視線の戻る場所
翌日の学園は、創立祭の気配をいっそう濃くしていた。
廊下には布飾りを運ぶ生徒たちが行き交い、講堂の扉は朝から開かれ、奥では舞台係が立ち位置を確認している。窓から差し込む光は、磨かれた床の上で淡く伸び、その上を黒い靴音や白い裾がいくつも通り過ぎていった。
エレノアは準備室の入口近くで、受付係から戻ってきた確認表を受け取っていた。
来賓導線は、昨日の再確認を受けて少しだけ修正されている。控室から講堂までの移動開始時刻は五分前倒しとなり、案内係は先導と後方確認に分かれることになった。記録係として残すべき内容は明確で、エレノアは表の控えに必要事項を書き写しながら、指先に昨日よりも少しだけ落ち着きが戻っていることを感じていた。
休むことも、判断。
昨日、自分のために書いたその一文は、まだ少し照れくさかったけれど、思い出しても消したくはならなかった。
自分自身のことも判断してよい。
そう言われたときのアレクシスの声を思い出すと、胸の奥が静かに温かくなる。その温かさを手帳の中にしまうように、エレノアはペン先を整え、受付係の控えへ日付を入れた。
そのとき、廊下の向こうから低い声が聞こえた。
ほんの短い返事だった。
それだけで、エレノアは顔を上げてしまった。
自分でも驚くほど自然な動きだった。誰かに呼ばれたわけではない。確認表に不備があったわけでもない。ただ声が聞こえた。それだけで、視線が紙から離れ、廊下の光の中へ向かった。
そこに、アレクシスがいた。
彼は講堂の入口近くで、薄紫のリボンを胸に留めた令嬢と話していた。令嬢は創立祭の音楽会を担当しているらしく、楽団の入退場と来賓席の配置について、手元の小さな表を示しながら説明している。アレクシスはその表を覗き込み、時折静かに頷き、必要なところだけを短く確認していた。
その姿は、ごく自然なものだった。
来賓対応を担う者として、音楽会の担当者と打ち合わせをしているだけだ。令嬢の態度にも、必要以上の親しさはない。礼儀正しく、落ち着いていて、仕事に慣れた人の話し方だった。
だから、エレノアが気にすることなど何もない。
そう思ったのに、ペン先は紙の上で止まった。
薄紫のリボンが、廊下の光の中で小さく揺れている。令嬢が何かを説明するたび、アレクシスは少しだけ身を傾け、相手の声を聞き取ろうとしていた。その仕草は、エレノアに向けられるときと同じように丁寧で、同じように静かだった。
同じように。
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、エレノアは少しだけ息を詰めた。
アレクシスは、誰に対しても礼を失わない人だ。相手の話を遮らず、必要なことを急がずに聞き、距離を保ったまま相手の立場を尊重する。そういう人なのだと、エレノアはもう知っている。
知っているのに、その穏やかさが自分以外に向けられていることを見て、胸の奥がほんのわずかに波立った。
これは、何だろう。
不快ではない。
怒りでもない。
けれど、落ち着かない。
エレノアは視線を手元の確認表へ戻した。
気にすることではない。
音楽会担当者との確認。来賓席、楽団導線、講堂入口の混雑回避。すべて創立祭に必要なことで、記録係として自分が残すべきことがあれば、後ほど共有されるだろう。彼が誰と話しているかを、わたくしが気にする理由はない。
そう頭の中で整えるほど、かえって先ほどの光景が鮮明になった。
薄紫のリボン。
白い手袋に挟まれた小さな表。
廊下の光を受けて少し淡く見えるアレクシスの横顔。
相手の声を聞くために伏せられた視線。
エレノアは、確認表の文字を読み直した。
来賓導線、移動開始時刻、案内係。意味は分かる。記録もできる。けれど、心のどこかが廊下へ置き去りになったようで、いつもより文字が少し遠く見えた。
「エレノア様」
呼ばれて顔を上げると、先ほどアレクシスと話していた令嬢が、準備室の入口に立っていた。
薄紫のリボンが近くで見ると、思っていたより淡い色をしている。彼女は感じよく一礼し、手元の表を差し出した。
「音楽会担当のセリーヌです。来賓席と楽団導線について、記録係にも共有するようアレクシス様から言われましたので、お持ちしました」
エレノアは、一瞬だけ返事が遅れた。
アレクシス様から。
その言葉が、胸の中に小さく落ちる。
「ありがとうございます。拝見します」
エレノアは表を受け取った。
セリーヌの表はよく整っていた。来賓席の配置、楽団の入場経路、演奏前後の待機場所、講堂入口の混雑を避けるための時間差移動。どれも記録に残す価値のある内容で、アレクシスが共有を指示した理由はすぐに分かった。
「とても分かりやすい表ですね」
エレノアが言うと、セリーヌはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、来賓席の配置が控室導線と重なるかもしれないと、アレクシス様にご指摘いただきまして」
「確かに、控室から講堂へ移動する時間と、楽団の入場準備が重なる可能性がありますね」
「はい。ですから、受付係と会場係にも共有した方がよいだろうと」
「承知しました。記録係の控えにも残します」
セリーヌは再び礼をし、準備室の奥にいる会場係の方へ向かった。
エレノアは、受け取った表を見つめる。
アレクシスは、音楽会担当者と話していただけではなかった。
来賓導線と記録の流れを見て、必要な共有先を考え、エレノアの手元へ届くようにしていた。廊下で令嬢と向かい合っていた間も、その確認は自分の記録とつながっていたのだ。
そう分かると、先ほど胸を波立たせたものが、少しだけ形を変えた。
恥ずかしい。
そして、ほんの少し、安堵した。
安堵したことに気づいて、さらに恥ずかしくなる。
エレノアは表を控えに写しながら、自分の中の感情に名前をつけられずにいた。セリーヌに悪いところは何もない。彼女の仕事は丁寧で、共有も早く、創立祭に必要な動きだった。それなのに、アレクシスが彼女の方へ身を傾けているのを見た瞬間、自分の内側にわずかな影が差した。
その影は、誰かを責めるためのものではなかった。
ただ、自分が何を見てしまったのかを、エレノアに知らせるためのものだった。
わたくしは、アレクシス様を見ていた。
その事実が、紙の上に落ちたインクのように、じわりと広がっていく。
午後、講堂側の確認が終わるころ、アレクシスが準備室へ戻ってきた。
今度は教員を伴っていなかった。彼は入口で一度会場係に声をかけ、音楽会の表と導線表が共有されていることを確認すると、エレノアの席の方へ歩いてきた。
近づいてくる足音に、エレノアは気づいていた。
気づいていないふりをすることもできたかもしれない。けれど、彼の声に顔を上げてしまった朝の自分を思い出すと、もうそのふりはうまくできなかった。
「エレノア嬢」
「はい」
「先ほどの音楽会導線について、記録に残す内容は足りましたか」
「はい。セリーヌ様から表をいただきました。来賓席、楽団導線、待機場所、共有先まで記録しています」
「それならよかった」
アレクシスは頷いた。
「講堂入口の混雑は、控室からの移動と重なる可能性があります。会場係と受付係にも同じ内容が伝わっていれば、当日の混乱は避けられるでしょう」
「すでに共有されています。セリーヌ様の表が分かりやすかったので、記録も問題ありませんでした」
そう答えた声は、思ったより落ち着いていた。
けれど、セリーヌの名を出した瞬間、胸の奥がまた小さく動いた。エレノアはそれを隠すように、手元の控えへ視線を落とす。
アレクシスは少しの間、黙っていた。
その沈黙が、仕事の確認だけでは終わらないものに変わっていくのを感じて、エレノアは指先に力を込める。
「何か、気になる点がありましたか」
穏やかな問いだった。
記録に関する確認のようにも聞こえるし、彼女自身の様子を尋ねる言葉のようにも聞こえた。
「いえ」
エレノアはすぐに答えた。
けれど、その返事は少し早すぎた。
アレクシスは責めるでもなく、ただ待つように彼女を見ている。
エレノアは、その視線から逃げるように表へ目を落としたが、そこに並ぶ文字はもう十分読んでいた。来賓席。楽団導線。共有先。記録係控え。どれもきちんと書かれている。問題はない。
問題はない。
昨日の自分なら、そこで終わらせていただろう。
だが、問題がないことと、何も揺れていないことは同じではない。
アレクシスにそう言われたことを思い出し、エレノアはゆっくり息を吸った。
「気になる点、というほどではありません」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、確認が終わったのだと分かって、少し安心しました」
言ってから、自分でも曖昧な答えだと思った。
何の確認が終わったのか。
音楽会導線のことなのか、セリーヌとの話のことなのか、廊下の光の中に置き去りにした自分の視線のことなのか、エレノア自身にもはっきりとは分からない。
アレクシスは、すぐに返事をしなかった。
彼は一度だけ、エレノアの手元の表へ視線を落とし、それからゆっくりと彼女を見た。その目は、何かを見透かすようなものではなく、言葉にできないものを無理に取り上げないための距離を残していた。
「では」
アレクシスは静かに言った。
「戻ってきてよかった」
その言葉に、エレノアは息を止めた。
戻ってきてよかった。
何が、と聞くことはできなかった。
音楽会の確認が、という意味かもしれない。導線の情報が、という意味かもしれない。あるいは、アレクシス自身が準備室へ戻ってきたことを、彼はそう言ったのかもしれない。
どれであっても、エレノアの胸は静かに熱くなった。
彼は、ずるい。
そう思ってしまい、エレノアは慌ててその言葉を心の奥へ押し込んだ。
ずるい、などと。
アレクシスはただ、いつものように穏やかに言葉を置いただけだ。なのに、その言葉はいつも、必要な場所を選んで落ちてくる。空白を責めない場所へ。疲れを隠さなくてよい場所へ。今日のように、自分でも名前のつけられない感情のすぐそばへ。
「はい」
エレノアはようやく答えた。
「戻ってきて、いただけて……よかったです」
最後の方は、ほとんど息のような声になった。
アレクシスの表情が、ほんのわずかに変わる。
いつもの礼儀正しい穏やかさの奥で、何かが少しだけ揺れたように見えた。
その変化に気づいた瞬間、エレノアは自分がまた彼を見ているのだと知った。相手の言葉だけでなく、表情のわずかな変化まで見ようとしている。彼が何を思ったのか、どんなふうに受け取ったのかを、知りたいと思っている。
知りたい。
その言葉は、まだ口には出せなかった。
アレクシスは、少しだけ視線を伏せたあと、いつもより低い声で言った。
「次の確認も、あなたに共有します」
仕事の言葉だった。
けれど、それだけではない気がした。
エレノアは頷く。
「お待ちしています」
言ってから、また胸が跳ねた。
待っている。
確認を待っているのか。
彼が戻ってくるのを待っているのか。
そのどちらもなのか。
エレノアには、もう分からなかった。
けれど、分からないままでも、その言葉を取り消したいとは思わなかった。
アレクシスは静かに礼をし、次の確認へ向かうために準備室を出ていった。
エレノアは今度も、その背中を見送った。
昨日のように、見送ってしまった、と慌てる気持ちはあった。けれど今日は、それよりも先に、彼が廊下の角を曲がるまで見ていたいと思った。
廊下の光の中で、アレクシスの姿が遠ざかっていく。
その肩が角の向こうへ消える直前、彼は一度だけ足を止め、振り返った。
目が合う。
ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬で、エレノアの指先から力が抜けた。
アレクシスは何も言わなかった。ただ、静かに会釈をして、今度こそ廊下の向こうへ消えていった。
エレノアは、しばらく動けなかった。
視線が戻ってきた。
そう思った。
自分が彼を見ていたように、彼もまた、最後にこちらを見た。
それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。苦しいわけではない。痛いわけでもない。ただ、これまで触れたことのない場所に、淡い熱が灯ったようだった。
準備室の中では、確認表がまた動き始めている。会場係が音楽会担当からの共有を受け取り、受付係が導線の時刻を修正し、広報係が講堂入口の掲示位置を確認していた。現実はきちんと進んでいて、エレノアも記録係としてそこへ戻らなければならない。
それでも、彼女はすぐには手帳へ視線を落とさなかった。
窓から差す午後の光が、廊下の床を淡く照らしている。さきほどアレクシスが立っていた場所に、もう彼の姿はない。けれど、そこへ向けていた自分の視線だけが、まだ少し残っているような気がした。
エレノアは、ゆっくりと手帳を開いた。
音楽会導線、来賓席配置、楽団待機場所、会場係・受付係へ共有済み。
必要な記録を書いたあと、彼女は少しだけペンを止めた。
そして、余白に小さく一行を加える。
声だけで、顔を上げた。
書いてから、頬が熱くなった。
あまりにも正直な記録だった。
消そうかと一瞬思ったが、昨日も消さなかった。自分の疲れを、自分の判断を、消さずに残した。ならば今日、自分が誰かの声に顔を上げてしまったことも、まだ名前のない感情として残しておいてよいのかもしれない。
エレノアは、その一行の下に、もうひとつだけ短く書いた。
視線は、戻ってくる。
何の視線が、どこへ戻るのか。
それを今すぐ決める必要はない。
ただ、廊下の光の中で振り返った彼と、彼を見送っていた自分のことを、今日の頁に残しておきたかった。
エレノアは手帳を閉じ、胸に残る淡い熱を抱えたまま、準備室の音の中へ戻っていった。




