待っていた言葉
翌朝、エレノアは机の上で予定表を開いた。
今日の授業。
午後の提出物。
図書室へ返す本。
家へ送る確認の手紙。
そこまで書き込んで、ペン先が止まる。
もう、アルフレッドの予定を書き足すことはない。
その余白を見ても、以前ほど不安にはならなかった。
けれど今日は、その余白に別の言葉が静かに落ちてきた。
また、用件のない時間に歩きましょう。
昨日のアレクシスの声だった。
エレノアは、ペンを持ったまましばらく動けなくなる。
用件がないのなら、いつ会うのだろう。
そう考えた瞬間、自分で少し驚いた。
会う理由がない。
話すべきこともない。
頼まれたことも、確認することもない。
それなのに、昨日の「また」を思い出している。
約束、だったのだろうか。
それとも、ただの挨拶だったのだろうか。
そこまで考えて、エレノアはペンを置いた。
用件がないのに誰かの言葉を待つなど、自分らしくないと思った。
けれど、自分らしいとは何だろう。
そう思うと、すぐには答えが出なかった。
学園へ向かう頃には、朝の淡い戸惑いは少し落ち着いていた。
授業の準備をし、提出物を確認し、いつものように一日を進める。
以前と違うのは、そこに誰かの予定確認が混ざっていないことだった。
午前の授業が終わり、エレノアは図書室へ向かった。
借りていた本を一冊返すだけ。
それだけの用件だった。
図書室の手前の回廊で、アレクシスの姿を見つけた。
彼は教師らしき男性と話していた。
手には数冊の資料を持ち、相手の説明に静かに耳を傾けている。
エレノアは一歩だけ足を止めた。
アレクシスも、こちらに気づいた。
彼は話を遮ることなく、ただ静かに会釈をした。
呼び止めるでもなく、急かすでもない。
気づいていると伝えるだけの礼だった。
エレノアも礼を返す。
今なら、声をかけてもよいのだろうか。
けれど、何を言えばよいのだろう。
昨日は、ありがとうございました。
それはもう言った。
また、歩きましょう。
それは、まだ言えない。
声をかける理由を探す癖が、また出ていた。
用件がなければ近づいてはいけないと、まだどこかで思っている。
エレノアは、静かに図書室へ入った。
返却台へ本を置き、司書に礼をする。
それだけのことが終わってしまうと、図書室に残る理由はなくなった。
けれど、すぐに出ることもできず、エレノアは書架の前で一冊の背表紙に目を向けた。
読もうと思ったわけではない。
ただ、少しだけ時間を置きたかった。
自分が何を待っているのか、まだ分からなかったから。
午後、教室へ戻ると、机の上に封書が置かれていた。
白い封筒。
差出人の名を見て、エレノアは息を止めた。
アルフレッド。
その名を見た瞬間、胸の奥に昨日までとは違う緊張が走る。
曖昧な呼び出しではない。
廊下での立ち話でもない。
人づての伝言でもない。
封をした手紙だった。
エレノアは席に座り、丁寧に封を開ける。
中の便箋には、短く整った文字が並んでいた。
⸻
エレノア嬢
先日の件を受け、婚約について正式に話し合う場を設けたいと考えています。
両家の立会いのもと、互いの今後について確認する時間をいただけないでしょうか。
日時および場所については、貴家のご都合を伺ったうえで調整いたします。
アルフレッド
⸻
エレノアは、手紙を読み終えて、しばらく便箋を見つめた。
短い文面だった。
言い訳はない。
感情をぶつける言葉もない。
君なら分かってくれる、という甘えもない。
ただ、婚約について正式に話し合いたいという申し入れが書かれている。
以前なら、この手紙を受け取った瞬間に、日時と場所と出席者を整えていただろう。
アルフレッドが何を言いやすいか。
両家の空気が悪くならないよう、どの順番で話を進めるべきか。
彼が謝りやすく、こちらが受け止めやすい形にするにはどうすればよいか。
そこまで考えて、手を止める。
違う。
これは、彼のために整える話ではない。
自分が向き合う話だ。
エレノアは便箋を閉じなかった。
もう一度、最初から読む。
婚約について正式に話し合う場。
その言葉が、胸の奥に重く落ちる。
怖くないわけではない。
その場で何を言われるのか。
両家がどう受け止めるのか。
自分の言葉が、どこまで届くのか。
考えれば、不安はいくつも浮かぶ。
けれど同時に、どこかで待っていたのかもしれないと思った。
曖昧なままではなく、
誰かの不在や沈黙で先延ばしにするのではなく、
きちんと言葉にすることを。
これは、戻るための手紙ではない。
終わらせるためだけの手紙でもない。
曖昧だったものに、名前をつけるための手紙だ。
エレノアは、静かに息を吐いた。
そして、新しい便箋を取り出す。
最初に書きかけたのは、いつものように整った事務的な返事だった。
けれど、途中でペンを止める。
これは記録ではない。
代理の文でもない。
調整のための覚え書きでもない。
自分の婚約についての返事だった。
エレノアは、もう一度ペンを持ち直した。
⸻
アルフレッド様
お申し入れ、承知いたしました。
婚約について、正式な場でお話しできればと存じます。
日時につきましては、家の者とも確認のうえ、改めてお返事いたします。
その場では、わたくし自身の考えもお伝えいたします。
エレノア
⸻
書き終えて、エレノアは最後の一文を見つめた。
その場では、わたくし自身の考えもお伝えいたします。
怖くないわけではない。
けれど、書き直そうとは思わなかった。
その一文を書いたあと、エレノアはもうペンを止めなかった。
書き直すべき言葉ではないと思った。
代わりに整える言葉ではない。
自分が向き合うための言葉だった。
放課後、エレノアは家へ送る手紙を整えたあと、再び図書室へ向かった。
読みたい本があったわけではない。
ただ、静かな場所で少しだけ考えたかった。
図書室の扉を開けると、夕方の光が書架の間に落ちていた。
人は少ない。
エレノアが窓際の席へ向かおうとしたとき、奥の書架から声がした。
「エレノア嬢」
振り向くと、アレクシスが数冊の本を抱えて立っていた。
「アレクシス様」
「また、お会いしましたね」
また。
その一言に、エレノアの胸が小さく跳ねる。
けれど、彼の声はいつも通り穏やかだった。
「今日は、調べ物ですか」
「……はい。少し、静かな場所にいたくて」
答えてから、エレノアは少しだけ目を伏せた。
調べ物ではない。
けれど、嘘をついたわけでもない。
アレクシスは本を抱えたまま、少しこちらを見る。
「何か、言葉を選んでいらっしゃるように見えます」
「分かるのですか」
「分かる、というより」
アレクシスは、少し考えてから言った。
「今朝お見かけしたときより、足を止める回数が多かったので」
エレノアは思わず瞬きをした。
「見ていらしたのですか」
「目に入りました。ただ、呼び止める理由が見つからなかったので」
その言葉に、エレノアは小さく息を呑んだ。
呼び止める理由。
それは、自分も探していたものだった。
「わたくしも、同じでした」
「同じ?」
「声をかける理由を、探していました」
言ってから、胸が少し熱くなる。
こんなことを言うつもりではなかった。
けれど、言葉はもう出ていた。
アレクシスは驚いたように目を細め、それから静かに頷く。
「そうでしたか」
それだけだった。
急に距離を詰めることもない。
からかうこともない。
ただ、その言葉を受け取る。
だから、エレノアは次の言葉を出せた。
「今日、正式な話し合いの申し入れがありました」
アレクシスの表情がわずかに引き締まる。
「アルフレッド殿から、ですか」
「はい。婚約について、両家立会いのもとで」
「そうですか」
アレクシスは短く答えた。
その声に、余計な感情は乗っていなかった。
心配も、詮索も、焦りも。
ただ、受け止める声だった。
「返事は、なさったのですか」
「はい。家の者とも確認したうえで、正式な場で話し合いたいと」
「ご自分の言葉で?」
エレノアは目を上げた。
アレクシスは真剣な顔でこちらを見ていた。
その問いは、責めるものではない。
ただ、確かめるためのものだった。
「はい」
エレノアは頷く。
「わたくし自身の考えも伝えると、書きました」
「そうですか」
アレクシスの目元が、ほんの少し和らいだ。
「それは、大切な一文ですね」
その言葉に、エレノアの胸の奥がほどける。
あの一文を書いたことを、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
相談、というほどではない。
助言を求めていたわけでもない。
けれど、言葉にしておきたかった。
「相談、というほどではありません」
エレノアは言った。
「ただ……言葉にしておきたかったのだと思います」
「はい」
アレクシスは頷いた。
「そういうことも、あると思います」
図書室の空気は静かだった。
遠くで司書が本を閉じる音がする。
夕方の光が、窓際の机に薄く伸びていた。
「必要なら、私は待ちます」
アレクシスが言った。
エレノアは、その言葉をすぐには受け取れなかった。
「待つ、ですか」
「はい。あなたが話せると思ったときに、話してくださればいい」
「今すぐ、何かを聞こうとはなさらないのですか」
思わず尋ねていた。
アレクシスは少しだけ視線を伏せる。
「聞きたいことがないわけではありません」
その答えに、エレノアの胸が小さく揺れた。
「けれど、私が知りたいことより、あなたが言葉にできる時を大切にしたい」
静かな声だった。
けれど、その言葉はまっすぐに届いた。
待つ。
その言葉を、エレノアは長い間、あまり好きではなかった。
待つということは、誰かの都合に合わせることだった。
いつ来るか分からない人を待つ。
いつ終わるか分からない不在を待つ。
いつか自分に向き合ってくれるはずだと、何も言われないまま待つ。
待たされることに、慣れていた。
けれど、アレクシスの言う「待つ」は違った。
彼は、エレノアを置き去りにするために待つのではない。
エレノアの言葉が整うまで、急かさずにいると言っている。
待たされることと、待ってもらうことは違うのだと思った。
「……ありがとうございます」
エレノアは言った。
「その違いを、まだうまく言葉にはできませんが」
「今は、それで十分ではないでしょうか」
アレクシスは穏やかに言う。
「言葉にならないものまで、急いで形にしなくても」
エレノアは小さく頷いた。
胸の奥が、少しだけ静かになっていた。
婚約についての話し合いは、これからだ。
怖さが消えたわけではない。
けれど、今はそれだけではなかった。
自分の言葉で返事を書いたこと。
それを誰かに伝えられたこと。
待つと言われて、急かされなかったこと。
その一つひとつが、エレノアの中で小さく支えになっていた。
アレクシスは、抱えていた本を片手に持ち直した。
「では、また」
その言葉に、エレノアは顔を上げる。
「また、用件のない時間に」
昨日と同じようで、少し違う声だった。
エレノアは、胸の奥でその言葉を受け止める。
朝からずっと、その言葉をどこかで探していた。
用件がないのに。
約束かどうかも分からないのに。
それでも。
今日は、その言葉を待っていたのだと、ようやく気づいた。
「……はい」
エレノアは、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「また」
言葉にしてから、胸が少しだけ温かくなる。
会いたい、という言葉にはまだ届かない。
けれど、また会えると思えることが、こんなに静かにうれしいのだと知った。




