会いたい理由
応接室を出たあと、廊下の空気は思っていたよりも冷たかった。
室内にいたときの重さがまだ体に残っているのか、外へ出ればすぐに息が楽になると思っていたのに、エレノアはしばらくうまく呼吸ができなかった。足はきちんと前に進んでいるし、背筋も伸びている。けれど、胸の奥に張っていたものが、すぐにはほどけてくれない。
戻りません。
自分の声が、まだ耳の奥に残っている。
あれは本当に自分が言ったのだろうかと思うほど、静かで、はっきりした言葉だった。
廊下の途中で、母が隣に並んだ。エレノアの顔を覗き込むでもなく、手を取るでもなく、ただ歩幅を合わせてくれる。
「よく座っていましたね」
母が静かに言った。
エレノアは、少しだけ目を瞬かせた。
「言えたことより、座っていたことですか」
「ええ」
母は穏やかに頷く。
「途中で立ち上がって、誰かのために整えようとはしなかったもの」
その言葉に、エレノアは思わず息を吐いた。
褒められるなら、言えたことだと思っていた。戻りませんと言えたこと。自分の寂しさをなかったことにしなかったこと。アルフレッドの謝罪を受け止める前に、自分の言葉を置けたこと。
けれど母は、そこではなく、座っていたことを見ていた。
場が重くなっても、沈黙が落ちても、手続きの話に移っても、エレノアは立ち上がらなかった。記録を取ろうとしなかった。誰かが困らないように、先回りして動かなかった。
それは、言葉にするよりもずっと小さなことのようでいて、エレノアにとっては、確かに難しいことだった。
「……何度か、手帳を開きそうになりました」
「知っているわ」
「お父様に止められました」
「ええ」
母の声には、ほんの少し笑みが混じっていた。
「だから、よく座っていましたね」
エレノアは小さく笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
会議のあと、何かが劇的に晴れたわけではない。胸の奥にはまだ疲れがあり、指先には冷たさも残っている。それでも、母のその一言で、張りつめていたものが少しだけ緩んだ気がした。
廊下の角を曲がると、背後で扉の開く音がした。
エレノアは振り返らなかったが、足音で誰が出てきたのか分かった。
アルフレッドだった。
以前なら、その足音だけで、自然に意識が向いただろう。何か言いかけているのではないか。こちらが待つべきではないか。気まずいまま別れるより、少しでも穏やかな言葉を置いたほうがよいのではないか。
そう考え始めるより早く、アルフレッドの足音が少し近づき、そして止まった。
エレノアも足を止める。
けれど、先に言葉を探すことはしなかった。
振り向くと、アルフレッドは数歩離れた場所に立っていた。何かを言いたげに唇を開きかけ、それから、静かに閉じる。彼は深く頭を下げた。
エレノアも、礼を返した。
それだけだった。
言葉はなかった。
けれど、以前のように、沈黙を埋めなければならないとは思わなかった。
エレノアは母と並んで、再び歩き出す。
背後に残る気配を、追いかけなかった。
以前なら、彼が何を言おうとしたのかを考えた。続きを想像し、自分の中で意味を整え、その言葉が傷にならない形に置き換えようとしたかもしれない。
けれど今日は、その続きを自分で探さなかった。
廊下を進むほど、足音は遠ざかっていく。
エレノアは、一度も振り返らなかった。
馬車に乗ると、父は向かいの席に座り、しばらく黙って窓の外を見ていた。母もまた、余計なことは言わなかった。沈黙は重すぎず、かといって軽くもない。ただ、それぞれが今日のことを胸の中で落ち着かせるための時間だった。
馬車がゆっくり動き出してから、父が口を開いた。
「学園で何か聞かれることがあるかもしれない」
「はい」
「そのとき、無理に答える必要はない。婚約についての正式な説明は、家から整える」
エレノアは頷いたが、すぐに言葉を返せなかった。
聞かれたら答える。誤解があれば訂正する。場がざわつけば、できるだけ穏やかに収める。そうするのが当然だと思っていた。
けれど父は、答えなくていいと言う。
「何も言わないことが、不誠実になるのではありませんか」
エレノアが尋ねると、母が静かに首を振った。
「聞かれたこと全部に返事をするのは、誠実とは違うわ」
その言葉は、思っていたよりも深く胸に入った。
「あなたが守るべきものは、すべての人の納得ではありません」
母は続ける。
「正式に伝えるべき相手には、家が伝えます。あなたがその場その場で、自分の心を削って説明し続ける必要はないの」
エレノアは、膝の上で手を重ねた。
何も言わないことは、逃げることだと思っていた。けれど、話すべき相手と、話さなくてもよい相手を選ぶことも、自分を守る方法なのかもしれない。
「……覚えておきます」
エレノアが言うと、父は短く頷いた。
「覚えておくだけでいい。すぐに上手くできなくても構わない」
その言い方に、エレノアは少しだけ目を伏せた。
戻らないと言ったからといって、すぐにすべてが変わるわけではない。癖は残っている。誰かの反応を考え、場を整え、先に謝り、先に理解しようとする自分は、まだきっと何度も顔を出す。
それでも、そのたびに思い出せばいい。
座っていていいこと。
答えなくていいこと。
振り返らなくていいこと。
家に戻ると、エレノアは自室へ入った。
外套を椅子の背に掛け、手袋を外す。指先は少し温まっていた。机の前に座り、手帳を開くと、昨日書いた紙がそこにある。
わたくしは、婚約者として隣にいたかったのであって、不在を埋める役でいたかったのではありません。
これからは、わたくし自身の時間を、誰かのための余白として扱うことはできません。
昨日は、この紙が戻らないための支えだった。
今日、それは少しだけ意味を変えていた。
戻らなかったことを、忘れないための紙。
エレノアは紙を見つめ、指先で端をそっとなぞった。言葉はまだ少し硬い。けれど、今はその硬さを責める気にはならなかった。震えながらでも、自分のために書いた言葉だった。
机の上には、未使用の便箋が置かれている。
父が言った今後の手続きのことを思い出し、エレノアは反射的に新しい紙を取ろうとした。学園での説明、創立祭の役割、家からの正式な連絡。整理しようと思えば、いくつも項目は出てくる。
けれど、手を伸ばしかけて止まった。
それは今、自分が急いで整えることではない。
エレノアは便箋を戻し、代わりに窓の外へ目を向けた。
庭には夕方の光が落ちている。
その光を見ているうちに、ふと、別の人の声が胸の中によみがえった。
また、用件のない時間に。
アレクシスの声だった。
エレノアは、机の上で指を止める。
今日のことを、報告すべきだろうか。
最初に浮かんだのは、そんな考えだった。正式な話し合いがあったこと。自分の言葉を伝えたこと。婚約を従来のまま続けることは難しいと、家として確認されたこと。
けれど、すぐに気づく。
アレクシスは、この婚約の当事者ではない。報告する義務はないし、今日の経緯を詳しく伝えなければならない相手でもない。
それでも、会えたらいいと思った。
そう気づいた瞬間、エレノアはペンを持つ指を少し止めた。応接室で感じていた冷たさとは違う熱が、胸の奥に小さく灯る。
会いたい。
その言葉は、まだ紙には置けない。
けれど、用件を探しているわけではないことだけは分かった。
エレノアは新しい便箋を一枚取った。
今度は手続きのためではなく、誰かの都合を整えるためでもない。ペンを持ち、少しだけ迷ってから、丁寧に宛名を書く。
アレクシス様
そこまで書いて、胸が静かに鳴る。
続く言葉を探す時間は、苦しくなかった。
むしろ、どこかこわくて、少しだけ温かい。
エレノアは息を整え、ゆっくりと書き出した。
もしご都合がよろしければ、また用件のない時間に歩けませんでしょうか。
書き終えてから、しばらくその一文を見つめた。
これは報告ではない。
用件でもない。
会いたい、とはまだ書いていない。
けれど、理由を書こうとして、書けなかった。
そのことが、少しだけ怖くて。
少しだけ、嬉しかった。




