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隣にいたかった

「わたくしは、婚約者として隣にいたかったのです」


 エレノアがそう言うと、応接室の空気は静かに沈んだ。


 誰かが大きく息を呑んだわけではない。声を上げた者もいない。ただ、それぞれの視線が、今置かれた言葉の重さを受け止めるように、わずかに動いた。


 アルフレッドは、膝の上で組んでいた指に力を込めたまま、エレノアを見ていた。


 その唇が、何かを言おうとしてわずかに開く。


 エレノアは、それを見るだけで、胸の奥に長く染みついた反射が立ち上がるのを感じた。


 言いかけた言葉を拾わなければ。

 彼が言いやすいように、こちらから受け止めなければ。

 場が止まらないように、柔らかくつながなければ。


 けれど、今日はそのためにここに来たのではなかった。


「申し訳ありません」


 エレノアは静かに言った。


「最後まで、聞いていただけますか」


 アルフレッドは、開きかけた口を閉じた。


 一瞬だけ苦しげに目を伏せ、それから小さく頷く。


「……ああ」


 短い返事だった。


 エレノアは、その頷きを待ってから言葉を続けた。


「わたくしは、約束をすべて守ってほしかったわけではありません。守れない日があることも、急な事情が入ることも、人にはそれぞれ優先しなければならないものがあることも、分かっていたつもりです」


 言いながら、胸の奥が少しずつ熱くなっていく。


 それでも声は、思っていたより落ち着いていた。


「けれど、守れなかった約束の理由を、いつも後からわたくしが受け止める形にしたくはありませんでした。何があったのかを聞き、どうすれば周囲に角が立たないかを考え、あなたが責められすぎないように言葉を選び、空いた予定や席を整える。それを繰り返すうちに、わたくしは婚約者として隣にいるのではなく、あなたの不在を説明する役になっていったのだと思います」


 アルフレッドの顔が、かすかに強張った。


 彼の母が扇を握る手に力を込める。先方の父は、表情を変えないまま視線を落とした。


 エレノアは、一度だけ呼吸を整えた。


 ここから先を言うのが、一番怖かった。


 事実なら言える。記録なら整えられる。けれど、寂しかったと口にすることは、事実を並べるよりもずっと心もとなかった。


 それでも、言わなければまた同じ場所に戻ってしまう気がした。


「約束が守られなかったことだけが、つらかったのではありません」


 アルフレッドが、わずかに顔を上げる。


 エレノアは、彼を見たまま続けた。


「そのたびに、わたくしが寂しかったことまで、なかったことになるのがつらかったのです」


 言葉にした瞬間、自分の胸の奥で何かが小さく震えた。


 寂しかった。


 たったそれだけの言葉を、これまでどれほど遠ざけてきたのだろう。


 理解ある婚約者でいようとした。周囲に迷惑をかけないようにした。リリアの不安も、アルフレッドの立場も、委員会の都合も、できるだけ考えた。


 けれど、その中に自分の寂しさを置く場所はなかった。


「皆が、あなたを優しい方だと言いました。リリア様を放っておけないのは当然だと。わたくしにも、理解があると言ってくださいました。けれど、そう言われるたびに、わたくしは自分の痛みを引っ込めなければならないような気がしていました」


 声が震えそうになった。


 けれど、エレノアは膝の上の手を握りしめる代わりに、ゆっくりとほどいた。


 隠す必要はない。


 震えそうなことまで、整えなくていい。


「わたくしは、婚約者として隣に立ちたかったのであって、不在を埋める役でいたかったのではありません」


 その言葉を口にしたとき、昨日書いた紙の文字が胸の奥で静かに重なった。


 けれど今、それを読み上げているわけではなかった。


 紙は手帳の中にある。


 言葉は、自分の口から出ている。


「委員長席が空いたとき、書類が止まったとき、伝言が必要になったとき、その場を整えることはできました。けれど、それを続けるほど、わたくし自身の席がどこにあるのか分からなくなっていきました。隣にいるはずだったのに、いつの間にか少し後ろで支え、足りないところを埋め、あなたが戻ってきたときに困らないように場を保つことが、わたくしの役目になっていました」


 応接室は静かだった。


 窓の外で、風が庭木を揺らす音だけがかすかに聞こえる。


「わたくしは、それをすべてあなたの悪意だと言いたいわけではありません。あなたがリリア様を心配していたことも、彼女を守ろうとしていたことも、嘘ではなかったのでしょう。けれど、あなたの優しさがどこへ向いていたとしても、その陰でわたくしが何度も後回しになっていたことも、また嘘ではありません」


 アルフレッドは何も言わなかった。


 ただ、先ほどよりも深く俯いている。


 エレノアは、彼の反応を待ちすぎないようにした。ここで彼の言葉を待てば、また自分の言葉が後ろへ下がってしまう気がしたからだ。


「わたくしは、あなたにリリア様を見捨ててほしかったのではありません。ただ、わたくしのことも、婚約者として見てほしかったのです。約束を守れないなら、その前に言葉がほしかった。来られないなら、来られないとあなた自身の口から聞きたかった。わたくしがどう感じたのかを、あとから整えられるものとしてではなく、その場で向き合うものとして扱ってほしかった」


 胸が痛んだ。


 けれど、それは戻りたい痛みではなかった。


 やっとそこにあったと認められた痛みだった。


 エレノアが言葉を止めると、しばらく誰も口を開かなかった。


 沈黙は、以前ならすぐに埋めたくなるものだった。


 けれど今は、埋めなかった。


 これは、自分の言葉のあとに生まれた沈黙だ。


 誰かのために急いで整える必要はない。


 やがて、アルフレッドがゆっくりと顔を上げた。


「……君が、そこまで感じていたことを、分かっていなかった」


 声はかすれていた。


 エレノアは、その言葉を聞いても、すぐには頷かなかった。


「君が整えてくれていることに、甘えていた。いつも、君なら分かってくれると思っていた。君が困らないように整えてくれていたから、僕は困らずに済んでいたのだと思う」


 アルフレッドは、言葉を探すように一度息を吸う。


「君が傷ついているとは……考えようとしなかった」


 考えようとしなかった。


 その言葉に、エレノアは静かに目を伏せた。


 考えなかった、ではない。


 考えようとしなかった。


 アルフレッドが自分でそこまで言ったことを、エレノアは受け止めた。


 けれど、受け止めることと、戻ることは違う。


「分かっていただけなかったことも、つらかったのだと思います」


 エレノアは言った。


 アルフレッドの目が揺れる。


「何度も言おうとしました。けれど、そのたびに、今はリリア様が大変だから、あなたも疲れているから、委員会を止めるわけにはいかないからと、自分の中で言葉を引っ込めました。そうしているうちに、わたくしは、言ってもよいことまで分からなくなっていました」


 アルフレッドは、唇を噛んだ。


 先方の母が小さく息を吐く。父は何も言わないが、その沈黙は先ほどよりも重かった。


 エレノアは、手帳に触れなかった。


 もう、そこに紙があることは分かっている。けれど今の言葉は、紙から拾っているものではなかった。


「だから、今日お伝えしたいのです」


 エレノアは、ゆっくりと背筋を伸ばした。


「わたくしは、もう以前の形には戻りません」


 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がまた少し変わった。


 アルフレッドが顔を上げる。


 何かを言いかけたように見えたが、今度は自分で言葉を飲み込んだ。


 エレノアは続けた。


「これは、あなたを責めるためだけの言葉ではありません。わたくしが、もう自分の寂しさや時間をなかったことにしないための言葉です。婚約について、家同士で確認すべきことはあると思います。けれど、わたくし自身の考えとしては、以前のように、あなたの不在を埋める婚約者には戻れません」


 戻れません、と言ってから、エレノアは一度だけ呼吸を置いた。


 違う。


 戻れないのではない。


 戻らないのだ。


 エレノアは顔を上げたまま、言い直した。


「戻りません」


 その短い言葉は、思っていたよりも静かに出た。


 けれど、部屋のどの言葉よりも、自分の中に深く届いた。


 アルフレッドは何も言わなかった。


 ただ、膝の上で握っていた手をゆっくりとほどいた。その手は少し震えているように見えたが、エレノアはもう、その震えを受け止めるために自分の言葉を曲げようとは思わなかった。


 父も母も、静かに座っていた。


 エレノアは、手帳の中の紙に頼らず、自分がまだこの席に座っていることに気づいた。


 隣ではなく、向かい合う席に。


 その席で、エレノアは初めて、戻らないという言葉を自分のものにした。

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