぶん自然な順番だった。
「……今?」
「はい。記録の途中ですので」
「急ぎではないのか」
「急ぎでしたら、必要な箇所を先に伺います」
やわらかい。
けれど、そのやわらかさの中には、以前のように無条件で彼を最優先にする気配がない。
アルフレッドが何か言おうとした、そのときだった。
「記録係殿は今、記録係の仕事中だ」
低く落ちた声に、二人とも振り返る。
帳簿を片手に立っていたのはユリウスだった。
彼はアルフレッドを見ても、特に表情を変えない。
気まずそうにもしなければ、わざとらしく礼を尽くすわけでもない。ただ、本当にその場の状況を確認しただけという顔をしている。
「何か問題でも?」
「……いや」
短く答えたのはアルフレッドのほうだった。
その返事に、ユリウスはそれ以上何も言わない。
「必要なら待てばいい。この部屋では、その順番だ」
その一言は強くはなかった。
むしろ淡々としていた。
けれど、だからこそ逃げ場がない。
ここでは、エレノアが今している仕事が優先される。
それは誰かの好意ではなく、この部屋の当たり前として扱われている。
アルフレッドだけが、その当たり前の外側に立っていた。
エレノアは記録帳へ視線を戻し、最後の一行を書き終える。
インクの線が紙へ落ち着くのを確かめてから、ようやくペンを置いた。
「お待たせいたしました」
「……いや」
今度の「いや」は、さっきより少しだけ弱かった。
待たされたことに腹を立てているのではなく、自分が待つ側に立たされていることそのものに戸惑っている声音だ。
エレノアは椅子から立ち上がり、記録帳を閉じる。
それからアルフレッドのほうへ向き直った。
「それで、ご確認は何でしょうか」
「確認、というか……」
アルフレッドはそこで言葉を探した。
会議室ではもっと自然に口を開けていたはずなのに、今ここでは妙に言いよどむ。
「君が整えてくれていた控えのことだ」
「はい」
「いくつか、見方が分からない箇所があって」
「どの部分でしょう」
エレノアは控えを受け取り、必要な箇所だけを簡潔に説明する。
どこを先に見るべきか。
どの確認が先で、どれが連動するのか。
言葉は短く、要点だけで十分だった。
「……そうか」
アルフレッドは控えへ目を落としたまま、小さく息をつく。
その声音には、会議室での困惑とは別の色が混じっていた。
少しだけ、追いつけないものを見る人の声だ。
「君は、前はそんな言い方をしなかった」
ぽつりと落ちたその一言に、エレノアは目を上げた。
責めているわけではない。
非難でもない。
ただ、本当にそう思ったのだろう。
「以前は、もっと……」
「もっと、すぐにお手伝いしていたと思います」
アルフレッドは答えない。
否定もできないのだろう。
エレノアは手元の控えをそろえながら、静かに続けた。
「前が、近すぎたのかもしれません」
その言葉は、自分でも驚くほど穏やかだった。
怒りから出たのではない。
ただ、今の場所から見れば、それがいちばん正確な言い方に思えたのだ。
アルフレッドの表情が、一瞬だけ揺れる。
彼にとっては、それが想像していなかった返答だったのかもしれない。
「エレノア」
「確認が必要な箇所は以上です。ほかにございますか」
彼女は会話を閉じるでもなく、けれど広げることもなく、ただ必要なところへ戻した。
アルフレッドは何か言いたげにしたものの、結局すぐには言葉を見つけられなかった。
その沈黙の中で、窓の外から風が入り、机上の紙が一枚だけかすかに揺れる。
図書塔の空気は静かなままだ。
以前なら、その静けさの中へ彼の気配が入ってきた瞬間、エレノアのほうがそわそわと揺れていただろう。
でも今は違う。
静けさは彼女の側に残ったままだった。
「……そうか」
ようやく落ちたその一言は、納得とも諦めともつかない曖昧な形をしていた。
アルフレッドは、たぶん、初めて感じているのだろう。
会いに来れば少しは元の距離へ戻れると思っていたのに、そうならないことを。
自分のほうから足を運んだのに、届いた気がしないことを。
それは仕事が回らない不便さとは少し違う。
もっと曖昧で、もっと居心地の悪い感覚だった。
「失礼いたします。まだ、こちらが残っておりますので」
エレノアは一礼し、机のほうへ戻る。
その言い方は丁寧だった。
けれど、“彼のためにここへ留まる”という空気はもう含まれていない。
アルフレッドは呼び止めなかった。
呼び止められなかった、のほうが近いのかもしれない。
エレノアがまた頁を開くと、図書塔の静けさは何事もなかったように戻ってきた。
紙をめくる音。
ペン先のかすかな擦れ。
窓の外の風。
そのどれもが、今は彼女の側にある。
一方アルフレッドは、その静けさの外に立ったままだった。
追いついたはずなのに、距離だけが前より遠い。
会いに来れば戻ると思っていたものが、戻らない。
その事実だけが、まだ名前のない違和感として胸の内へ沈んでいく。




