空いた朝
翌朝、エレノアはいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ淡く、朝の光が薄い布越しに部屋へ差し込んでいる。
身支度を整え、机の上に置いた予定表を開いたところで、エレノアの指が止まった。
今日の授業。
提出する課題。
午後の予定。
図書室へ返却する資料。
そこまでは、自分の予定だった。
その下に、無意識に書き込みそうになった余白がある。
アルフレッドの予定。
委員会後の確認。
リリアへの見舞いと重なっていないか。
そこまで考えかけて、エレノアはペンを置いた。
もう、書かなくていい。
必要があれば、本人が確認する。
そう思っても、指先はしばらく紙の上に残っていた。
癖というものは、言葉で決めたからといって、すぐに消えるものではないらしい。
けれど、消えないからといって、従わなければならないわけでもない。
エレノアは予定表を閉じた。
机の上に、何も書き足されなかった余白が残る。
空いた時間は、思っていたよりも静かだった。
何かを忘れているような気がする。
誰かに迷惑をかけているような気がする。
今のうちに確認しておかなければ、あとで困るのではないかと思う。
それでも、エレノアはペンを取らなかった。
自分の予定だけが書かれた予定表を鞄にしまう。
その軽さに、少しだけ戸惑った。
学園へ向かう道は、いつもと同じだった。
けれど、エレノアの歩く速さは、ほんの少し違っていた。
急がなくてもよい。
そう思っているのに、足が勝手に早くなりそうになる。
委員会室へ寄って、昨日の残りを確認しなければ。
アルフレッドの分の控えが揃っているか見なければ。
下級生が困っていないか、念のために見ておかなければ。
そんな考えが浮かぶたびに、エレノアはひとつずつ息を吐いた。
見に行くことが悪いわけではない。
けれど、見に行かなければ落ち着かないのなら、それはまだ自分の役目を手放せていないということだ。
校舎に入ると、廊下には朝のざわめきが広がっていた。
創立祭の片づけも一区切りつき、学園は少しずついつもの空気を取り戻している。
「エレノア様」
声をかけてきたのは、創立祭委員会にいた下級生だった。
彼女は小さな束を抱えて、駆け寄ってくる。
「昨日の最終版、学園側への提出控えも保管棚に入れておきました」
「ありがとうございます。次年度引き継ぎ用とは分けてありますか」
「はい。エレノア様に教えていただいた通り、札もつけています」
下級生は少し誇らしげに言った。
エレノアは微笑む。
「それなら安心です」
「あと、委員長確認分は、アルフレッド様の机に置いてあります」
一瞬、エレノアはいつものように「確認します」と言いそうになった。
けれど、言わなかった。
「そうですか」
代わりに、そう答える。
下級生は少し不思議そうに首を傾げた。
「エレノア様は、今日はアルフレッド様のご予定は確認されないのですか?」
悪意のない声だった。
むしろ、いつもの流れを確認するような声音。
エレノアは、ほんの少しだけ間を置いた。
「必要があれば、ご本人が確認なさると思います」
下級生は瞬きをした。
そして、少し遅れて頷く。
「……そうですね。委員長確認分ですものね」
「はい」
それだけの会話だった。
けれど、エレノアの胸の奥では、小さな何かが静かにほどけていた。
誰も責めていない。
誰も大きく驚いていない。
ただ、置き場所が変わっただけ。
それでも、確かに変わっている。
下級生と別れ、エレノアは教室へ向かった。
朝の教室では、すでに数人の令嬢たちが集まって話していた。
エレノアが席に着くと、そのうちのひとりが控えめに声をかけてくる。
「エレノア様、昨日で創立祭委員会のお仕事は一区切りだったと伺いました」
「はい。最終報告まで終わりました」
「お疲れさまでした。とても大変だったのでしょう?」
「皆さまに助けていただきました」
そう答えると、相手は少し迷うように視線を動かした。
「その……アルフレッド様も、これからはご自分で委員長のお仕事をなさるのですね」
「そうですね」
エレノアは静かに頷いた。
「本来、そうあるべきことですから」
令嬢は、困ったように微笑む。
「でも、婚約者なのですから、少しは支えて差し上げてもよいのではありませんか?」
その言葉に、教室の空気がほんの少しだけ静かになった。
強い非難ではない。
相手はおそらく、親切のつもりで言っている。
婚約者なら支えるもの。
相手が困っていたら助けるもの。
その考え方を、エレノア自身も長い間疑ってこなかった。
だから、胸が少し揺れた。
けれど、もうその揺れにすべてを預ける必要はない。
「支えることと、代わりに判断することは違います」
エレノアは、穏やかに言った。
令嬢が目を瞬かせる。
「支えない、という意味ではありません。けれど、相手が引き受けるべき判断まで、わたくしが先回りして整えることは違うと思うのです」
教室の空気が変わる。
誰かが小さく息を呑んだ。
エレノアは、自分の声が震えていないことに気づいた。
「必要なときに手を貸すことと、相手の役目を自分のものにしてしまうことは、同じではありませんから」
言い終えると、胸の奥が少し熱くなっていた。
怒ったわけではない。
相手を責めたかったわけでもない。
ただ、線を引いただけ。
それだけで、世界が少し違って見える。
「でも……婚約者なら」
令嬢が、言いかける。
その声には、先ほどよりも少しだけ迷いがあった。
そのとき、別の生徒が小さく首を傾げた。
「けれど、委員長判断欄はアルフレッド様のご確認でしたわ」
エレノアは、思わずそちらを見る。
声を発したのは、創立祭委員会の資料整理を手伝っていた生徒だった。
「エレノア様が代わりになさるものではないのでは?」
その言葉に、教室の空気がもう一度変わった。
エレノア自身の言葉ではない。
自分が何度も線を引き、残してきた言葉が、別の人の口から出た。
委員長判断欄。
その言葉が、誰かの中に残っていた。
「……そう、ですわね」
最初に声をかけた令嬢は、戸惑いながらも小さく頷いた。
「ごめんなさい。わたくし、少し簡単に言いすぎました」
「いいえ」
エレノアは首を横に振る。
「わたくし自身も、長い間、同じように考えていましたから」
その言葉は、思っていたより素直に出た。
令嬢は少し安心したように微笑む。
会話はそれで終わった。
けれど、エレノアの中には、静かな余韻が残っていた。
言えた。
相手を傷つけるためではなく。
自分を守るためだけでもなく。
ただ、違うものは違うと。
そして、言葉は自分の中だけに閉じていなかった。
少しずつ、誰かの中にも残り始めている。
午前の授業が終わると、エレノアは図書室へ向かった。
借りていた資料を返すためだった。
創立祭の記録づくりに使った過去の報告書と、学園行事の運営記録。
いずれも、もう返却してよいものだ。
図書室は静かだった。
窓から差し込む光が、書架の影を床に落としている。
エレノアが返却台へ資料を置くと、奥の書架から声がした。
「エレノア嬢」
振り向くと、アレクシスが一冊の本を手に立っていた。
「アレクシス様」
「資料の返却ですか」
「はい。創立祭の記録に使っていたものです。ようやく返せるようになりました」
「一区切りですね」
「はい」
そう答えてから、エレノアは少しだけ笑った。
「けれど、一区切りがついたはずなのに、まだ何かを忘れているような気がするのです」
「何かを?」
「はい。朝も、予定表に余白があるのを見て、落ち着かなくなりました。何も書かなくていいはずなのに、書かないことが不安で」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
こんなことを話す必要はなかったかもしれない。
けれどアレクシスは、いつものように急いで答えを出さなかった。
少し考えるように、手元の本を閉じる。
「忘れたのではなく、持たなくてよいものを置いたのかもしれません」
その言葉に、エレノアは目を上げた。
「持たなくてよいものを」
「はい。ずっと持っていたものを置けば、手の軽さに慣れるまで少し時間がかかるのではないでしょうか」
手の軽さ。
エレノアは、自分の指先を見る。
今朝、ペンを置いた指。
アルフレッドの予定を書き足さなかった手。
令嬢に、支えることと代わることは違うと伝えた手。
確かに、軽い。
軽いのに、まだその軽さを不安と間違えそうになる。
「……そうかもしれません」
エレノアは小さく頷いた。
「軽くなったことに、まだ慣れていないのですね」
「慣れるまで、急がなくてもよいと思います」
アレクシスは穏やかに言う。
「軽さを不安だと思う日もあるでしょうし、寂しさだと思う日もあるかもしれません。それでも、持たなくてよいものを置いたことは、間違いではないと思います」
まただ、とエレノアは思った。
この人は、いつも結論を急がせない。
けれど、立ち止まったままにもさせない。
エレノアが自分で歩けるように、言葉を少し先に置いてくれる。
「ありがとうございます」
「いえ。私がそう思っただけです」
アレクシスは少しだけ笑った。
「ところで、返却が終わったなら、今日は少し早くお帰りになれそうですか」
「そうですね。委員会の確認もありませんから」
口にして、エレノアはふと不思議な気持ちになった。
今日は、急がなくてよい。
誰かの予定を見に行かなくてよい。
委員会室へ戻らなくてよい。
では、このあと自分は何をするのだろう。
その問いは、少し心もとない。
けれど、どこか明るかった。
「アレクシス様は、こちらで調べ物ですか」
「はい。学園行事の古い記録を少し」
「行事記録を?」
「昨日の確認会で、記録の残し方に興味が出ました。過去の記録がどう残っているのか、見ておきたくなりまして」
エレノアは瞬きをした。
「わたくしの判断の影響、でしょうか」
「そうですね」
アレクシスは迷わず頷いた。
「あなたの判断を聞いて、私も確かめたくなりました」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
昨日の「信じたい」という言葉が、ふいに思い出される。
必要だと言われたのではない。
代わりを求められたのでもない。
判断を聞いて、確かめたくなった。
そんなふうに、自分の言葉が誰かの行動につながることがあるのだと、エレノアはまだうまく受け止めきれない。
「もしよろしければ、どの棚に過去の報告書があるかだけ、教えていただけますか」
「はい。こちらです」
エレノアは書架へ向かい、目的の棚を示した。
「年度ごとに並んでいます。ただ、古いものは分類が少し曖昧です。外部報告と内部記録が混ざっているものもあります」
「なるほど。では、分類の違いを見るにはちょうどよさそうですね」
「そうですね。少し読みにくいかもしれませんが」
「読みにくいものから分かることもあります」
そう言って、アレクシスは一冊を手に取る。
その横顔を、エレノアは少しだけ見ていた。
用件は終わった。
資料は返した。
棚も案内した。
これ以上、ここにいる理由はない。
それなのに。
もう少し、話していたかった。
そう思った瞬間、エレノアは自分の胸の内に驚いた。
何かを頼まれたわけではない。
必要とされたわけでもない。
引き止められたわけでもない。
ただ、もう少し。
この人が何を読み、何を考えるのかを聞いていたかった。
エレノアは、呼び止める理由を探した。
けれど、見つからなかった。
理由がなければ話しかけてはいけないのだと、どこかで思っていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
「エレノア嬢?」
アレクシスが不思議そうにこちらを見る。
エレノアは、はっとして目を伏せた。
「いえ。では、わたくしはこれで」
「はい。ありがとうございました」
「こちらこそ」
エレノアは軽く礼をして、図書室を出た。
扉が静かに閉まる。
廊下に出てから、エレノアは胸に手を当てた。
鼓動が、少しだけ早い。
用件は終わっていた。
それなのに、もう少し話していたかった。
それは、何のためだったのだろう。
まだ、答えは出なかった。
午後の廊下には、授業を終えた生徒たちの声が満ちていた。
エレノアが歩いていると、少し先で令嬢たちが小声で話しているのが聞こえた。
「リリア様、最近あまりお元気ではないそうよ」
「アルフレッド様も、創立祭の件以来、お見舞いの回数が減ったとか」
「それで、少しご不安なのかしら」
リリア。
その名を聞いた瞬間、エレノアの足がわずかに止まった。
以前なら、すぐに考えていただろう。
アルフレッドの予定を確認したほうがよいだろうか。
見舞いの日程が重なっていないか、調整したほうがよいだろうか。
リリアが不安なら、誰かが間に入ったほうがよいのではないか。
思考は、まだその道を覚えている。
けれど、エレノアは一歩、廊下を進んだ。
「それに、リリア様……エレノア様にも一度お話ししたいとおっしゃっていたとか」
「まあ。何のお話かしら」
その言葉に、エレノアはもう一度だけ足を止めた。
自分の名が、そこで出てくるとは思わなかった。
その話は、わたくしが埋める空白ではない。
胸の奥には、ほんの少しざわめきが残っていた。
けれど、こちらへ向けられた言葉まで、聞こえなかったことにはできない。
今のエレノアには、自分の予定がある。
自分の余白がある。
そして、まだ名前の分からない、もう少し話していたかったという気持ちがある。
エレノアは鞄を持ち直し、午後の光の中を歩いていった。




