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向き合う席

 昨日書いた言葉は、朝になっても消えていなかった。


 エレノアは机の前に座り、丁寧に重ねておいた紙をもう一度開いた。そこには、自分の手で書いた文字が、昨日と同じ形で残っている。


 わたくしは、婚約者として隣にいたかったのであって、不在を埋める役でいたかったのではありません。


 これからは、わたくし自身の時間を、誰かのための余白として扱うことはできません。


 読み返すたびに、胸の奥が少しだけ強く鳴る。


 昨日は、その言葉を書く手が震えていた。今も怖くないわけではない。今日、そのまま口にできるかどうかも分からない。けれど、朝の光の中で見ても、その言葉を消したいとは思わなかった。


 エレノアは紙を折り、封筒には入れず、手元の小さな手帳に挟んだ。


 話し合いの場で、これを読み上げるとは限らない。言葉はその場で少し変わるかもしれないし、もっと柔らかく整える必要があるかもしれない。


 それでも、置いていくことはできなかった。


 自分の言葉を、今日は自分のそばに置いておきたいと思った。


 支度を終えて部屋を出ると、廊下で母が待っていた。母はエレノアの手元をちらりと見ただけで、何を持っているのかを尋ねなかった。


「眠れた?」


「少しだけ」


 エレノアが答えると、母は心配そうに眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。


「今日、うまく話せるかは分かりません」


「うまく話すための場ではないわ」


 母は静かに言った。


「あなたが、あなたの言葉を持って座るための場よ」


 その言葉に、エレノアは手帳を持つ指に少しだけ力を込めた。


「この紙も、そのまま読めるかどうかは分かりません」


「そのまま言わなくてもいいのよ」


 母は、廊下の窓から入る光の中で穏やかに微笑んだ。


「その紙は、言葉を間違えないためのものではなく、あなたが戻らないためのものだと思えばいいわ」


 戻らないためのもの。


 エレノアはその言葉を胸の中で繰り返した。


 間違えないように、ではない。誰かを傷つけないように、でもない。自分の言葉がどこから来たのかを、見失わないようにするための紙。


「はい」


 エレノアは頷いた。


「持っていきます」


 母はそれ以上何も言わず、ただ隣を歩き出した。


 馬車の中で、父も多くは語らなかった。


 窓の外を過ぎていく街路樹の影を見ながら、エレノアは何度も手帳の位置を確かめた。膝の上に重ねた手は落ち着いているように見えたかもしれないが、指先にはまだわずかな緊張が残っている。


 その緊張を隠そうとしている自分に気づいて、エレノアは小さく息を吐いた。


 怖さがあることまで、整えなくてもいい。


 昨夜、そう思えたはずだった。


 それでも体は、長く染みついた癖をすぐには手放さない。きちんとしていなければ。冷静でいなければ。相手の言葉を受け止められるよう、先に自分を整えておかなければ。


 そんな考えが浮かぶたび、エレノアは手帳に挟んだ紙の感触を思い出した。


 そして、アレクシスが言った「待つ」という言葉も、ふと胸をよぎった。


 今日は、受け止めるためだけに行くのではない。


 伝えるために行くのだ。


 話し合いの場として用意されたのは、両家が以前から何度か使ってきた屋敷の応接室だった。祝い事の相談にも、家同士の確認にも使われてきた部屋で、エレノアも何度か足を踏み入れたことがある。


 けれど今日の空気は、以前とは違っていた。


 部屋に入る前、扉の前で家令が静かに頭を下げた。中の席はすでに整えられているという。飲み物も、記録用の紙も、必要な書類も、父が連れてきた者と先方の家令によって用意されていた。


 エレノアは思わず、確認すべきことを探しそうになった。


 席順はこれでよいのだろうか。飲み物は先方の好みに合っているだろうか。記録を取る者は、どこまで書くのだろうか。今日の話の順番は、誰が決めるのだろうか。


 いつものように頭の中で項目が並びかけたとき、母がそっとエレノアの名を呼んだ。


「エレノア」


「はい」


「今日は、あなたが整える場ではありません」


 静かな一言だった。


 エレノアは、胸の奥で息を止めた。


「あなたは、話すべき時に話せばいいの」


 その言葉に、父も頷いた。


「進行はこちらで引き受ける。お前は、席につきなさい」


 席につきなさい。


 それは、当たり前の言葉のようでいて、エレノアには少し不思議に響いた。


 今まで、席につく前に整えることばかり考えていた。誰かが困らないように、場が止まらないように、空気が悪くならないように。けれど今日は、整え終えた場に、自分が入る。


 自分のためにも用意された席に、座る。


 扉が開いた。


 部屋の中には、すでにアルフレッドと彼の両親がいた。アルフレッドは立ち上がり、硬い表情でエレノアたちに礼をする。以前よりも少し痩せたように見えたのは、光のせいだけではないのかもしれない。


 彼は逃げずに来ている。


 そのことを、エレノアは静かに受け止めた。


 だからといって、何かが元に戻るわけではない。それでも、正式に申し入れた場に彼自身が立っていることだけは、見なかったことにしないでおこうと思った。


 挨拶が交わされ、それぞれが席につく。


 エレノアに用意されていたのは、アルフレッドの隣ではなかった。


 向かい側だった。


 その席を見た瞬間、胸の中で何かが静かに形を変えた。


 以前なら、アルフレッドの隣に座ることが自然だった。少し後ろで彼を支えるように、彼が言葉に詰まればすぐに補えるように、必要な資料を差し出せる距離にいることが、自分の居場所だと思っていた。


 けれど今日は違う。


 今日は、彼の隣に座るための席ではなかった。


 彼と向き合うための席だった。


 エレノアはその席に腰を下ろした。背筋を伸ばし、膝の上に手を重ねる。手帳は小さく閉じたまま、手の届くところに置いた。


 アルフレッドの視線が、一瞬そこへ落ちたような気がした。


 けれど、エレノアは手帳を隠さなかった。


 これは見せるためのものではない。けれど、隠すものでもない。


 自分が今日、ここに持ってきた言葉だった。


 父が場を進めるため、静かに口を開いた。


「本日は、婚約について正式に話し合うための場として、双方が同席しております。まず、先方より申し入れをいただいた経緯を確認したうえで、それぞれの考えを伺いたい」


 その声は落ち着いていた。


 エレノアは、その声を聞きながら、自分が進行の言葉を考えなくてよいことを改めて知った。


 誰が最初に話すのか。どこまでを記録に残すのか。言葉が途切れたときにどうつなぐのか。


 それを、今日は自分が決めなくていい。


 父の言葉のあと、先方の父が短く応じた。形式的な挨拶が続き、場は静かに整っていく。その間、アルフレッドは一度も目をそらさず、膝の上で組んだ手を固く握っていた。


 やがて、彼がゆっくりと息を吸った。


「まず、謝らせてほしい」


 その声は、以前よりも少し低く聞こえた。


 アルフレッドの母が、膝の上の扇を静かに握り直す。


 エレノアは、胸の奥が反射的に動くのを感じた。


 謝罪を受け取らなければ。

 相手が言いやすいように、うなずかなければ。

 場が重くなりすぎないように、少し柔らかく受け止めなければ。


 そんな考えが、あまりにも自然に浮かんできた。


 けれど、その瞬間、手帳に挟んだ紙の感触を思い出す。


 謝られれば、許すかどうかを考えなければならなくなる。けれど、今日はその前に、伝えたいことがあった。


 今日は、謝罪を受け止める役に戻るために来たのではない。


 エレノアは、膝の上の手を一度だけ握り直した。


 そして、静かに顔を上げる。


「アルフレッド様」


 呼びかけると、アルフレッドがはっとしたようにこちらを見た。


 エレノアの声は震えていなかった。少なくとも、自分で思っていたほどには。


「その前に、わたくしからお話ししてもよろしいでしょうか」


 部屋の空気が、わずかに動いた。


 アルフレッドは一瞬、言葉を失ったようだった。


 エレノアは彼の表情を見つめる。


 責めるためではない。遮るためだけでもない。


 ただ、最初に受け止める側へ戻らないために。


 自分の言葉を、自分の順番で置くために。


 アルフレッドは、しばらくしてから小さく頷いた。


「……ああ。聞かせてほしい」


 その返事を聞いて、エレノアは手帳には触れずに息を吸った。


 紙はそこにある。


 けれど、今ここで顔を上げて話すのは、自分だ。


 父も母も、何も言わなかった。先方の両親もまた、静かにエレノアを見ている。


 エレノアは、アルフレッドの向かい側の席で、まっすぐに座った。


 隣ではない。


 少し後ろでもない。


 向かい合う席に。


「わたくしは」


 そう口にした瞬間、胸の奥で昨日の紙の文字が静かに開く。


 戻らないための言葉。


 責めるためではなく、自分を見失わないための言葉。


 エレノアは、ゆっくりと言った。


「わたくしは、婚約者として隣にいたかったのです」


 アルフレッドの指が、わずかに動いた。


 エレノアはその反応を見ても、もう言葉を戻さなかった。


 向き合う席で、自分の最初の言葉を置いた。

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