あなたの言葉で
リリアからの申し出が届いたのは、翌日の昼休みのことだった。
授業を終えたエレノアが教室でノートを閉じていると、ひとりの下級生が扉のそばで遠慮がちに立っていた。
「エレノア様」
呼ばれて顔を上げる。
下級生は少し緊張した様子で、胸の前に手を重ねていた。
「リリア様が、少しお話ししたいとおっしゃっています」
その名に、エレノアの指先がわずかに止まった。
昨日、廊下で聞いた噂がよみがえる。
リリア様が、エレノア様にも一度お話ししたいとおっしゃっていたとか。
あれは、ただの噂ではなかったらしい。
「わたくしに、ですか」
「はい。もしご無理でなければ、中庭の東屋でお待ちしたいと」
下級生の声には、急かす響きはなかった。
けれど、エレノアはしばらく返事をしなかった。
リリア。
アルフレッドが何度も向かった相手。
そのたびに、エレノアが予定を組み直し、資料を整え、空席を埋めてきた相手。
もちろん、それをすべてリリアのせいにすることはできない。
彼女は体が弱い。
不安なことも多いだろう。
周囲が手を差し伸べることも、自然だったのかもしれない。
けれど、自分の中に何も残っていないわけではなかった。
胸の奥に、小さく沈んだものがある。
嫉妬と呼ぶには、少し違う。
怒りと呼ぶには、まだ形が薄い。
けれど、痛みではあった。
「分かりました」
エレノアは静かに答えた。
「昼食の後で伺います、とお伝えください」
「承知しました」
下級生はほっとしたように礼をして、教室を出ていった。
エレノアは閉じたノートの表紙に、そっと手を置く。
聞こえた言葉を、なかったことにはしない。
昨日、自分でそう思った。
ならば、会うことから逃げる必要はない。
けれど、会うことと、引き受けることは違う。
その違いだけは、忘れないようにしようと思った。
昼食の後、中庭はやわらかな光に満ちていた。
噴水の水音が遠く聞こえ、植え込みの白い花が風に揺れている。
東屋には、すでにリリアが座っていた。
淡い色のショールを肩にかけ、膝の上で細い指を重ねている。
顔色は、確かにあまりよくなかった。
言葉を待つあいだ、彼女はショールの端を小さく折っては、また戻していた。
エレノアが近づくと、リリアはゆっくり顔を上げた。
「エレノア様」
柔らかな声だった。
「お時間をいただいてしまって、ごめんなさい」
「いいえ。お加減はいかがですか」
「今日は、少し落ち着いています」
リリアは微笑む。
その微笑みは、儚げで、周囲が思わず気遣いたくなるようなものだった。
エレノアは向かいの席に腰を下ろした。
すぐに何かを言うのではなく、リリアの言葉を待つ。
以前なら、先に口を開いていたかもしれない。
ご不安なことがあるのでしょうか。
アルフレッド様にお伝えしましょうか。
何か必要なことがあれば、わたくしが確認します。
そんな言葉が、まだ自分の中に残っている。
けれど、今は待つ。
「昨日、創立祭委員会のお仕事が一区切りついたと伺いました」
リリアが言う。
「はい。最終報告まで終わりました」
「本当に、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
礼を受ける。
そこで終わるなら、穏やかな会話だった。
けれど、リリアは少し視線を落として続けた。
「これまで、アルフレッド様のことを支えてくださって、ありがとうございました」
エレノアは、わずかに瞬きをした。
支えてくださって。
その言葉は、丁寧だった。
感謝も、きっと本物なのだろう。
けれど、その中でエレノアはまた、アルフレッドを支える人として置かれていた。
婚約者として。
理解ある令嬢として。
彼の不在も迷いも、静かに整えてくれる人として。
リリアに悪意はないのかもしれない。
それでも、その言葉はエレノアの胸の奥に、小さな違和感を残した。
「わたくしがしたことは、委員会の記録と引き継ぎに関わることです」
エレノアは言った。
「アルフレッド様を支えるためだけではありません」
リリアは少し驚いたように目を上げる。
「ええ……もちろん、そうですわね。ごめんなさい。言い方が、少し足りませんでした」
彼女はすぐに謝った。
その素直さが、かえってエレノアを戸惑わせる。
強い悪意なら、線を引くのはもう少し簡単だったかもしれない。
けれど、目の前にいる少女は弱く、丁寧で、謝ることもできる。
だからこそ、自分が抱いた違和感を、なかったことにしてしまいそうになる。
「リリア様」
エレノアは、静かに名を呼んだ。
「今日は、どのようなお話でしょうか」
リリアは、膝の上の指を握った。
その指先が、またショールの端を小さく折る。
「その……アルフレッド様のことです」
やはり、とエレノアは思った。
胸の奥がわずかに固くなる。
「最近、アルフレッド様が少しお疲れのようで」
リリアは視線を伏せたまま続ける。
「以前よりも、お見舞いに来てくださる回数も減りました。お話ししていても、どこか考え込んでいらっしゃるようで」
風が東屋の柱を抜けていく。
リリアのショールの端が、小さく揺れた。
「わたくしが、何かご負担をかけてしまったのかもしれません」
その声は不安げだった。
守ってあげなければならないもののように聞こえる。
エレノアの中に、古い癖が顔を出す。
では、わたくしからアルフレッド様に確認しましょうか。
最近お疲れのようですから、少し予定を整えましょうか。
リリア様にご心配をかけないよう、お伝えしておきます。
その言葉は、あまりにも自然に浮かんできた。
自分でも驚くほどに。
エレノアは、膝の上の手にそっと力を込めた。
それは、わたくしが埋める空白ではない。
「エレノア様なら、アルフレッド様のお考えもお分かりになるかと思って」
リリアが言う。
「婚約者でいらっしゃいますし……これまで、ずっとおそばで支えてこられたので」
その言葉に、エレノアは息を吸った。
戻りそうになる。
本当に、戻りそうになる。
誰かが不安そうにしている。
誰かが困っている。
自分なら、何かできるかもしれない。
そう思った瞬間、かつての役割はすぐ近くに口を開ける。
けれど、そこへ戻らないと決めた。
「リリア様」
エレノアは、できるだけ穏やかに言った。
「アルフレッド様にお伝えしたいことがあるのでしたら、リリア様ご自身のお言葉でお伝えになるのがよいと思います」
リリアは、きょとんとした。
「わたくしが、直接……ですか」
「はい」
「でも」
リリアの指が、ショールの端を握る。
「わたくしが直接申し上げると、アルフレッド様を困らせてしまうかもしれません」
細い声だった。
その不安は、きっと本物なのだろう。
相手を困らせたくない。
重荷になりたくない。
優しくしてくれる人に、これ以上何かを求めてはいけない。
それは、エレノアにも分かる感情だった。
けれど、分かるからこそ、代わりにはなれない。
「困らせないために、誰かが代わりに言葉を整え続けることも、時には相手を遠ざけるのだと思います」
エレノアの声は、思ったよりも静かに響いた。
リリアは何も言わなかった。
「わたくしが間に入れば、リリア様のお気持ちは、わたくしの言葉に変わってしまいます」
エレノアは続ける。
「それは、リリア様のお言葉ではなくなります」
「でも……」
リリアは目を伏せる。
「わたくし、うまく言えるか分かりません」
「うまく言えなくてもよいのではありませんか」
その言葉は、エレノア自身にも向けられているようだった。
「不安なら、不安だと。寂しいなら、寂しいと。アルフレッド様に確かめたいことがあるなら、そのままお伝えになればよいと思います」
リリアの唇が、小さく震えた。
「エレノア様は、お優しいのですね」
その言葉に、エレノアはすぐには答えられなかった。
優しい。
それは、かつて何度も自分を縛ってきた言葉でもあった。
優しいから分かってくれる。
優しいから支えてくれる。
優しいから我慢してくれる。
だから、エレノアは少しだけ首を横に振った。
「分かりません」
「え?」
「今のわたくしの言葉が、優しさなのかどうかは分かりません」
リリアが目を見開く。
「ただ、リリア様の言葉を、わたくしが代わりに運ぶことはしないと決めています」
東屋に、短い沈黙が落ちた。
噴水の水音が遠く聞こえる。
リリアは膝の上の指を見つめたまま、またショールの端を折った。
やがて、彼女は小さく息を吐く。
「わたくし、少し怖いのです」
その声は、今までよりも少しだけ素に近かった。
「アルフレッド様が変わってしまわれたようで。前は、もっとすぐに来てくださったのに。わたくしが不安だと言えば、困ったように笑って、それでもそばにいてくださったのに」
エレノアは黙って聞いた。
「でも最近は、何かを考えていらっしゃるのです。わたくしの話を聞いていても、どこか遠くを見ているようで」
リリアの声が細くなる。
「それが、怖いのです」
その言葉に、エレノアは胸の奥が少し痛んだ。
リリアもまた、変化の中にいる。
アルフレッドが自分の判断を見るようになったこと。
エレノアが代わりに整えなくなったこと。
その変化は、彼女にも届いている。
けれど、その不安をエレノアが埋めることはできない。
「怖いのでしたら、そのことをアルフレッド様にお伝えください」
エレノアは言った。
「わたくしではなく、アルフレッド様に」
リリアは顔を上げる。
「それが、リリア様のお言葉だと思います」
しばらく、ふたりの間に沈黙が落ちた。
やがてリリアは、ゆっくり頷いた。
「……考えてみます」
「はい」
「エレノア様は、お強いのですね」
リリアがぽつりと言った。
その声に、責める響きはなかった。
けれど、エレノアの胸の奥に、小さく刺さった。
強いからではない。
戻りそうになりながら、戻らないようにしているだけだ。
そう思ったけれど、エレノアはそれを口にはしなかった。
これは、リリアに説明してもらうための時間ではない。
自分の揺れまで、誰かに整えてもらう必要はない。
「わたくしも、まだ考えている途中です」
エレノアは、そう答えた。
リリアは少し驚いたように目を上げ、それから小さく頷いた。
「今日は、お話を聞いてくださってありがとうございました」
「こちらこそ」
エレノアは立ち上がる。
リリアも立ち上がろうとしたが、少しふらついた。
エレノアは反射的に手を伸ばしかけた。
だが、すぐ近くに控えていた付き添いの侍女が一歩前に出る。
「リリア様」
侍女が支える。
エレノアは、伸ばしかけた手を静かに下ろした。
手を貸すことが悪いのではない。
けれど、今この場でリリアを支える役目は、すでに別の人の手にあった。
「ご無理はなさらないでください」
エレノアはそう告げた。
リリアは侍女に支えられながら、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます、エレノア様」
その微笑みは、やはり儚げだった。
けれど、先ほどよりも少しだけ、幼く見えた。
エレノアは礼をして、東屋を離れた。
中庭を出たところで、思っていた以上に肩に力が入っていたことに気づいた。
息を吐く。
戻らなかった。
そう思う。
けれど、戻りそうにはなった。
その事実が、少し怖かった。
歩き出そうとしたところで、近くの回廊に人影が見えた。
アレクシスだった。
彼は柱のそばに立ち、こちらに気づくと静かに会釈をした。
会話を聞いていた距離ではない。
けれど、エレノアが中庭から出てきたことには気づいたのだろう。
「アレクシス様」
「エレノア嬢。お疲れでしたね」
その一言に、エレノアは少しだけ目を伏せた。
「顔に出ていましたか」
「少しだけ」
アレクシスは穏やかに答える。
「それでも、足取りは乱れていませんでした」
エレノアは、小さく笑う。
「少し、以前の自分に戻りそうになりました」
「戻らなかったように見えました」
その言葉が、静かに胸に落ちる。
戻らなかった。
自分でそう思っても、まだ頼りなかったことが、誰かの目からそう見えていたのだと思うと、少しだけ息がしやすくなった。
「……そうでしょうか」
「はい」
アレクシスは迷わず頷いた。
「少なくとも、今ここにいるあなたは、ご自分の足で戻ってこられたように見えます」
エレノアは、回廊の床に落ちた光を見る。
戻らなかった。
けれど、戻りそうになる自分がまだいる。
そのことを、エレノアは知った。
置いてきた役割は、遠くに消えたわけではない。
ふとした声で、誰かの不安そうな目で、すぐ近くに戻ってくる。
それでも。
戻りそうになった自分に気づいて、そこで足を止めることはできる。
「ありがとうございます」
エレノアは言った。
「その言葉を聞けて、少し安心しました」
アレクシスは、少しだけ目元を和らげた。
「では、安心したついでに、少し歩かれますか」
「歩く、ですか」
「はい。中庭とは反対側の回廊は、今の時間、人が少ないので」
その誘いは、何かを急かすものではなかった。
励ますためでも、慰めるためでもない。
ただ、少し歩く。
それだけの提案。
エレノアは、ほんの少しだけ迷った。
用件はない。
話さなければならないこともない。
その誘いを待っていたわけではない。
けれど、今ひとりで歩きたいわけでもなかった。
「はい」
エレノアは頷いた。
「少しだけ、ご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
アレクシスは、エレノアの歩幅に合わせるように、ゆっくり歩き出した。
並びすぎず、離れすぎず。
その距離を、エレノアはもう知っている。
戻らなかった。
けれど、戻りそうになる日もある。
それでも、そのあとに自分の足で歩き出せるのなら。
エレノアは、回廊に差し込む午後の光の中を、静かに進んだ。




