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もう戻りません

 最終報告書の最後の一枚に、先生の確認印が押された。


 小さな音だった。


 けれど、その音が会議室に落ちた瞬間、エレノアは胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。


「これで、今年度の創立祭委員会としての記録は一区切りです」


 先生がそう告げる。


 机の上には、整えられた資料が並んでいた。


 外部報告用。

 次年度引き継ぎ用。

 基準表。

 委員長判断欄。

 作成者欄。


 そこには、空白のまま置かれているものはもうない。


 誰が確認するのか。

 誰が判断するのか。

 何を残すのか。

 何を外へ出すのか。


 それぞれの場所が決まり、それぞれの名前が残っている。


 すべてが解決したわけではない。

 けれど、何が残り、誰が引き受けるべきなのかは、もう見える形になっていた。


 エレノアは資料の端をそっと揃えた。


 自分の名前が入った作成者欄。

 アルフレッドの確認印が入った委員長欄。

 次年度へ渡すための補足。


 以前なら、ただ整えて終わっただろう。

 誰の手がどこに入ったのかなど、分からないまま。


 けれど今は違う。


 見える形で残っている。


 そのことが、少し怖くて、少し誇らしかった。


「皆さん、本当にお疲れさまでした」


 先生の言葉に、下級生たちがほっと息をつく。


「エレノア様、こちらの控えは委員会室へ戻しておきます」


「お願いします。次年度引き継ぎ用の束とは分けて置いてください」


「はい」


 下級生が頷き、資料を抱えて退室していく。


 先生たちも席を立った。


「最終版は学園側でも保管します。エレノア様、分類表の作成、本当に助かりました」


「こちらこそ、ご確認いただきありがとうございました」


 エレノアは丁寧に礼をする。


 先生たちが部屋を出る。


 アレクシスも、手元の資料をまとめて立ち上がった。


 彼は一度、エレノアのほうを見る。


 声をかけるでもなく、近づくでもなく。


 ただ、静かに会釈をした。


 エレノアも、小さく会釈を返す。


 それだけでよかった。


 今はまだ、誰かに連れ出される場面ではない。


 自分で、ここを終わらせる必要がある。


 会議室に残ったのは、エレノアとアルフレッドだけだった。


 窓の外には、夕方の光が差している。

 机の上に置かれた資料の影が、細く伸びていた。


 エレノアは残った紙を揃え、表紙を上にして重ねる。


 そのとき、アルフレッドが口を開いた。


「エレノア」


 以前なら、その声にすぐ顔を上げていただろう。


 何か困っているのだろうか。

 何を言いたいのだろうか。

 どう言えば、この場が穏やかに進むだろうか。


 そう考えて、彼の言葉の先を先回りしていた。


 けれど今、エレノアは資料を揃え終えてから顔を上げた。


「はい。お話を伺います」


 それ以上は言わなかった。


 アルフレッドは少し息を詰めたようだった。


 彼のほうも、以前ならエレノアが次の言葉を整えてくれることに慣れていたのかもしれない。


 けれど、今日は沈黙がそのまま残った。


 彼はその沈黙の中で、自分の言葉を探していた。


「……君に、任せてばかりだった」


 ようやく出た言葉は、低かった。


 エレノアは黙って聞く。


「創立祭のことも、記録のことも、私が見落としていたことも。君なら気づくと、思っていた」


 アルフレッドは机の上の資料を見る。


 作成者欄。

 委員長判断欄。

 次年度引き継ぎ用。


 それぞれの場所に、それぞれの責任が残っている。


「君に任せているつもりだった。君を信頼しているつもりだった」


 そこで、彼は一度言葉を切った。


 エレノアは助けなかった。


 それは冷たさではない。


 彼が彼自身の言葉で、ここまで来なければならないと思ったからだ。


 アルフレッドは、ゆっくり息を吸う。


「違うな」


 その声は、先ほどより少し掠れていた。


「任せていたのではない。私が判断しなかった分を、君に押しつけていた」


 会議室の空気が、静かに止まった。


 エレノアは、その言葉を胸の中で受け止める。


 押しつけていた。


 それは、彼の口から初めて出た言葉だった。


 誰かに言われたのではない。

 資料に書かれたのでもない。

 エレノアが整えて渡したのでもない。


 彼自身が、自分の言葉で置いた言葉だった。


「気づくのが遅かった」


 アルフレッドは続ける。


「君がどれだけのものを見て、拾って、整えていたのか。私は、見ていなかった」


 その言葉は、不完全だった。


 きっと、まだ足りない。

 まだ彼自身も、すべてを分かっているわけではない。


 けれど、それでも。


 以前の彼なら、きっとこの言葉までは来られなかった。


「すまなかった」


 アルフレッドは、深く頭を下げた。


 エレノアは、しばらくその姿を見ていた。


 怒りがないわけではない。

 悲しみが消えたわけでもない。


 その謝罪で、これまでの日々が軽くなるわけではない。

 けれど、その謝罪を無意味にしたいわけでもなかった。


「謝罪は受け取ります」


 エレノアは静かに言った。


 アルフレッドが顔を上げる。


 その表情に、安堵が浮かびかけた。


 だからエレノアは、続けた。


「けれど、わたくしはもう、あなたの不在を埋める場所には戻りません」


 安堵が、そこで止まる。


 アルフレッドの目が、わずかに揺れた。


 エレノアは視線をそらさなかった。


「必要な記録は残しました。次年度へ渡す形も整えました。委員長判断欄にも、あなた自身の判断が残っています」


 机の上の資料へ、そっと視線を落とす。


「ここから先は、委員長であるあなたの仕事です」


 アルフレッドは、何かを言おうとした。


 けれど言葉は出てこなかった。


 エレノアは待った。


 彼の言葉を先回りして整えることはしなかった。


 その沈黙もまた、彼のものだった。


「では、私たちは……」


 ようやくアルフレッドが言った。


 その言葉が何を指しているのか、エレノアには分かっていた。


 婚約のこと。

 これからの関係のこと。

 今まで当然のように続くと思われていたもののこと。


 以前なら、ここでも彼の不安をやわらげる言葉を探していたかもしれない。


 大丈夫です。

 お気になさらないでください。

 今まで通りに。


 そんな言葉で、この場を滑らかにしたかもしれない。


 けれど、その言葉はもう選ばない。


「婚約については、改めて正式に話し合いましょう」


 エレノアは言った。


「今ここで、曖昧に結論を出すべきことではありません」


 アルフレッドは息を呑む。


「ただ」


 エレノアは、ひとつずつ言葉を置いた。


「以前と同じ形には戻りません」


 会議室は静かだった。


 外の廊下から、遠く下級生たちの声が聞こえる。

 資料を運ぶ足音。

 扉の開閉音。


 世界は進んでいる。


 この部屋の中だけが、過去に戻ることはできない。


「私は……」


 アルフレッドが、言葉を探す。


 けれど、エレノアはその続きを待って、作ってやることはしなかった。


「その言葉も、あなたご自身で考えてください」


 穏やかに、けれどはっきりと告げる。


「わたくしが整えることではありません」


 アルフレッドは目を伏せた。


 痛みを与えたいわけではなかった。

 けれど、痛みのない形で気づける段階は、もう過ぎていたのだと思う。


 エレノアは、最後の控えを彼の前に置いた。


「こちらが委員長保管分です」


 そう言って、手を離す。


 紙が机の上に置かれる、小さな音がした。


 それは、ひとつの役目を返す音のようにも聞こえた。


「確認をお願いいたします」


「……分かった」


 アルフレッドは静かに頷いた。


 その返事を聞いて、エレノアは席を立つ。


 椅子を戻す音が、会議室に響いた。


 以前なら、退出する前にもう一度振り返っていたかもしれない。

 彼が困っていないか。

 何か言い残していないか。

 自分が受け取るべきものが残っていないか。


 けれど今、エレノアは振り返らなかった。


 すべてを置いていくわけではない。


 思い出も、痛みも、積み重ねてきた時間も、すぐになかったことにはできない。


 けれど、戻る場所と、持っていくものは違う。


 エレノアは扉を開けた。


 廊下には、夕方の光が満ちていた。


 窓辺に、アレクシスが立っている。


 彼はエレノアに気づくと、少しだけ姿勢を正した。


 近づいてはこない。


 何があったのかを尋ねることもしない。


 ただ、静かに会釈をする。


 エレノアも、小さく会釈を返した。


 それだけで、胸の奥に残っていた緊張が少しほどける。


 けれど、彼のほうへ駆け寄ることはしなかった。


 今は、誰かに連れて行ってもらうために歩くのではない。


 自分の足で、この廊下を進むために歩くのだ。


 委員会室のほうから、下級生たちの声が聞こえる。


「次年度引き継ぎ用は、こちらでよろしいですか」


「はい。作成者欄も確認済みです」


 その声に、エレノアは少しだけ微笑んだ。


 残したものがある。


 名前も。

 言葉も。

 判断も。


 それらは、誰かの不在を埋めるためではなく、次へ渡るために残った。


 エレノアは廊下を歩き出す。


 夕方の光が、床の上に長く伸びている。


 誰かの不在を埋めるためではなく。

 誰かの物語を整えるためでもなく。


 エレノアは、自分の名前で残した道を、自分の足で歩き出した。

ここまでで、ひとまず一章の区切りとなります。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。ブックマーク、評価などの反応も、とても励みになっています。エレノアの物語は、ここからまた少しずつ進んでいきます。

続きも見守っていただけたらうれしいです。

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