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戻らないという返事

「戻りません」


 その言葉を口にしたあとも、エレノアは席を立たなかった。


 応接室の空気は、先ほどまでとは違う静けさをまとっている。誰かが言葉を失った沈黙ではなく、今置かれたものを、それぞれが自分の中で受け止めようとしている沈黙だった。


 エレノアは膝の上に置いた手を見下ろす。


 指先はまだ少し冷たい。けれど、震えてはいなかった。手帳の中には、昨日書いた紙が挟まっている。けれど、今はそこに触れなくても座っていられる。


 隣ではなく、向かい合う席に。


 アルフレッドの前に。


 父と母のいる場に。


 自分の言葉を置いたまま、エレノアはそこに座っていた。


 母は何も言わなかった。


 隣から手を伸ばすことも、代わりに何かを告げることもしなかった。ただ、エレノアがまだ座っていることを、静かに見守っている。その沈黙は、エレノアの言葉を奪わないためのものだった。


 やがて、アルフレッドがゆっくりと顔を上げた。


 彼の表情には、まだ言葉になりきらないものが残っている。悔いなのか、痛みなのか、あるいは今になってようやく理解したものへの戸惑いなのか、エレノアには分からなかった。


 以前なら、その表情に名前をつけようとしただろう。彼が言いやすい言葉を探し、こちらから受け止める準備をしたかもしれない。


 けれど今は、待った。


 彼の言葉は、彼自身が選ぶものだから。


「……君の言葉を」


 アルフレッドは、かすれた声で言った。


「取り消してほしいとは、言えない」


 その一言に、応接室の空気がわずかに動いた。


 エレノアは瞬きをしたが、何も言わなかった。


 アルフレッドは膝の上の手を一度握り直し、続ける。


「戻ってほしいと思う気持ちはある。けれど、それを今、君に求めることはできない。求めていい立場ではないのだと思う」


 その言葉は、遅すぎたのかもしれない。


 けれど、今ここで彼が言ったことを、エレノアはなかったことにはしなかった。


 求めない。


 それは、以前のアルフレッドからはなかなか聞けなかった言葉だった。彼は多くの場合、エレノアが受け止めてくれることをどこかで前提にしていた。説明すれば分かってくれる。黙っていても察してくれる。戻れば席が残っている。


 その前提を、今、彼自身が手放そうとしている。


 それでも、エレノアの返事が変わるわけではなかった。


「ありがとうございます」


 エレノアは静かに言った。


「そう言っていただけたことは、受け止めます」


 そこで一度言葉を切る。


 アルフレッドの目が、わずかに揺れた。


「けれど、わたくしの返事は変わりません」


 その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


 強く言い切るために、声を張る必要はなかった。


 アルフレッドは目を伏せ、深く息を吐いた。


「……分かっている」


 その言葉のあと、先方の父が静かに姿勢を正した。


 彼はアルフレッドを一度見、それからエレノアの父母へ視線を移す。表情は厳しい。けれど、その厳しさは怒りというより、自分たちの家が見落としていたものへ向けられているように見えた。


「このたびのことについて、こちらの家としてもお詫び申し上げます」


 先方の父は、深く頭を下げた。


「アルフレッド個人の不手際だけでなく、婚約者であるエレノア嬢に負担が偏っていたことを、我々も見過ごしておりました。家同士の約束である以上、息子の振る舞いだけを責めて済む話ではありません」


 そこで、先方の父は一度、言葉を詰まらせた。


 言いにくいことを、ようやく家の言葉として置こうとしている。そんな間だった。


 先方の母も、静かに頭を下げる。


「エレノア嬢」


 彼女の声は、少し震えていた。


「あなたに、理解ある婚約者でいてくださることを、こちらも当然のように受け取っていたのだと思います。感謝という言葉で、あなたに甘えておりました。息子を支えてくださっていると感謝しながら、その支えがあなたを削っていたことに、気づこうとしておりませんでした」


 エレノアは、すぐには返事をしなかった。


 謝罪の言葉は、重かった。


 けれど、その重さを自分が全部抱え込む必要はないのだとも思った。


 受け止めることと、背負うことは違う。


「お言葉は、受け取りました」


 エレノアが言うと、先方の母はもう一度小さく頭を下げた。


 そのとき、父がゆっくりと口を開いた。


「エレノアの考えは確認しました」


 低く、落ち着いた声だった。


 エレノアは父を見る。


 父は先方に向き直り、言葉を続けた。


「父として、また家として、この婚約を従来のまま継続することは難しいと考えます」


 胸の奥で、何かが静かに動いた。


 それは驚きではなかった。


 けれど、ひとりで持っていたものを、誰かが隣で支えてくれたときのような感覚だった。


 戻らないという言葉を、自分ひとりの我がままとして置いておかない。


 家が、それを受け止めている。


 母が前に言ってくれた言葉が、エレノアの中でよみがえる。


 家のことは、家で受け止めます。


 その言葉は、今ここで形になっていた。


 先方の父は、すぐには答えなかった。


 しばらく目を伏せ、それから静かに頷く。


「……当然のご判断と受け止めます」


 アルフレッドが、かすかに息を呑んだ。


 けれど、何も言わなかった。


 彼は膝の上の手を握りしめ、それからゆっくりと力を抜く。その動きは、何かを引き留めようとする自分を、必死に押しとどめているようにも見えた。


「本日はまず、双方の意思を確認する場といたしましょう」


 エレノアの父が言った。


「細かな手続き、今後の対外的な説明、創立祭に関わる公的な役割との切り分けについては、後日、書面にて協議するのがよろしいかと存じます」


 その言葉を聞いた瞬間、エレノアの中でいつもの癖が小さく動いた。


 書面。

 手続き。

 説明。

 切り分け。


 どの順番で整理すべきか、誰へ確認すべきか、どの書類が必要になるのか。そんな項目が頭の中に並びかける。


 指が、無意識に手帳へ向かいそうになった。


「エレノア」


 父の声が、それを止めた。


 エレノアは顔を上げる。


 父は厳しくはなかった。けれど、はっきりと言った。


「記録はこちらで取る。お前は座っていなさい」


 その一言に、エレノアは息を止めた。


 座っていなさい。


 31話の扉の前でも聞いた言葉だった。


 けれど、今はさらに深く届いた。


 話が進む。

 手続きが始まる。

 誰かが調整を必要とする。


 それでも、自分がすぐに立ち上がらなくてもいい。


 エレノアはゆっくりと手帳から指を離した。


「……はい」


 小さく答えると、母が隣でわずかに頷いた。


 先方の父とエレノアの父は、今後の進め方について必要な確認を交わした。婚約の今後は家同士で書面を整えること。学園の創立祭に関わる役割は、婚約の件とは切り分けること。かつてなら自分が一つひとつ書き留めたはずの確認事項が、今日は父と家令の手で静かに整理されていく。


 言葉は次々に置かれていく。


 けれど、エレノアはそのすべてを自分の手で整えようとはしなかった。


 必要なことは、父が確認している。


 記録は家の者が取っている。


 先方も、家として応じている。


 自分の言葉を置いたあと、世界が止まるわけではなかった。


 むしろ、世界は自分ひとりが支えなくても動いていくのだと、エレノアは静かに知った。


 どれほど長く感じたか分からない話し合いが、ひとまず終わりに近づいたころ、アルフレッドがもう一度エレノアを見た。


「エレノア」


 名前を呼ばれて、エレノアは顔を向ける。


 アルフレッドは何かを言おうとして、それから一度口を閉じた。


 先ほどとは違い、言葉を選ぼうとしているのが分かった。


「君が今日言ったことを、忘れない」


 それだけだった。


 謝罪を重ねるのでも、戻ってほしいと願うのでもない。


 ただ、忘れないと告げる言葉。


 エレノアは、その言葉を静かに受け止めた。


「忘れないでいてくださるなら」


 エレノアは言った。


「それを、これからのあなたご自身の言葉と行動にしてください」


 アルフレッドは目を見開いた。


 エレノアは、穏やかに続ける。


「わたくしが、それを見届けるために隣にいることはできませんが」


 それは、はっきりとした線だった。


 けれど、その線を引く声は、不思議なほど穏やかだった。


「わたくしのためにではなく。あなたがこれから、誰かと向き合うために」


 その言葉は、思っていたより自然に出た。


 以前のように、彼のために道を整えているのではない。けれど、彼をただ突き放したかったわけでもない。


 自分は戻らない。


 そのうえで、彼がどう生きるかは、彼自身のものだ。


 アルフレッドは、しばらく何も言えないようだった。


 やがて、深く頭を下げる。


「……分かった」


 それ以上、エレノアは何も足さなかった。


 話し合いが終わり、席を立つ前に、エレノアは手元の手帳を見た。


 昨日書いた紙は、結局ほとんど開かなかった。


 けれど、必要なかったわけではない。


 あの紙があったから、エレノアは今日、この席に自分の言葉を持って来られた。読み上げるためではなく、戻らない場所を見失わないために。


 父が立ち、母も静かに席を立つ。


 エレノアもそれに続いた。


 最後にもう一度、向かい側の席を見る。


 そこは、アルフレッドの隣ではなかった。

 誰かの不在を埋めるための場所でもなかった。


 自分の言葉を、家と場に受け止めてもらうための席だった。


 戻らないという返事は、もう彼女ひとりの胸の中だけにあるものではなかった。

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