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用件の無い時間

 中庭とは反対側の回廊は、アレクシスの言った通り、人の姿が少なかった。


 昼休みの終わりが近いせいか、遠くの教室のほうからは生徒たちの声が聞こえる。


 けれど、この回廊だけは少し静かだった。


 窓から差し込む午後の光が、床の上に細く伸びている。


 エレノアは、アレクシスの隣を歩いていた。


 並びすぎず、離れすぎず。


 先ほどまでリリアと向かい合っていたせいか、肩にはまだ少し力が残っている。


 リリアの「お強いのですね」という声が、まだ胸の奥に残っていた。


 強いからではない。


 戻りそうになりながら、戻らないようにしているだけだ。


 そう思っても、その言葉はすぐには消えなかった。


 けれど、急いで何かを話さなければならないわけではない。


 そう思っているのに、エレノアはつい言葉を探してしまう。


 歩きながら沈黙が落ちると、どこか落ち着かない。


 今は何か話すべきだろうか。

 先ほどのことを説明したほうがよいだろうか。

 アレクシスが気を遣って声をかけてくれたのだから、こちらも何か返すべきではないだろうか。


 そんな考えが浮かんだとき、アレクシスが静かに口を開いた。


「何か話さなければ、と思わなくて大丈夫です」


 エレノアは思わず足を止めかけた。


「……顔に出ていましたか」


「少しだけ」


 アレクシスは穏やかに答える。


「けれど、今は無理に整える時間ではないと思いました」


 整える。


 その言葉に、エレノアは小さく息を呑んだ。


 沈黙は、これまでエレノアにとって埋めるものだった。


 誰かが気まずくならないように。

 相手が困らないように。

 会話が止まった責任が、自分に向かないように。


 けれど、今の沈黙は責めてこない。


 アレクシスは、何かを期待している顔ではなかった。


 ただ、エレノアが隣で歩く速さに合わせている。


 速すぎず、遅すぎず。


 それが、合わせられているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


「……沈黙が、少し苦手なのかもしれません」


 エレノアは言った。


「何か言わなければ、と思ってしまいます」


「それは、悪いことではないと思います」


 アレクシスは歩く速度を変えずに言う。


「相手を気遣えるということでもありますから」


「でも、気遣いと、先回りの境目が分からなくなることがあります」


「それを分けようとしているから、今は疲れるのでしょう」


 アレクシスの声は静かだった。


「慣れないことをしているのですから」


 エレノアは、少しだけ笑った。


「慣れないこと、ですか」


「はい。何かを背負うことに慣れていた方が、背負わない練習をしているのですから」


 背負わない練習。


 その言い方が、どこか不思議で、けれど胸にすっと入ってきた。


 エレノアは窓の外へ視線を向ける。


 庭の木々が、風に揺れていた。


 ふと、風が回廊へ吹き込んだ。


 窓辺に置かれていた白い花の小さな花びらが一枚、ふわりと舞う。


 それはエレノアの肩先をかすめ、髪に触れた。


 エレノアが気づくより先に、アレクシスの視線が少しだけ動く。


「エレノア嬢」


「はい」


「髪に、花びらが」


 エレノアは反射的に手を伸ばした。


 けれど、どこについたのか分からない。


「こちらです」


 アレクシスはそう言って、すぐには手を伸ばさなかった。


 代わりに、ほんの少しだけ距離を取ったまま尋ねる。


「失礼しても?」


 その言葉に、エレノアは一瞬、返事を忘れた。


 触れる前に、尋ねられた。


 それだけのことだった。


 けれど、その一言に、胸の奥が静かに揺れた。


 これまで何度も、当然のように役割を置かれてきた。

 時間も、判断も、言葉も。


 けれど今、髪に触れる前に、彼は尋ねた。


「……はい」


 エレノアが小さく頷くと、アレクシスはゆっくり手を伸ばした。


 指先が髪に触れる。


 ほんのわずかな感触だった。


 花びらを取るためだけの、短い接触。


 それでも、エレノアは動けなかった。


 アレクシスはすぐに手を離し、指先にのせた白い花びらを見せる。


「こちらです」


「ありがとうございます」


 エレノアはその小さな花びらを見つめた。


 彼は、何をしたのかを隠さない。


 ただ取っただけだと、見せてくれる。


 そのことにも、少し安心している自分がいた。


「驚かせましたか」


「少しだけ」


「すみません」


「いいえ」


 エレノアは首を横に振る。


「尋ねてくださったので」


 言ってから、自分でも少し不思議だった。


 尋ねてくれた。


 それが、こんなに胸に残ることなのだと、今まで知らなかった。


 アレクシスは指先の花びらを窓辺に置いた。


「では、次からも必ず」


 何気ない声だった。


 けれど、エレノアはその言葉をすぐに受け流せなかった。


 次からも。


 それは、またこんなふうに近い距離になることがあるかもしれない、という意味にも聞こえた。


 エレノアは視線をそらし、窓の外を見る。


「……はい」


 小さく答えるのが精一杯だった。


 再び歩き出したとき、回廊の向こうに人影が見えた。


 アルフレッドだった。


 彼は数人の生徒とともに、こちらへ向かって歩いてきていた。


 手には資料らしきものを持っている。


 エレノアは一瞬だけ足を止めた。


 アルフレッドも、こちらに気づいたようだった。


 その視線が、エレノアとアレクシスの間に落ちる。


 ほんの少し前なら、エレノアはすぐに距離を取っていたかもしれない。


 誤解されないように。

 相手が不快に思わないように。

 余計な波風が立たないように。


 けれど今は、慌てて離れる必要はないと思った。


 アレクシスもまた、特に距離を詰めることも、離れることもしなかった。


 ただ、静かに立っている。


 アルフレッドは、何かを言いかけたように見えた。


 エレノア、と。


 そう呼ぶ声が、彼の喉元まで来ているように見えた。


 けれど、彼は言わなかった。


 代わりに、少しだけ頭を下げる。


「エレノア嬢。アレクシス殿」


 エレノアも、落ち着いて礼を返した。


「アルフレッド様」


 アレクシスも静かに会釈する。


「お疲れさまです」


「ああ」


 アルフレッドの返事は短かった。


 手元の資料に、彼の指がかすかに力を込める。


 それが委員長確認分なのか、別の資料なのか、エレノアには分からない。


 以前なら、資料の端に貼られた札まで見ていたかもしれない。


 けれど今は、見なかった。


 彼が困っているのなら、彼自身が言うだろう。


 そう思えたことに、自分で少し驚く。


 アルフレッドはもう一度、何かを言いたげに視線を動かした。


 けれど、結局何も言わなかった。


「では」


 短くそう言って、彼は生徒たちとともに回廊を進んでいく。


 すれ違うとき、エレノアは彼の表情を見た。


 疲れているようにも見えた。

 迷っているようにも見えた。


 以前なら、そのどちらかを確かめに行っていただろう。


 でも今、エレノアはその場に残った。


 アルフレッドの足音が遠ざかる。


 呼ばれなかった。


 そのことに、ほっとしている自分がいた。


 同時に、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。


 それは、戻りたい痛みではない。


 終わったものの輪郭を、改めて指でなぞったような痛みだった。


「大丈夫ですか」


 アレクシスが尋ねる。


 その声に、エレノアはゆっくり息を吐いた。


「はい。大丈夫です」


 言ってから、少し考える。


「呼ばれなかったことに、安心しました」


 自分で言葉にして、少し驚いた。


 けれど、嘘ではない。


「それは、悪いことではないと思います」


 アレクシスは言った。


「誰かに呼ばれない時間が、ご自分の時間になることもありますから」


 エレノアは、窓から差し込む光を見る。


 自分の時間。


 空いた朝。

 用件のない会話。

 呼ばれなかった回廊。


 それらはまだ、どこか頼りない。


 けれど、確かに自分の手元に戻ってきているものだった。


「アレクシス様は」


 エレノアは、少し迷ってから尋ねた。


「用件のない時間を、どう過ごされますか」


「私ですか」


「はい」


 アレクシスは少し考える。


「本を読むこともありますし、何も決めずに歩くこともあります」


「何も決めずに」


「はい。目的のない時間は、目的がある時間では見えないものを見せてくれることがありますから」


 目的のない時間。


 エレノアはその言葉を胸の中で繰り返す。


 これまで、自分の時間にはたいてい目的があった。


 誰かの確認。

 資料の整理。

 予定の調整。

 足りないものを補うこと。


 何も決めずに歩く時間など、ほとんど持ってこなかった。


「今日も、そうなのでしょうか」


「そうですね」


 アレクシスは小さく微笑んだ。


「少なくとも、今は急ぎの用件はありません」


 それなら、なぜ一緒に歩いているのだろう。


 問いかけそうになって、エレノアは口を閉じる。


 理由を探す癖が、また出ている。


 用件があるから歩く。

 必要があるから話す。

 役目があるからそばにいる。


 それ以外の理由を、まだうまく扱えない。


 けれど、今この時間が嫌ではなかった。


 むしろ、もう少し続いてもよいと思っている。


 そのことを、エレノアはまだ言葉にできない。


 回廊の端に近づいたところで、アレクシスが足を止めた。


「そろそろ戻りましょうか」


「はい」


 返事をしながら、エレノアは胸の奥に小さな名残惜しさを感じた。


 昨日、図書室で覚えたものと似ている。


 用件はない。


 それでも、終わるのが少し惜しい。


 アレクシスは、エレノアを急かすことなく、少しだけこちらを見る。


「また」


 その一言に、エレノアは顔を上げた。


「また、用件のない時間に歩きましょう」


 用件のない時間。


 その言葉が、胸の中でゆっくりと響いた。


 用件がないのに、また会う。

 必要がないのに、また歩く。

 役目がないのに、隣にいる。


 そんな時間があってもよいのだろうか。


 そう思ったあとで、エレノアは気づいた。


 あってもよいのかと、誰かに許しを求める必要はないのかもしれない。


 エレノアは、少しだけ息を吸う。


「……はい」


 それから、もう一度はっきりと頷いた。


「また」


 アレクシスの目元が、静かに和らいだ。


 その表情を見て、エレノアの胸の奥にも、やわらかな温かさが広がる。


 会いたい、という言葉にはまだならない。


 けれど。


 その言葉を胸の中で、もう一度だけ繰り返した。


 また。


 それだけで、今日のエレノアには十分だった。

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