止まるべきもの
翌朝の図書塔は、昨日よりも少しだけ静かに思えた。
窓の外には、やわらかな春の光が広がっている。高窓から差し込む白い光は、古い背表紙の上を滑り、机の木目を淡く照らしていた。いつもと同じ朝のはずなのに、目の前の景色がほんのわずか違って見える。
たぶん、それは私のほうが変わったからだ。
小部屋の机の上には、昨夜のまま二つに分けて置いた書類の束がある。
ひとつは、私の判断だけで今日中に進められるもの。
もうひとつは、委員長確認未了のため保留にしたもの。
私は椅子へ腰を下ろし、その厚いほうの束をしばらく見つめた。
やろうと思えば、できる。
申請の文言を整え、確認印をもらいやすい形へ並べ替えて、先方へひとまず曖昧な返答をしておけば、今日一日くらいなら何事もなく過ぎるかもしれない。
――五分で済む。
そう思った瞬間、自分で自分の癖に気づく。
足りないところを埋めること。
止まりそうなものを先に動かしてしまうこと。
誰かが困る前に、困らない形へ整えておくこと。
それは私が得意としてきたことで、同時に、ずっと私を縛ってきたものでもあった。
「……これは、私の仕事ではないわ」
誰もいない小部屋で、私は小さく口にする。
声にしてしまうと、それは少しだけ現実になる。
指先が、一番上の申請書へ伸びかけて止まった。
私は代わりに、もう一方の束――自分の権限で進められる書類のほうを手元へ引き寄せる。
できることはやる。
けれど、本来私が担うべきでないものまで、今日からは抱えない。
たったそれだけのことなのに、胸の奥で張りつめていたものが、昨夜より少しだけ緩んだ気がした。
扉を叩く音がして、私は顔を上げる。
「エレノア嬢、いらっしゃいますか」
副委員長のマーカス様だった。
昨日と同じく整った制服姿だが、今朝はどこか落ち着かない表情をしている。
「どうぞ」
「失礼します」
彼は一礼して部屋へ入り、机上の書類へ視線を向けた。
その目が、保留にした厚い束でぴたりと止まる。
「これは……?」
私が答える前に、マーカス様は一番上の紙へ視線を走らせ、その右上に記した文字を読んだらしい。
表情が、わずかに固くなった。
「エレノア嬢、これ……全部、委員長確認が必要な書類だったのですか?」
「はい。本来は、昨日の時点で確認をいただくはずのものでした」
マーカス様は保留の束をあらためて見下ろす。
展示搬入申請。
来賓席の最終変更届。
閲覧制限区域の掲示許可願い。
実行委員名簿の更新版。
どれも今日のうちに動かなければ、あとで困るものばかりだ。
「こんなに……」
思わずこぼれたようなその声に、私は返す言葉を持たなかった。
こんなに、なのだ。
それを私は、昨日まではひとつずつ静かに抱えてきた。
「いままで、これらは……」
「委員長の確認をいただいてから進めるべきものでした」
「ですが、実際には滞っていなかったでしょう」
「……ええ」
私は嘘をつけず、静かにうなずく。
「私が、先に整えていたので」
その言葉で、部屋の空気が少しだけ変わった。
マーカス様の表情は、責めるでもなく、ただ戸惑っている。
けれどその戸惑いは、ようやく目の前に置かれた事実の重みを測りかねている人の顔だった。
「今まで……こういうものを、すべてあなたが?」
その問いに、私は少しだけ視線を落とす。
「すべてではありません。けれど、止まれば皆さんが困ると思って、私にできる範囲で先に整えていました」
マーカス様は何か言いかけて、言葉を失った。
その沈黙のあいだに、廊下からばたばたと足音が近づいてくる。
「エレノア様! マーカス様もこちらでしたか」
実行委員の下級生が、半ば駆け込むように入ってきた。
頬を紅潮させ、手には来賓用の席次一覧を持っている。
「南列の席順なんですが、昨夜の変更版で通すのか、さらに侯爵家側の意向を待つのかで案内係が止まっていて……。正午までに掲示を出せないと、来賓導線の案内が間に合いません」
その一言で、部屋の空気がほんの少し張りつめた。
今までは、こういうときこそ私がすぐ答えていた。
止まる前に、止まらない形へ整えて。
「それは委員長確認待ちです」
言ってから、私は意識して声をやわらげた。
「私の判断では確定できません。案内係には、現行配置のまま待機と伝えてください」
「で、ですが、正午までに掲示が――」
「私の判断で進められる部分は対応します。けれど、委員長確認が必要なものまでは進められません」
下級生は困ったように私とマーカス様を交互に見た。
たぶん、彼に悪意はない。ただ、今までなら私がここで決めていたから、今日もそうしてくれると思っているだけだ。
私は記録帳の横に置いた控えへ目を落としながら続けた。
「案内係の配置そのものは、先に調整しておきます。席次だけは現行のままで待ってください」
「……はい」
下級生はようやくうなずき、急ぎ足で出ていった。
扉が閉まる音を聞きながら、マーカス様が低く息をつく。
「今まで、あなたはこういうものを……」
「埋めていただけです」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
「埋めてもよいものだったわけではありません」
その言葉に、マーカス様ははっとしたように口を閉ざす。
重い沈黙が落ちる。けれど私は、もうその沈黙まで埋めようとは思わなかった。
そのとき、廊下の向こうから別の声が聞こえた。
「生徒会の確認書類です。記録係殿はいるか」
この声音はもう覚えてしまっている。
私はわずかに顔を上げた。マーカス様も気づいたらしく、扉のほうを見る。
入ってきたのは、やはりユリウス様だった。
今朝は昨日よりも事務的な顔をしていて、腕には数冊の帳簿と巻いた掲示紙を抱えている。その視線が机上の束を認め、保留の文字を読んだところで、ほんのわずかに片眉が上がった。
「思ったより早かったな」
「何がですか」
「空席が空席として見え始めるのが」
さらりと言われて、マーカス様が居心地悪そうに咳払いをする。
ユリウス様はそれ以上責めることはせず、机へ歩み寄って書類を一枚手に取った。
「閲覧制限区域の掲示、まだ通っていないのか」
「委員長確認未了のため保留にしています」
「妥当だ」
あまりにも迷いなく言われて、私は思わず彼を見た。
「ですが、正午までに掲示が出せなければ、来賓導線の案内が間に合いません」
「それでもだ」
ユリウス様は書類を机へ戻し、淡々と言った。
「困るのは手順が増えたからじゃない。今まで、誰か一人に手順を肩代わりさせていたからだ」
その一言だけで、部屋の空気が変わった。
誰も反論しない。
反論できない、のほうが近いかもしれない。
急に何かが増えたわけではなく、ずっとあったものがようやく元の場所へ戻っただけだと、その場にいる誰もが分かってしまったから。
「生徒会としては、責任者確認が済み次第すぐに処理する。だが未了のままでは動かせない」
ユリウス様はそれだけ言って帳簿を閉じる。
彼は私を庇うような視線を向けない。ただ、誰のためでもなく、事実としてそこにある線を引いてみせた。
また廊下に足音が近づいてきた。
今度は使いの生徒で、手には小さな封筒を持っている。
「エレノア様に、お届けものです」
「ありがとう」
受け取った瞬間、封蝋を見なくても誰からのものか分かった。
私はその場で開き、中の便箋へ目を通す。
丁寧な筆跡は、今日も変わらず整っていた。
――今朝もリディアの熱が下がらず、そばについています。君なら滞りなく進めてくれると思っていたが、やはり任せきりでは心苦しい。午後には顔を出せるかもしれない。そのときに確認が必要なものがあれば見るので、どうか頼む。
読み終えたあと、私は便箋を折りたたんだ。
昨日までなら、この文面に少しは迷っただろうか。
心苦しいと言ってくださっている。
午後にはいらっしゃるかもしれない。
だから、もう少しだけ待とうと。
けれど今は、そのどれも胸を揺らさなかった。
ただ、あまりにも自然に「君なら滞りなく進めてくれる」と書かれていることが、ひどく遠く感じられた。
「アルフレッド様からですか」
マーカス様が慎重にたずねる。
私はうなずき、封筒ごと机の上へ置いた。
「ええ。午後にはお見えになるかもしれないそうです」
「かもしれない……」
「そうお考えなのでしょうね」
自分でも驚くほど静かな声だった。
そこでようやく、マーカス様の顔に昨日までとは違う種類の影が差す。
同情ではなく、事情を理解しはじめた人の表情だ。
「今日中に確認が必要なものもあります」
「はい」
「午後では間に合わないものも」
「はい」
短いやり取りなのに、何かが決定的に変わった気がした。
マーカス様の視線が、私ではなく、会議室の奥に置かれた空の委員長席へ向かう。
その席は昨日までと同じように、朝からずっと誰も座っていない。
なのに今日は、そこだけが妙に輪郭を持って見えた。
「……では」
マーカス様が息を整え、保留の束を持ち上げる。
「委員長本人に、今すぐ確認を取りに行きます」
その一言で、部屋の空気が静かに定まった。
いつもなら、私が埋めて終わらせていたところへ。
ようやく、本来向かうべき手が伸びる。
私は何も言わず、その様子を見ていた。
ユリウス様もまた、口を挟まない。
保留の束を抱えたマーカス様が部屋を出ていく。
私はもう、その背を呼び止めなかった。
それだけのことなのに、胸の奥へ吸い込む息が、昨日より少し深い。
廊下の向こうで、誰かが「あの席……」と小さくこぼすのが聞こえた。
振り向かなくても分かる。きっと、委員長席を見ているのだろう。
空いていたのだ。
最初から、ずっと。
私は記録帳を開き、今日の日付の欄へ静かにペンを置く。
委員長確認未了書類につき、副委員長が本人確認へ向かう。
その一文を書き留めたところで、胸の奥に小さな波がひとつ立って、すぐに静まった。
何かが崩れたのではない。
ようやく、止まるべきものが止まっただけなのかもしれない。




