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未確認として残します

 翌朝、エレノアは創立祭の予定表を開いたまま、しばらく同じ行を見つめていた。


 今日確認すべき項目は、装飾班の搬入時間、会場設営の人員割り、来賓控室の備品一覧、そして委員長確認が必要な書類が二点。どれも特別に難しいものではない。ひとつずつ確認し、担当者の返答を受け、記録に残していけば進む仕事だった。


 それなのに、目は予定表の上にありながら、心のどこかは昨日の午後の回廊に戻っていた。


 私もです。


 アレクシスの短い返事を思い出した瞬間、エレノアは思わずペンを持つ手を止めた。あの言葉は、何か特別に甘い言い回しだったわけではない。けれど、また歩きたいです、と自分から口にした言葉を、彼が同じ温度で受け取ってくれたことが、何度思い出しても胸の奥を静かに温める。


 思い出してよいことなのだろうか。


 そう考えかけて、エレノアは小さく息を吐いた。


 思い出してよいのだ。


 用件のない時間だったのだから、その余韻にもまた、立派な用件など必要ないのかもしれない。


 そう思うと少しだけ恥ずかしくなり、エレノアは予定表へ視線を戻した。今日は創立祭の準備日であり、目の前には確かに進めるべき仕事がある。昨日の午後が何も残らない時間ではなかったように、今日の仕事もまた、自分の役目として向き合うべきものだった。


 けれど、以前と同じように全部を抱える必要はない。


 そのことを、エレノアは予定表の端に小さく書き添えたわけではない。ただ、手帳を閉じる前に一度だけ指先で表紙を押さえ、自分の中で確かめた。


 創立祭の準備室に着くと、すでに数人の委員が机の周りに集まっていた。紙束が広げられ、椅子が少し乱れ、いつもより声が低く交わされている。その空気だけで、何か確認が止まっていることは分かった。


 エレノアが席につくと、会場係の一人がほっとしたように顔を上げた。


「エレノア様、ちょうどよかったです。装飾班の搬入時間についてなのですが、午後の便にするのか、明日の朝に回すのか、まだ確定していないようで」


 エレノアは手帳を開いた。


「装飾班からの正式な返答は、昨日の夕刻までの予定でしたね」


「はい。ただ、確認がまだで……その、いつもならエレノア様が先に相手方へ確認を取ってくださっていたので」


 そこまで言って、会場係は自分の言葉に気づいたように口を閉じた。


 準備室の空気が、わずかに止まる。


 以前なら、その沈黙をエレノアがすぐに埋めただろう。大丈夫です、こちらで確認しておきます。搬入が遅れると設営班に影響しますから、念のため私からも連絡を入れましょう。そう言って、手帳の余白に追加の確認事項を書き込み、昼休みか放課後の時間を削って動いたはずだった。


 けれど、それは会場係の仕事でも、装飾班の仕事でも、委員長が確認すべき事項でもあった。


 エレノアは手帳に目を落とし、静かに言った。


「わたくしが確認する予定にはなっておりません」


 会場係は、少しだけ目を瞬かせた。


「え……」


 エレノアは声を荒げなかった。相手を責めるつもりもなかった。ただ、記録にあることと、記録にないことを分けるように、落ち着いて続けた。


「昨日の段階では、装飾班から搬入時間を確定し、会場係へ共有する予定となっています。その返答が来ていないのであれば、装飾班の担当者から委員長へ確認を上げてください。わたくしから代わりに判断することはできません」


 会場係は困ったように書類を見下ろした。


「ですが、設営の人員割りが……」


「影響が出ることは分かります。ですので、現時点では未確認として残します」


 エレノアはそう言って、手帳に日付と項目を書き込んだ。


 装飾班搬入時間、未確認。担当班より委員長へ確認要。


 文字にすると、思っていたよりも冷たくは見えなかった。


 それは誰かを責めるための記録ではなく、どこで確認が止まっているのかを見えるようにするための記録だった。これまでの自分は、その止まった場所にすぐ手を伸ばし、止まっていなかったことにしてきたのかもしれない。


 会場係は、まだ少し戸惑っているようだった。


「未確認として……」


「はい。未確認として残します」


 もう一度言うと、準備室の空気が静かに変わった。


 冷たい沈黙ではない。誰かが初めて、これまで当然のように流れていたことの形を見たような沈黙だった。


 そのとき、入口の方で足音がした。


 アルフレッドが書類を持って準備室へ入ってくる。


 彼は室内の空気に気づき、会場係とエレノアの手元の記録を見た。以前なら、エレノアが状況を説明し、必要な言葉を整え、彼がすぐ判断しやすい形にしたかもしれない。


 エレノアは顔を上げたが、先に助け舟を出すことはしなかった。


 アルフレッドは一瞬だけエレノアを見た。


 その視線には、迷いのようなものがあった。けれど彼は、そこで何かを求めるように口を開くことはしなかった。


「装飾班の搬入時間が未確認なのか」


 アルフレッドが会場係へ向かって尋ねる。


 会場係は慌てて頷いた。


「はい。昨日夕刻までの返答予定でしたが、まだ確定の連絡が届いておりません。設営の人員割りに影響が出ます」


 アルフレッドは手元の書類を一度見直した。


 その仕草は、まだどこかぎこちなかった。けれど、エレノアへ助けを求めることはしなかった。


「分かった。私が確認する」


 アルフレッドの声は、少し硬かった。


 慣れていない言い方だったのだと思う。すべてが滑らかに出てきたわけではない。けれど、彼はエレノアを見るのではなく、会場係と装飾班の控え席へ視線を向けて言った。


「午後までに返答を出す。設営班には、それまで二案で仮置きするよう伝えてくれ」


 会場係は、ほっとしたように頷いた。


「承知しました」


 エレノアは手帳に記録を加えた。


 委員長確認、午後返答予定。設営班、人員割り二案仮置き。


 それだけだった。


 アルフレッドが自分で引き受けたことを、柔らかく補足する必要はない。彼が困らないように言葉を整える必要もない。記録すべきことを、記録する。


 それが今日のエレノアの役目だった。


 別の委員が、控えめに口を開く。


「これまで、こういう確認は……」


 言いかけて、彼は少し困ったように言葉を止めた。


 エレノアは責めるつもりで彼を見なかった。けれど、先を引き取ることもしなかった。


 少しの沈黙のあと、その委員は自分で言い直した。


「……いえ。これまで、担当が曖昧なまま進んでいた部分があったのだと思います」


 準備室の中で、何人かが小さく頷いた。


 エレノアは、手帳を開いたまま静かに言った。


「今後は、担当ごとに確認を残した方が、準備全体が安定すると思います。どなたが悪いということではなく、確認が止まった場所を分かるようにしておけば、次に動く方も判断しやすくなります」


 その言葉に、会場係が少しだけ表情を緩めた。


「確かに、その方が分かりやすいです」


「では、今日から未確認事項の欄を分けます。担当、確認期限、次の判断者を記録しておきましょう」


 エレノアがそう言うと、準備室の空気は少しずつ動き始めた。


 誰かが慌てて走り出すわけではない。誰かひとりに仕事が集まるわけでもない。装飾班の担当者が自分の控え席を確認し、会場係が設営班に仮置き案を伝えに行き、アルフレッドは必要な書類を持って委員長席へ向かった。


 エレノアはその流れを見ながら、胸の奥に不思議な感覚を覚えた。


 自分が引き受けなかったのに、準備が止まらない。


 むしろ、止まっていた場所が見えるようになったことで、それぞれが自分の持ち場へ戻っていく。


 それは、エレノアが少し恐れていたこととは違っていた。


 自分が確認しなければ、場が崩れるのではないか。誰かが困るのではないか。責められるのではないか。そう思っていた。


 けれど、困るべき人が困ることは、必ずしも悪いことではないのかもしれない。


 困ったからこそ、自分の確認が必要だったと気づく。止まったからこそ、どこで止まったのかが分かる。誰かが代わりに埋め続けていたら、きっとそのことに気づけないままだった。


 午前の準備が一段落したころ、会場係がエレノアの机のそばへ来た。


「エレノア様、先ほどは失礼いたしました」


「何がでしょう」


「その……エレノア様が確認してくださるものだと、思い込んでしまっていました」


 エレノアは、少しだけ考えてから頷いた。


「これまでは、わたくしも確認していましたから」


 会場係はほっとしたような、申し訳なさそうな顔をする。


「ですが、本来は担当から上げるべきことでした。次からは、こちらで確認します」


「ありがとうございます。その方が、わたくしも記録しやすくなります」


 それは本心だった。


 自分が楽をしたいからではない。けれど、誰かの役割まで自分が拾わなければ進まない仕組みは、やはりどこかで歪む。担当者が確認し、委員長が判断し、記録係が残す。その流れが整えば、準備はもっと安定するはずだった。


 昼過ぎ、アルフレッドは約束通り、装飾班の搬入時間について返答を持って戻ってきた。


「搬入は明日の朝に確定した。午後の便は別件と重なるため、設営班には朝の受け入れで調整を頼む」


 エレノアは記録を確認しながら頷いた。


「承知しました。装飾班搬入、明朝に確定。設営班、朝受け入れに変更。記録いたします」


 そこで、アルフレッドはわずかに口を開きかけた。


 礼を言おうとしたのか、何かを足そうとしたのかは分からない。


 エレノアは待った。


 彼の言葉は、彼自身が選ぶものだから。


 少しの間のあと、アルフレッドは言った。


「記録を頼む」


「はい」


 それだけで終わった。


 以前なら、その短さに不安を覚えたかもしれない。もっと穏やかな言葉を足すべきではないか、周囲に冷たく見えないだろうか、彼が言い残したことを汲むべきではないかと考えたかもしれない。


 けれど今は、仕事の言葉としてそれで足りていた。


 エレノアは手帳に書き込む。


 委員長確認済。担当班へ共有。


 文字は、淡々としていた。


 けれど、その淡々とした記録が、今日は自分を少し守ってくれているように感じた。


 放課後、準備室に残った確認事項を整理していると、未確認事項の欄にはいくつかの項目が並んでいた。担当者名、確認期限、次の判断者。それらは、以前ならエレノアの手帳の端に、小さな追加予定として書き込まれていたものかもしれない。


 今は違う。


 誰かの役割を、エレノアが自分の予定に変えないための記録になっている。


 窓の外では、創立祭に使う布を運ぶ生徒たちが、少しずつ飾りの準備を進めていた。準備室の中でも、各班がそれぞれの確認を持ち帰り、次に何をすべきかを話し合っている。


 エレノアは手帳を閉じる前に、今日の最後の記録を書いた。


 未確認事項は、担当ごとに残すこと。


 代わりに決めないこと。


 必要な場所へ、戻すこと。


 書き終えてから、エレノアは少しだけペンを止めた。


 引き受けないことは、投げ出すことではなかった。


 記録は、誰かを守るためだけでなく、自分を戻さないためにも使えるのだと、エレノアはその日、少しずつ覚えていった。

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