用件のない午後
約束の時間より少し早く、エレノアは学園の回廊に立っていた。
庭へ続くその回廊は、午後の光が斜めに差し込む場所で、石の床には柱の影が長く落ちている。授業と創立祭の準備が一段落したあとの時間だからか、人通りは少なく、遠くから聞こえる話し声も、ここまでは柔らかくほどけて届いていた。
早く来すぎただろうか、と一度は思った。
けれど、待たせないために急いだのではない。
ただ、自分の気持ちを落ち着かせる時間が少し欲しかったのだと思う。
そう認めるまでに、エレノアは少しだけ時間がかかった。以前なら、早く来た理由もきちんと整えただろう。相手を待たせないため、礼を欠かないため、万一の遅れに備えるため。理由はいくつも並べられるし、そのどれも間違いではない。
けれど今日は、それだけではなかった。
胸の奥にある小さなそわつきを、誰かのための配慮として片づけてしまうには、少しだけ惜しい気がした。
エレノアは回廊の外へ目を向ける。
庭の木々は、風に合わせてごく静かに揺れていた。花壇には淡い色の花が並び、その向こうには学園の古い石壁が見える。何度も通った場所なのに、今日はいつもより色がやわらかく見えた。
そのとき、遠くから足音が近づいてきた。
エレノアが振り向くと、アレクシスが回廊の向こうから歩いてくるところだった。
早すぎもせず、遅れもせず、ちょうど約束の時間だった。
それだけのことに、エレノアはなぜか少し息をしやすくなる。
アレクシスはエレノアの前で足を止め、いつものように穏やかに礼をした。
「お誘いいただき、ありがとうございます」
その声は落ち着いていて、けれど形式だけではない温度があった。
エレノアも礼を返す。
「こちらこそ、お時間をいただいてしまい……」
言いかけたところで、アレクシスが少しだけ目を細めた。
「用件のない時間に、謝罪は必要ありません」
その言葉は、穏やかなのに、エレノアの胸の奥へまっすぐ届いた。
用件のない時間。
自分が手紙に書いた言葉を、彼はそのまま受け取ってくれている。
「……そう、ですね」
エレノアは小さく頷いた。
「失礼いたしました」
「謝罪を重ねる必要もありません」
アレクシスは、ほんの少しだけ笑った。
からかわれたのではないと分かる笑みだった。
エレノアは思わず目を瞬かせ、それから自分でも少し笑ってしまった。
「難しいですね」
「何がでしょう」
「用件がないまま、誰かと時間をいただくことが」
そう言ってから、エレノアは少しだけ視線を落とした。正直に言いすぎただろうかと思ったが、アレクシスは急いで言葉を足さなかった。
しばらく静かに受け止めてから、彼は庭の方へ視線を向ける。
「では、難しいまま歩きましょうか」
エレノアは、その返しに少しだけ肩の力が抜けた。
「はい」
二人は並んで、庭へ続く小道へ出た。
足元には細かな砂利が敷かれていて、歩くたびにかすかな音がする。午後の庭は人目がまったくないわけではないが、近すぎる声はなく、誰かに説明しなければならないほどの距離でもなかった。
アレクシスは、昨日の話し合いのことを尋ねなかった。
婚約のことも、アルフレッドのことも、家の判断のことも、何も聞かない。ただ、隣を歩いている。
聞かれないことが、こんなに楽だとは知らなかった。
けれど、それは無関心とは違った。
アレクシスはエレノアを置いて先へ進むわけでもなく、沈黙を気まずそうに扱うわけでもない。彼の歩幅は、以前よりほんの少しだけゆっくりで、エレノアが何も言わなくても、その速度で並んでいられる。
急がなくていい。
手紙の中にあった言葉が、足元にまで広がっているようだった。
庭の小道は、途中で少しだけ石畳が乱れている場所がある。アレクシスはそこへ差しかかる前に、自然に視線を落とした。
「こちらは少し足元が悪いですね」
そう言っただけで、手を差し出しはしなかった。
けれど、必要なら届く距離にいてくれる。
エレノアはその距離に気づき、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではありません」
「それでも、言いたかったのです」
エレノアがそう返すと、アレクシスは少しだけ意外そうにこちらを見た。
それから、柔らかく頷く。
「では、受け取ります」
その短いやり取りのあと、二人はしばらく黙って歩いた。
沈黙は、以前ほど怖くなかった。むしろ、誰かが急いで埋めなくてもいいものとして、そこに置かれている。風が葉を揺らす音や、遠くの鐘の音、砂利を踏む音が、その沈黙の中に自然に混じっていた。
聞かれないからこそ、話してもいいと思えた。
その感覚が、自分の中に生まれていることに気づいたとき、エレノアは少しだけ不思議な気持ちになった。
尋ねられたから答えるのではない。
説明しなければならないから話すのでもない。
ただ、今ここで、少しだけ知ってほしいと思う。
「アレクシス様」
「はい」
アレクシスは足を止めずに応じた。
そのことが、かえってありがたかった。立ち止まって真正面から向き合われたら、言葉が重くなりすぎたかもしれない。彼は歩きながら聞いてくれている。だから、エレノアも歩きながら言えた。
「わたくし、戻りませんと伝えました」
アレクシスは驚いた様子を見せなかった。
ただ、同じ歩幅で隣を歩きながら、静かに頷く。
「そうですか」
それだけだった。
慰める言葉も、称賛する言葉も、詳しい事情を尋ねる言葉もなかった。
エレノアは、その返事に少しだけ戸惑った。けれど、不満ではなかった。
アレクシスは、しばらく歩いてから言った。
「今、そう言えるあなたで、ここにいらっしゃるのですね」
その言葉に、エレノアは足元を見た。
今、そう言える自分。
それは、昨日までの自分を置き去りにする言葉ではなかった。迷っていた自分も、怖がっていた自分も、紙に書かなければ戻ってしまいそうだった自分も、そのまま連れて、今ここにいるのだと言われた気がした。
「……はい」
エレノアは小さく頷いた。
「まだ、全部が変わったわけではありません。今日も、何か聞かれるたびに、説明しなければと思いました。言葉を足して、場を整えて、誰も困らない形にしなければと」
「それでも、すべてには答えなかった」
アレクシスの言葉は、問いではなかった。
エレノアは彼を見る。
「はい」
答えると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「正式なことは、家を通してお伝えしますとだけ言いました。少し、怖かったです。相手を不快にさせてしまったのではないかと、あとから言葉を足したくなりました」
「足さなかったのですね」
「……はい」
アレクシスは、そこで初めて少しだけ微笑んだ。
「では、その時間もあなたのものとして残ったのですね」
エレノアは、すぐには返事をできなかった。
答えなかったことを、ただの沈黙や不足ではなく、自分の時間として見てもらえるとは思っていなかったからだ。
「そういう見方を、したことがありませんでした」
「これから、してもよいのではありませんか」
押しつけるでもなく、当然のように言い切るでもなく、アレクシスはそう言った。
エレノアは庭の先に目を向ける。午後の光は少し傾き、石畳の端が白く光っていた。
「アレクシス様は、不思議な言い方をなさいますね」
「そうでしょうか」
「はい。叱られているわけでも、慰められているわけでもないのに、少しだけ呼吸がしやすくなります」
言ってから、エレノアは自分の言葉に驚いた。
けれど、取り消したいとは思わなかった。
アレクシスは一瞬だけ目を細め、それから静かに視線を前へ戻した。
「それなら、よかった」
たったそれだけの返事だったのに、エレノアの胸はまた少し温かくなった。
二人は庭の外れまで歩き、古い石のベンチの近くで足を止めた。座るほどではないが、少しだけ景色を眺めるにはちょうどよい場所だった。
そこからは、学園の尖塔と、少し遠くに広がる街の屋根が見えた。創立祭が近づくにつれ、学園のあちこちで飾りつけの準備が始まっている。遠くの回廊には布を運ぶ生徒たちの姿もあった。
エレノアはその景色を見ながら、ふと思った。
今日は、何かを解決してもらうためにここへ来たのではない。
判断を褒めてほしかったわけでもない。
ただ、自分の今を、この人に少しだけ知ってほしかった。
それに気づいても、もう慌てなかった。
しばらく景色を眺めたあと、アレクシスが静かに言った。
「そろそろ戻りましょうか。あまり遅くなると、用件のない時間に理由が必要になってしまいます」
エレノアは、その言い方に少しだけ笑ってしまった。
「それは困りますね」
「ええ。せっかくの用件のない時間ですから」
二人は来た道をゆっくり戻った。
行きと同じ道なのに、帰りは少しだけ短く感じる。もっと話したいことがあったのかもしれないし、何も話さない時間が思っていたより心地よかったのかもしれない。
回廊の近くまで戻ると、アレクシスが足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
エレノアは礼を返す。
言葉はそこで終わってもよかった。
けれど、アレクシスは急かさず、立ち去りもせず、静かにそこにいてくれた。その沈黙に、エレノアは自分の中で言葉が育つのを待てた。
前なら、機会がございましたら、と言ったかもしれない。
またいつか、という曖昧な言葉にして、相手に負担をかけない形へ整えたかもしれない。
けれど今日は、もう少しだけ、自分の方へ言葉を寄せたかった。
「アレクシス様」
「はい」
「また、歩きたいです」
言ったあとで、エレノアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
会いたい、とはまだ言えない。
けれど、また歩きたいとは言えた。
アレクシスは、その言葉を急いで喜ぶでもなく、軽く扱うでもなく、静かに受け取るように頷いた。
「私もです」
短い返事だった。
けれど、その短さにかえって逃げ場がなくなるようで、エレノアは視線を少しだけ落とした。
午後の光が、回廊の床にやわらかく落ちている。
用件のない時間は、何も残らない時間ではなかった。
むしろ、用件がないからこそ残るものがあるのだと、エレノアはその日、初めて知った。




