地獄と絶望 *キリアン
俺はその日、仕事にも行かず家にも帰らず、アデリーの部屋から一歩も出なかった。
アデリーの仕事は朝からの仕込みに昼の営業、そして夜の仕込みの手伝いをして夕方帰ってくる。
窓の外が茜色に染まる頃、アデリーは帰ってきた。
「……! びっくりするじゃない。ずっといたの?」
「ああ」
「仕事は? というか食事は?」
「棚にあったパンを貰った。仕事は、家を継ぐために辞めるから……大丈夫」
アデリーは呆れた顔をした。
「大丈夫な訳がないと思うけど。まあいいわ。店で余った食材を貰ってきたの。夕飯食べる?」
俺は頷いた。嬉しい。あんなに落ち込んでいたのに、俺はこんなに単純だったか?
料理をしているアデリーを後ろから抱きしめた。
「危ないわよ」
「手伝う」
「けっこう。キリアンは軍人なのに包丁の扱いは下手だから」
「じゃあ玉ねぎの皮を剥く」
アデリーはため息をついてコロンと玉ねぎを置いた。横に並んで玉ねぎの皮を剥く。
「……いつ帰るの?」
「うーん、次の給金を貰った後かな。結局、伯爵家からの連絡もなかったし、人脈もない私ごときがこれ以上ここで出来ることもないし」
「お姉さんのことはいいのか?」
「そりゃ気にはなるけど、故郷のことも心配だから」
アデリーはトントンと気持ちのいいリズムで人参を切る。俺は未だモタモタと玉ねぎの皮を剥いている。
「故郷に戻ったら少しは出来ることがあるわ。今はちょうど野菜の植え付けをしているはず。畑仕事には人手がいくらあっても足りないのよ」
「子爵家の姪が畑仕事をするのか?」
アデリーがぴたりと手を止めた。
「……私が子爵家の姪だって、なぜ知っているの?」
しまった。
アデリーは目を伏せてふっと息を吐いた。
「そりゃあね、貴族さまが遊び相手にするんだもの。身辺調査ぐらいはするわよね」
「いや、その……」
「だったら私が帰らなきゃいけない理由もわかっているでしょう? 夕飯を食べたら本当にもうおしまい」
なぜそんなに飄々とした態度でいられるんだ? オーウェンという奴がいながら俺と過ごしたのに?
可愛らしい見た目でありながら、たった一人で王都にやってきた。そして、強引に迫ったとはいえ金のためと俺と割り切った関係を持ち、あっさりと断とうとする。
この女はなんなんだ。
もっと知りたいと思う。同じものを見てみたいと思う。
「なあ、帰るなんて言うなよ。そうだ、国王陛下にお願いして君の住むマートンの土地を侯爵家から割譲してもらおう。そしてうちで管理すれば金銭面での心配はなくなるぞ」
「は? 国王陛下にお願いして? あなた、何者?」
アデリーは包丁を置いてくるりと振り向き、俺の顔を見た。そのまっすぐな緑の瞳を前に嘘をつくことはできない。
「治安維持部隊の偉い人だとは思っていたけど……違うわね?」
「……ジラール公爵家の次男、キリアン・アルベイル・ジラール。陸軍騎馬隊の中佐をしている。王都の守りが主な任務だから……治安維持は嘘じゃない。辞めるけど」
アデリーは一瞬目を見開いた後、細めて俺を見た。
「なるほど。貴い公爵家のご子息が貧乏な士爵家の娘をね……。ずっと馬鹿にしていたわけね。お金を必要としていた私は都合のいい遊び相手だったでしょう。一緒に姉を探すと言いながら……」
美しい緑の瞳に影を作る長いまつ毛が震える。
「そんなことはない! 馬鹿にしていたなら帰るななんて言わない!」
「でもあなたは身分に相応しいお相手と結婚するんでしょう? 士爵家の次女なんてほぼ平民だもの。どうとでもできるわよね」
「結婚はしない! 君だってマリアが死んだ今は父親が存命のうちに貴族に嫁げば……、そうだよ。君をどこかに養女にしてもらって俺と結婚すれば……」
アデリーの目が見開かれる。
「死んだ……? お姉さまが死んだと言った?」
はっとする。ああ、どうしてこうも上手くいかない。アデリーに襟を掴まれ詰められた。
「死んだってどういうことよ!? あなた、何を知っているの、キリアン!?」
俺は目を閉じて項垂れた。
「……俺の兄貴の心中した相手がマリア・オブリルだ。君の姉のマリアは兄貴と一緒に死んだ。兄貴は事故死として処理されたけど、マリアの存在は消された」
「そんな……。なんで? あなたのお兄さんと私のお姉さまが心中? 嘘でしょ。ねえ、お姉さまはどこ?」
「知らない。たぶん、どこかの教会に引き取られたと思う」
襟を掴んでいたアデリーの手が震えながら離れ、そのまましゃがみ込んだ。
「知らないって、知らないってどういうこと? なんで? どうして……? お姉さま、オーウェン……。なんでみんないなくなっちゃったの。なんでみんな私を一人にするの……」
アデリーに知られてしまった。もう本当におしまいだという絶望の中、アデリーの口からオーウェンという名が聞こえる。『いなくなった』という言葉も。
オーウェンはいなくなったのか。もしかしたら死んだのか。この状況の中、心の奥に小さな灯りが灯る。
俺は狂ったのかもしれない。
ああ、わかった。
突然、理解した。
兄貴とマリアは心中したんじゃない。故郷に帰ろうとしたマリアを兄貴は殺したのだ。
自分の地獄にマリアを引きずり落としたのだ。
理解した俺は昏い想いでアデリーを見下ろす。俺はアデリーを殺したりなんかしない。俺も死んだりしない。けれど、アデリーを俺のところまで引きずり下ろしたい。
この小さな肩を震わせている今なら可能かも知れない。
俺は努めて静かに声を出した。
「アデリー、マリアの遺体を一緒に探そう? 俺が両親を問い詰める。見つかるまで俺が君の生活とマートン領への支援をしよう。……罪滅ぼしさせてくれ」
アデリーが乾いた緑の瞳で俺を見上げる。涙は流していない。
……オーウェンがいなくなった時には泣いたのだろうか。
「……ふっ。信用できない」
小さく呟いたアデリーはゆっくり立ち上がり、居住まいを正した。
「数々のご無礼、申し訳ございません。どうぞお許しください」
「アデリー……?」
「今はまだ公爵家令息に対する不敬罪を受けることはできませんが、姉の居場所を見つけたあかつきには治安維持部隊の詰所に出頭いたしますので、どうかご容赦ください」
アデリーはそう言って深々と頭を下げた。
「信用できないと仰るならば誓約書を書きましょう」
「何を言うんだ? 不敬だなんて思っていないし、それにその話し方! 俺はアデリーのことが……」
「……こんなむさ苦しい場所はキリアンさまには相応しくございません。お帰りください」
「アデリー!」
「お帰りください!」




