委員長本人へ
副委員長のマーカス様が保留書類の束を抱えて部屋を出ていったあと、図書塔の小部屋には一度だけ、不思議な静けさが落ちた。
いつもなら、ここで私は立ち上がっていただろう。
待ってください、と。
その書類なら私がもう一度見ますから、と。
そう言って、結局また自分の机へ引き戻していたはずだ。
けれど今、私の手元にあるのは記録帳と、自分の判断で進められる書類だけだ。
窓から差し込む午前の光は変わらず白く、古い紙の匂いも昨日と同じなのに、胸の内側にある緊張だけが少し違っている。
止まるべきものが止まった。
その事実を、私はまだうまく飲み込めないでいるのかもしれない。
「ずいぶん静かだな」
帳簿を脇に抱えたまま、ユリウス様が言った。
からかうような声音ではない。ただ、本当にそう見えたものを口にしただけのようだった。
「騒がしくあるべきでしたか」
「いや。少なくとも、君が走って追いかけていくかと思っていた」
「……そう見えましたか」
「これまでの話を聞く限りでは」
私は記録帳の頁をめくりながら、少しだけ息を吐いた。
「私も、そうすると思っていました」
「しなかった」
「はい」
そこで会話は途切れた。
ユリウス様はそれ以上何も言わず、机の上の控えに軽く目を走らせる。
その視線の置き方は相変わらず静かで、勝手に慰めたり、褒めたりはしない。
それがありがたかった。
「記録係殿は今、記録係の仕事をしている。何か問題でも?」
開いたままの扉の向こうで、使いの下級生が「え」と戸惑った声を漏らす。
どうやら別件で私を呼びにきたらしい。
ユリウス様はその子を責めるでもなく、ただ当然のようにそう言っただけだった。
「い、いえ……」
「なら、用件だけ置いていくといい」
「は、はい」
下級生は慌てて一礼し、小さな伝言を置いて去っていった。
私はその背を見送りながら、少しだけ不思議な気持ちになる。
今の言葉は、特別に私を庇ったわけではない。
ただ、私が自分の仕事を優先していることを、奇妙にも問題のないこととして扱っただけだ。
そういう人がいるのだと、まだ少し驚く。
「では、私は本当に仕事へ戻る」
「生徒会はお忙しそうですね」
「創立祭前はどこも似たようなものだ」
ユリウス様は帳簿を持ち直し、扉のところで一度だけ振り返った。
「呼ばれたからといって、必ずしも最初に駆けつける必要はない」
「……覚えておきます」
「そうするといい」
それだけ言って、彼は去っていった。
磨かれた床を踏む足音が遠ざかるのを聞きながら、私はようやく肩の力を抜く。
呼ばれたからといって、最初に駆けつける必要はない。
その言葉は私にとって、まだ少し新しすぎた。
けれど、だからこそ必要なのかもしれない。
私は記録帳に視線を戻し、今日の確認事項を書き進める。
席次変更、掲示許可待ち、搬入時刻の再確認。
どれも昨日までと同じような文面なのに、今日だけはひとつ違っている。
その先に、もう私の先回りは書かれていない。
しばらくして、図書塔の外から忙しない足音が近づいてきた。
今度は複数だ。扉の前で一度止まり、それから控えめなノックが響く。
「エレノア嬢、入ってもよろしいですか」
マーカス様の声だった。
私はペンを置き、「どうぞ」と返す。
入ってきたマーカス様の表情は、先ほど部屋を出ていったときとは明らかに違っていた。
困惑の色はまだある。けれど、その上に薄く疲労が重なっている。
そして、その後ろに立っていたのは、アルフレッド様だった。
整った制服姿はいつも通りで、乱れもほとんどない。
ただ、朝から病人の見舞いに付き添っていたと言うには、どこか場違いなほど普段通りの顔をしていた。
その普段通りさが、今は妙に遠く見える。
「エレノア」
彼は私の姿を見つけると、ほっとしたように息をついた。
その顔を見て、私は胸の奥が冷えるでも熱くなるでもなく、ただ静かになるのを感じた。
「話は聞いたよ。どうしてこんなことに?」
その一言に、マーカス様がわずかに視線を伏せる。
どうして。
たぶん彼は本気で、突然こうなったと思っているのだろう。
「委員長確認が必要な書類でしたので、保留にしました」
私は椅子から立ち上がらずに答えた。
アルフレッド様は一瞬、言葉を失ったように見える。
「保留に?」
「はい」
「だが、君なら内容は分かっているだろう。急ぎのものだけでも、君が見てくれれば済む話じゃないか」
そこまでは、まだ予想していた。
けれど次の言葉は、思っていたよりもずっと滑らかに出てきた。
「今までは、いつもそうしてくれていただろう」
その一言で、部屋の空気が変わった。
あまりにも自然だったからだ。
頼みごとですらなく、ただ、そういうものだと思っている人の声音だったから。
以前の私なら、その自然さに逆らえなかっただろう。
でも今は、それを当然として受け取ることのほうが、ずっと苦しいと知っている。
「私の判断で進められるものではありません」
短く言うと、アルフレッド様の眉がわずかに寄った。
「エレノア」
「本来、委員長ご自身が確認されるべきものでした」
私の声は思いがけないほど落ち着いていた。
怒っているようにも、責めているようにも聞こえないだろう。ただ事実を述べているだけだ。
けれどその事実が、彼にはむしろ聞き慣れなかったのかもしれない。
「今までは、君が先に整えてくれていただろう」
「整えていただけです」
その言葉が部屋の中へ落ちる。
静かなのに、やけに重い。
「埋めてもよいものだったわけではありません」
アルフレッド様はそこで初めて、はっきりと困ったような顔をした。
たぶん彼にとって、私がこういう返し方をするのは初めてなのだ。
「しかし、今日はもう時間がない。正午までに掲示が出なければ、来賓の案内が――」
「ですから、ご確認をお願いしております」
横から口を挟んだのはマーカス様だった。
その声音もまた、昨日までとは違っていた。
遠慮がなくなったわけではない。けれど、もう“エレノア嬢が何とかする前提”の揺らぎ方ではない。
「今までは、エレノア嬢が先に整えてくださっていただけです。本来は、委員長ご自身が確認されるべきものでした」
アルフレッド様がマーカス様を見る。
その視線には驚きが混じっていた。
おそらく彼は、私だけでなく周囲までが同じ認識でいるとは思っていなかったのだろう。
「……そう、か」
短い返事。
けれど、その言い方にはまだ納得というより戸惑いが多く含まれていた。
「午後には戻るつもりだったんだ。リディアの熱も少し落ち着いてきたから、もう少し様子を見てから――」
「午後では間に合わないものがあります」
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
アルフレッド様がこちらを向く。
その視線をまっすぐ受け止めたまま、私は続ける。
「席次の最終掲示は正午までです。閲覧制限区域の案内も、遅れれば来賓導線に影響します。確認が必要でしたので、保留にしました」
事実を並べただけだ。
それなのに、彼の顔には少しずつ理解しきれないものを見るような色が差していく。
たぶん今、彼の中で初めて、私が単に機嫌を損ねているのではないと分かり始めている。
機嫌ではなく、これまで彼の不在の下へ沈んでいたものが、ようやく表へ出てきただけなのだと。
「エレノア」
もう一度、彼は私の名前を呼んだ。
今度は少しだけ低く、困ったように。
「すぐに確認する。だから君も――」
「私の担当を片づけてから伺います。それで差し支えないでしょうか」
その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かがきれいに切り替わる音がした。
アルフレッド様が、はっきりと目を見開く。
今までは、私がこういう言い方をしたことがなかったからだろう。
「……今?」
「はい。記録が残っておりますので」
呼ばれても、すぐには向かわなかった。
たったそれだけのことが、私にはひどく新しい。
沈黙が落ちる。
部屋の中の誰も、その沈黙を埋めなかった。
昨日までなら、私自身が真っ先に埋めていたはずなのに。
その数秒が、とても長く感じられた。
「分かった」
先に目を逸らしたのは、アルフレッド様のほうだった。
それだけのことなのに、胸の奥へ入り込む空気がほんの少しやわらかい。
私は椅子から立ち上がり、一礼する。
「失礼いたします。終わりましたら伺います」
その言葉を口にしたとき、マーカス様がわずかに息をのむのが分かった。
今までなら私は、終わってからではなく、何を置いてもすぐに動いていたから。
けれど今日は違う。
アルフレッド様は何か言いたげにしたものの、結局何も返さなかった。
私が小部屋を出るとき、彼の視線だけが背中に残る。
廊下へ出ると、図書塔の空気は少しひんやりしていた。
窓から差し込む光はまだ白く、階下では誰かが急ぎ足で石床を渡っていく音がする。
私はそれを聞きながら、自分の持っていた記録帳を抱え直した。
自分の仕事を先に終える。
自分の時間を、彼のためにすぐ明け渡さない。
そんな当たり前のことが、私にはずっと難しかったのだと、今さらのように知る。
それでも今は、少しだけできる。
そのことが、胸の奥を静かに軽くする。
小部屋へ戻る途中、踊り場の窓から中庭が見えた。
花壇のそばを下級生たちが慌ただしく行き来している。布、花、木箱、掲示板。どこも創立祭前らしい忙しさに満ちていて、その中の一つとして私もまだ動いている。
ただ一つ違うのは、もう空席のぶんまで私が埋めていないことだ。
小部屋に戻ると、机の上にはさっきまでと同じように書類が置かれていた。
何も変わっていないように見えるのに、私の呼吸だけが少し深い。
私は記録帳を開き、今日の欄へ短く書き添える。
委員長、本人確認中。
保留案件、返却済。
その文字を見つめていると、胸の奥に小さな波がひとつ立ち、すぐに静まった。
返したのだ。
ようやく、本来あるべき場所へ。
一方そのころ、図書塔の外では、アルフレッド様がまだしばらくその場に立ち尽くしていた。
私がすぐに来ないことも、事実で返したことも、終わりましたら伺いますとだけ言って去ったことも、どれも彼にとっては少しずつ見慣れない。
「……エレノア?」
遅れてこぼれたその小さな声は、けれどもう以前のようには、私をすぐ振り向かせない。
その違和感の正体を、彼はまだ知らない。




