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返事を待つ時間

 手紙を出した翌朝、エレノアはいつも通りに起き、いつも通りに身支度を整えた。窓の外には薄い朝の光が広がっていて、昨夜アレクシスへ宛てた手紙は、朝一番で届けるように頼んである。短い手紙だった。用件と呼べるほどの用件はなく、ただ、また用件のない時間に歩けないかと尋ねただけのものだ。


 それなのに、朝食の席で使用人が銀盆を手に部屋へ入ってくるたび、エレノアはほんの少し顔を上げてしまった。


 もちろん、すぐに返事が来るはずはないと分かっている。そもそも、急いで返事を求めるような内容でもなかった。都合が合えば、また歩けないかというだけの手紙である。正式な確認でも、家同士の連絡でも、創立祭に関わる相談でもない。


 けれど、用件のある手紙なら、返事の時期も理由も分かる。必要な資料を送ったのなら、確認後に返る。招待状なら、出欠が返る。相談なら、相手が検討したのちに返る。そういう手紙なら、待つ理由も、待つ姿勢も、自分の中で整えられる。


 用件のない手紙は、待ち方が分からなかった。


 エレノアは紅茶に口をつけながら、そのことに気づく。自分は、待っている。たったそれだけのことに気づいた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。


 誰かの確認を待つのとは違う。書類の返送を待つのとも違う。相手の返事が遅れたとき、次の予定が止まるわけではなく、誰かが困るわけでもない。それなのに、気になっている。


 エレノアはカップを置き、少しだけ視線を伏せた。


「お嬢様?」


 そばに控えていた侍女が、控えめに声をかける。


「いいえ、何でもありません」


 そう答えた声は、少しだけ平静を装いすぎていたかもしれない。


 学園へ向かう馬車の中でも、エレノアは昨日書いた手紙の文面を思い出していた。


 もしご都合がよろしければ、また用件のない時間に歩けませんでしょうか。


 何度思い返しても、そこにはやはり、明確な用件がない。それなのに、取り消したいとは思わなかった。怖くはある。けれど、それは逃げたい怖さではなかった。


 学園に着くと、空気はいつもより少しだけ落ち着かないように感じられた。実際に誰もがこちらを見ているわけではない。けれど、廊下の端で交わされる小さな声や、視線が触れてすぐ離れる仕草に、婚約の話がすでに少しずつ広まっていることは分かった。


 正式な説明はまだ家から整えられる途中だ。けれど、両家の話し合いがあったこと、アルフレッドとエレノアが揃って出席したことを知る者がいれば、噂は自然に形を持つ。


 以前なら、エレノアはその形が歪む前に整えようとしただろう。誰かが誤解しないように、アルフレッドが責められすぎないように、リリアの名が不必要に広がらないように、学園の空気が荒れないように。そう考えただけで、説明すべき言葉はいくつも浮かんでくる。


 けれど、馬車の中で父母に言われたことが胸によみがえった。


 聞かれたこと全部に返事をするのは、誠実とは違う。


 エレノアは、廊下の先でこちらに近づいてくる令嬢に気づき、静かに立ち止まった。


「エレノア様」


 声をかけてきたのは、同じ学年の令嬢だった。普段は挨拶を交わす程度の相手で、悪意があるようには見えない。けれど、その表情には心配と好奇心が入り混じっていた。


「あの……昨日、両家のお話し合いがあったと伺いました。アルフレッド様とは、その……」


 言葉が曖昧に途切れる。


 エレノアは、相手を責める気にはならなかった。噂の中で、不安定な言葉を拾ってしまったのだろう。心配してくれている部分もあるのかもしれない。けれど、すべてに答える必要はなかった。


「ご心配いただき、ありがとうございます。正式なことは、家を通してお伝えいたします」


 令嬢は少しだけ目を瞬かせた。


「あ……そう、ですわよね。失礼いたしました」


「いいえ」


 エレノアは微笑み、軽く礼をして歩き出す。それ以上は説明しなかった。


 答えないことは、思っていたより難しかった。背中に残る相手の戸惑いを感じると、もう少し柔らかい言葉を足したくなる。心配してくれてありがとう、でも心配しないで、リリア様のことは、アルフレッド様のことは、創立祭は問題なく進めます。いくらでも言葉は浮かぶ。


 けれど、浮かんだ言葉をすべて渡す必要はない。


 答えないことは、思っていたより難しい。けれど、失礼ではなかった。


 創立祭の準備室に入ると、机の上には今日確認すべき書類が整えられていた。エレノアは深く息を吸い、いつもの席につく。ここで扱うのは、創立祭に関わる事務のことだ。婚約のことではない。


 その切り分けを、自分の中でもう一度確認した。


 委員の一人が、少し遠慮がちに声をかけてくる。


「エレノア様、本日の確認分はこちらです。……その、進行はいつも通りでよろしいでしょうか」


 言葉の後ろに、別の質問が透けている気がした。それでも、エレノアは書類だけを受け取った。


「はい。創立祭の準備については、予定通り進めましょう。婚約に関わる私事とは切り分けます」


 委員はほっとしたように頷いた。


「承知しました」


 それだけで済んだ。


 拍子抜けするほど、場は壊れなかった。エレノアがすべてを説明しなくても、創立祭の準備は進む。必要な書類は回り、確認すべき事項は確認される。


 もちろん、完全に何も変わらないわけではない。周囲の視線には、まだ慎重さがあった。けれど、その慎重さまで自分がすべて柔らかく包み直す必要はないのだと、エレノアは少しずつ理解していった。


 準備室での確認を終え、廊下に出たところで、エレノアは少し離れた場所にアルフレッドの姿を見つけた。


 彼は数人の委員と話していたが、エレノアに気づくと、言葉を止めた。一瞬、視線が合う。以前なら、その一瞬でいくつものことを考えただろう。こちらから声をかけるべきか、周囲に気まずさを見せないほうがよいのではないか、彼が何かを言いたそうなら少し待つべきではないか。


 けれど、アルフレッドは追ってこなかった。


 ただ、静かに礼をする。エレノアも、同じように礼を返した。それだけだった。


 短い礼だけで、終わった。


 それで足りるのだと、初めて思えた。


 背を向けて歩き出しても、足が止まることはなかった。彼の視線がまだこちらにあるかどうかを確かめることもしない。求めないと、彼は言った。その言葉を、彼も守ろうとしているのかもしれない。


 そう思ったが、エレノアはそれ以上を考えなかった。


 午後の授業と準備を終え、家に戻るころには、朝から続いていた落ち着かなさが少し薄れていた。学園で聞かれたことにすべて答えなくても、一日は過ぎた。婚約のことを説明し続けなくても、創立祭の仕事は進んだ。世界は、今日も自分ひとりが支えなくても動いていた。


 そう思いながら自室に戻ると、机の上に一通の封筒が置かれていた。


 宛名を見た瞬間、エレノアの足が止まる。


 アレクシスからだった。


 朝から何度も待っているわけではないと自分に言い聞かせていたはずなのに、その封筒を見た途端、胸の奥が静かに鳴った。


 エレノアはゆっくりと椅子に座り、封筒を手に取る。封を切る前に、少しだけ指が止まった。


 怖い。


 けれど、今日何度も感じた緊張とは違っていた。責められる怖さではない。説明を求められる怖さでもない。返事を受け取ることで、自分が何かを期待していたと認めてしまうことが、少しだけ怖かった。


 それでも、逃げたいとは思わなかった。


 エレノアは丁寧に封を開け、便箋を取り出した。


 アレクシスの文字は、いつものように整っていた。けれど、どこか硬すぎず、読み始める前から不思議と呼吸が楽になる。


 エレノア様


 お手紙をいただき、ありがとうございます。

 また歩けることを、私も嬉しく思います。


 ご都合のよい日をお知らせください。

 用件のない時間であれば、急ぐ必要もございません。

 ただ、私はその時間を楽しみにしております。


 アレクシス


 読み終えてから、エレノアはしばらく便箋を見つめていた。


 短い返事だった。けれど、そこには余計な問いがなかった。昨日何があったのかを尋ねる言葉も、無理に励ます言葉も、早く会おうと急かす言葉もない。


 また歩けることを、私も嬉しく思います。


 その一文を、エレノアはもう一度目で追った。


 私も。


 その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。エレノアが送ったのは、用件のない手紙だった。返事を急かすものではなく、何かを解決してもらうためのものでもなかった。それでも、彼は嬉しいと言った。


 用件のない時間であれば、急ぐ必要もございません。


 その次の文を読み、エレノアは指先から少し力が抜けるのを感じた。


 急がなくていい。


 それは、アレクシスらしい言葉だった。会うことも、話すことも、気持ちに名前をつけることも、急がなくていい。けれど、楽しみにしていると言ってくれる。


 エレノアは便箋をそっと机に置いた。


 返事を待つ時間が、こんなふうに温かいものだとは知らなかった。


 待つことは、いつも不安に近いものだった。確認が来ない。約束が守られない。相手の都合が分からない。自分がまた整えなければならない。そんな待ち方ばかりを知っていた。


 けれど、これは違った。


 返事を待っていたのだと、ようやく認めてもよい気がした。そして、その返事が来たことを嬉しいと思っている自分のことも、少しだけ責めずにいられた。


 エレノアはもう一度、便箋を手に取る。


 ただ、私はその時間を楽しみにしております。


 もう一度だけ、と思いながら、結局その一文に何度も戻ってしまう。


 そのたびに、胸の奥に小さな灯りがともるようだった。


 エレノアは、まだ返事を書かなかった。けれど、その時間をいつにするか考えることが、少しだけ楽しみだった。

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