帰宅、流血、死亡。
「やあ、きーに余ちゃん。久しぶりですね。」
玄関に立つ約四年ぶりに顔を合わせた父親はそう慇懃に言った。外見も醸し出す雰囲気も記憶にある当時のままで年齢を感じさせない。身にまとうスーツさえも前と同じ型にもみえる。
「おかえりなさい。父さん。」
「ただいま、二人共元気にしていましたか?」
元気にしていましたかとは何とまあ責任感のある言葉で。立派な大人は違うなあ。
子供をなんとも放置したままにしているだけの事はある。
「まあ、で、どうしたの突然。」
僕は質問の答えを無視する。父親の言には適当に返し、靴を脱いで玄関から上がる。
「いろいろありましてね。話しますよ。」
父親も僕の言葉を受け流す。
やれやれと言った感じだ。
余は靴を履いたまま玄関に突っ立っている。
「余、上がらないの?」
「うん、今日は帰らせて貰うね。久しぶりなんだし、親子水入らずでどうぞ。」
余はそう答えてにっこりする。
「いつもお世話になっています。ありがとうございます。助かってます。」
そう言って父親に頭を下げた。
父親はにこっと微笑んで応える。
「じゃあ、きー、またね。」
余はそう言って出て行った。
そう言えば今朝、お母さんの機嫌が悪いとか言っていた。その上今日はあんな事があったばかりだ。
不意にぶつかってしまわないと良いけれど。
「余ちゃんはよく来ているんですか?」
玄関の扉が閉まるやいなや父親はそんな質問をして来た。さっきの微笑みのままなのでどんな気持ちで言ったのか分からない。
「うん。週の半分くらいはこっちにいるかな。」
「そうですか。」
父親は何か言うかと思ったけれど、答えを聞くだけ聞いてリビングに入って行った。
僕は荷物を持ったままリビングの入り口で片手を壁に当て支えにして立つ。
「それで、突然どうしたの?三年くらい帰ってこなかったのに。」
「はい。仕事辞めました。」
「は?」
父親の突拍子もない言葉に驚く。
今までさんざん仕事だけをしてきた癖に何を宣っているのだろう。
「仕事を辞めたので少々時間が出来ました。だから久しぶりに息子の顔でも見ようかと思いましてね。」
父親はそう淡々とそしてやはり慇懃な調子で言った。
「はあ。」
もう、なんと言ったらいいのか分からん。
「暫時ここで寝泊まりしますね。すぐ仕事が出来ると思いますのでそのうち出ていきますよ。」
僕が絶句している間もそう自分の話を続ける。
僕は置いてけぼりだ。
「ああ、そう。」
「まあ、詳しいことはご飯でも食べながら話しましょう。何か出前でも取ります?」
「いや、僕、今日は外で食べてきたから、余と。」
どうでもいい事だと案外言葉が出てくる。いつも上っ面だけで生きているからだろうか。
「なんだ、そうでしたか。」
「父さん食べてないならなんか作ろうか?炒飯とかならすぐ出来るけど。」
僕は取り敢えず理解不能なことを放置して夕食の話をする。
「ああ、そうですか。じゃあ、お願いします。」
父親はまたにっこりと優しい微笑みを浮かべる。
作ってるようには思えない笑顔が無性に腹立つ。
「いや、味とか期待されても困るよ。まあ、ちょっと待ってて部屋着に着替えるから。」
僕はスーツケースの中を探り始めた父親を放置して自分の部屋に向かう。
ゆっくりすればなんだか妙な事を考えそうだ。
僕は急いで荷物を勉強机に置いて、制服をベッドに投げ出す。それからカーテンレールに掛けてあった浴衣を手に取りさっと身に纏いキッチンへ行く。
いつものように襷に使っている男紐とエプロンをつけて台所に立つと自然に気持ちは落ち着く。
よし。
冷凍飯をレンジにかけたり、冷蔵庫から野菜やウインナーを出したりしていると父親がいつの間にかキッチンとダイニングを仕切るカウンターに立っていた。僕とは対面するような感じだ。
「きー。いつもそんなに格好を?」
「うん。部屋着兼寝間着。」
「そうですか。」
父親は軽く答える。
「そういや父さん着替えなくていいの?」
スーツケースを漁っていたから着替えでもするのかと思っていたがまだ高そうなスーツのままだ。
「確かにそうですね。荷物も上げないといけませんし、一度部屋に行ってきますね。」
父親はそう言って離れていく。
ん?
部屋?
父親の部屋なんてあったか?
あっ、そ、うだ。
「とっ、父さん。父さんの書斎は今ないし、メインベッドルームも一年近く開けてないから埃溜まってると思う。多分、相当汚いはず。」
父さんの荷物置き場となりうる書斎は、余の部屋として使っているし、メインベッドルームは使っていないから最近はドアすら開けていない。
「仕方ありませんね。何年も帰っていない家です。変わってても文句言えません。」
父親は僕の言葉を振り返って肩をすくめる。
僕はそれを無視して玉ねぎや人参を切り始めた。本人も仕方ないと言っているようだし大丈夫だろう。
「ということは、きー。余ちゃん泊まっていくこともあるんですか?」
僕は包丁の手を止める。
「まあ。」
この親の事だから不純だとかそういうことを言って攻めないだろう。けれどそれでも何かしら思うところが無いとも思えない。
「そうですか。余ちゃんまだネグレクトを?」
ああ、そっちか。
僕は安心してまた手を動かし始める。
「うん。そう。」
嘘だ。本当はもっと酷いことになっている。逃げる必要があるくらいに。
「学校にそれは言って、ないのですね。だからここに来てると言うことですか。」
「うん。余がどうしても嫌がってて。」
まあ、もう、そうでもないのかもしれないけれど。
「そうでしょうね。小さい頃からそうでしたし。」
父親はこういう非常なことを話すときも淡々とだ。やっぱり何を考えているのか分からない。
「そうなんだ。」
「ええ、あの子は小さい頃から聡明でしたからね。だから何も出来なかったんですよ。まあ、深く入り込むのに躊躇しただけかも知れませんけどね。私も母さんも。」
父親はそう言って僕を見る。
この両親のことだ。余の意見を聞くふりをして面倒事を避けてただけだろうに。まあ、無意識かもしれないけど。
それに自分たちもネグレクトしてるなんて欠片も思っていないだろう。
「そう。」
僕の素っ気ない答えに会話は止まる。
僕は切った野菜とウインナーをフライパンで炒め始める。ジューといい音だ。
父親は僕の様子をふんふんと覗いてカウンターに体重を掛けている。
「慣れたものですね。」
「そりゃ、余も、いるし、自炊してるから。」
「偉いですね。でも外食出来る分くらい渡していると思いますが。」
僕は父親の無責任な言葉を聞き流しながら、チンしたご飯をフライパンに入れる。
「まあ、母さんからも貰ってるし、正直大丈夫だと思うけど余がそれだと気にするから。」
「でもそれだと贈与税取られませんか?」
「ああ、まあそこは上手くやってるよ。確定申告したり何となく高い買い物したりして。」
多分税金を払ってないことにはなっていないはずだ。
「そうですか。流石です。」
僕は卵を入れて炒飯を仕上げ大皿に盛る。
「はい、出来た。お茶持ってくから待ってて。」
「ありがとうございます。美味しそうですね。」
父親はカウンター越しに皿を受け取り食卓に座る。偶然だろうが僕がいつも座っている席にだ。
僕は二人分のグラスと冷やしてあった麦茶を持って向かいの席に服を下ろす。いつも余の座っている席だ。
何となく違和感がある。
すると父親は「いただきます」と言って食べ始めた。
僕は食事を初めて黙ったままの父親に茶を注いで渡しながら待つ。
父親はバグバクと凄い勢いで食べていく。けれどその割にはしっかりと噛んでいる。
何となく話しかけずにお茶を飲んでボーッとする。
余もだけれど食事中に黙る人が多いな、僕の周りは。
けれど、ほんの少しの時間で父親は食事を終えた。
それからスプーンを置いて、一口のお茶を飲んでから近くのティッシュペーパーで口元をふき「ごちそうさまでした。」とまた丁寧に挨拶をする。
「お粗末様。」
僕も一口茶をふくむ。
「そういえば先程話ですが、要は余ちゃんと半分同棲しているんですよね。」
父親は改めてそう言った。
自分でもそう思うが人に言われると何だか少し気持ち悪い。
「まあ、そんなとこだけど、何か。」
どうせ親は帰ってこないだしいいだろう。
「いえ、別に反対しているのではないのですが、子供作るのは結婚してからの方がいいですよ。これはまあ、経験者の言葉ということで覚えておいてください。」
父親はやっぱり淡々と言った。
は?
この男何ほざいてんだ。
「いや、そんな関係ではないよ。」
頑張って落ち着き、僕はそう言葉をひねり出す。
「ああ、そう。」
父親は突飛な発言をした癖に僕の返事など興味が無いようだ。何となく蒸し返しにくい雰囲気。
「ところで、父さんは?何があったの?それから母さん元気?」
僕は話を変える。
今度は僕のターン。
父親が話すと言った癖に僕の話ばかりしているのが気に入らなかったのだ。
すると父親はゴクゴクとコップ内の麦茶を飲み干す。そして「ふう」と一息。
「ああ、そうですね。母さんは出世して、今はシンガポールです。僕は競争に負けたので取り敢えず退社して、今は無職です。まあ、大丈夫。すぐに仕事は見つかりますよ。そのうち出ていきます。」
父親はまた淡々と語る。
僕は口を挟む隙を与えなかったので何も言うなという事なんだろう。
話す話すと言っていた癖に無責任な事だ。
「そう、じゃあ、まあ、いいや。取り敢えず僕風呂入ってくるよ。」
僕は、興味こそあったものの聞く気にならず立ち上がる。
「はい。お皿は食洗機の中に入れておけばいいですね。」
父親は事務的なことだけはっきり言う。
僕は父親の目を見て一度頷く。
脱衣所に入ると僕は脱衣所で浴衣を即座に脱ぎ捨てて浴場に入りシャワーの栓を開く。
まだ温まっていない水が頭にぶつかるがすぐに適温になった。
ああ、訳が分からない。
どうする。
どうなる。
どうしよう。
ああ、だめだ。
僕はシャワーを水にして頭からかぶる。
今日は色んなことありすぎただけだ落ち着け。
大丈夫。大丈夫。
疲れていただけだ。
大丈夫。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。」
僕はそう呟きながらまたシャワーを湯に戻す。
「ふう。」
帰ってきたばかりの時は余と自分のことに加えて父親のことまでかと思ったが、父親はまた出ていくらしいから考えなくていい。それは幸いなはずだ。
僕の生活はちゃんと元に戻るのだろうか。
否、余が身の振り方を変えるのだ。変わるのは違いない。
出来るかどうかは分からないけど余は母親と訣別する気のようだ。ついでに僕の関係も壊すなんてことは想像出来る。
最悪そうなるのは間違いなしだ。
ん?
最悪?
ああ、まあ、最悪なのか。
納得しておこう。
僕はまたシャンプーで髪を洗って体をなんとなく濯いで風呂場を出る。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
気持ち悪い。
ああ。
もう寝よう。
僕はトランクスを穿いて浴衣に手をかける。
その時、脱衣所の戸が開いた。
「きー。今日はシーツに包まってソファーで寝ようか、と、思うん、です、が。」
父親が入って来たようだ。
何だかいつもと違って詰まった話し方だ。
「ああ、シーツ。クローゼットにあるから、ちょっと待って。」
僕は父親の方を見ずに浴衣を羽織って男紐を結ぶ。
父親は僕の答えにうんともすんとも言わない。
僕は疑問に思って帯を締めながら父親の方に振り返る。
「きー、その傷は、どうしたんですか。」
すると父親は絞り出すような声で言った。
ああ、迂闊。
そうだ。父親がいるんだった。
いや、まあ忘れてたわけじゃないけれど、家だから油断していた。
てか、父親がこんな年に淡々としていないこともあるんだ。
「まあちょっと。」
僕は短く答える。
あれだけ頑なに隠し続けてきた事なのに見つかれば案外冷静なものだ。まあ、仕方ないかなとも思えてくる。
何だろう。
さっきまでぐちゃぐちゃになっていた頭の中が嘘みたいに静まり返った。
余もそうだったんだのかな?
そんな疑問も浮かぶが、殆どは「ばれたか」というそれだけの事だった。人の心はこんなに一瞬で変わるものらしい。
否、ただ混乱がキャバオーバーしただけかもしれないけれど。
まあどちらでもいいや。
もう、うん。仕方ない。
「虐められてるのか?」
そんな言葉を吐く父親を一瞥して軽く首を横に振る。
父親は一瞬だけ眉間に皺を寄せ、それから目を大きく開く。
「余、ちゃんか。」
そうして正解を言い当てた。
「何で。」
僕は自分でもびっくりするほど低い声を出す。
父親もいつもの慇懃な口調が崩れている。
あれは作りだったのか。それは知らなかった。
「いえ、昔から危なっかしい所はありましたから。」
父親はもう既に隠れている僕の体を見ながらそう言った。
口調は元に戻したようだ。
「そんなことはいいんです。どういうことなのか説明してくれませんか?余ちゃんはどうなっているんです。」
僕が黙っていると父親は話始める。大人はやっぱり復活が早い。
「さあ、僕が聞きたいよ。多分余のリストカットの延長みたいなものだと思うよ。」
僕は頭を拭きながら答える。
正直説明しようがない状態なのだ、僕と余は。
「大丈夫なんですか?」
「は。」
父親の意味不明な質問に思わず笑いかけてしまった。
「大丈夫かって、そんな風に見える?」
笑いながらそう言う。
思ってもいないのに笑えてくる。
余が大丈夫な訳ないじゃないか。
「なら、きー、病院に、」
父親はまたそんな的外れなことを言った。
もう腹立つな。
「何言ってんの?僕の傷なんて唾つけとけばなくなる程度のものだよ。大丈夫じゃないのは余の方。」
僕は洗濯機にタオルを放る。
自分の中のことは落ち着いたけど、今度は父親について腹が立ってきたのだ。
あまりにも無責任だ。目にあまる。
「余ちゃん?でも、きー、傷が。」
立ち直ったとはいえまだ父親はどこか不安定だ。
「だから、それはそれほどじゃないんだって、確かに数が多いからひどいように見えるけど、一つ一つは浅いし、血だって殆ど出ないんだから、それにちゃんと消毒もしてるからほっといたらいいんだって。問題なのは余で、余の受けてる虐待で、それを何とかするのが先決だろ。」
僕は父親と目を合わせる。
否、睨んだのか。
「余はな。余は実の母親に殴られ蹴られて体中に惨たらしい傷が犇めいていて、やめなきゃいけないって分かっていてもどうしても我慢できなくなって左腕には自分で傷を作り続けて目も当てられないくらいぐちゃぐちゃになっていて、女の子なのにあんな、あんなひどい体で、それに僕の、僕の事にだって、いいと思っている訳じゃないんだ。何にも考えてないわけじゃないんだよ。この前は伸ばしていた髪も切るしか無くなってあんな短髪になって。」
父親はじっと僕の目を見据えている。
「そんな余がな、困って、混乱して僕に縋って、縋って来るんだから、それを受け止めないなんてないだろ。」
僕の声はだんだん荒んでいく。
ああ、もう、腹立が立つ。
「それなら何で言わなかったんです。」
父親は僕に挑むようにそう言った。
なんと責任感あるお言葉か。
「はあ、連絡なんて殆どつかなかったじゃないか。電話は出ない。メールも返さない。確実に連絡出来るのは一年に数回必要書類のやり取りとその時の手紙くらいだけ、母さんも父さんもさ。無責任だ。僕の事はお金さえ出してくればそれでいいかもしれないけど、余の事は、そうじゃないって、出てく前から分かっていただろ。それでエスカレートした事を何故言わなかったって、なん言ってんだよ。頭大丈夫?父さんも母さんも、出ていったときに余を見捨てたんだ。何で分からないんだよ。」
ここまで強く返ってくるとは思わなかったのだろうか。父親は唖然としている。
「なんだよ。なんか言えよ。」
僕は竟に父親を怒鳴る。
「きー、落ち着きなさい、分かったから。取り敢えず病院に行こう。」
父親はまだそれでもそんなことを繰り返す。
「結局またそれかよ。大人はすぐそう同じ事を言うな。ちゃんと話聞いてた?病院に連れていくべきなのは余で。僕じゃないんだよ。何とかしないといけないのは、余の母親なんだ。」
「いやでも。きー。」
「わかったよ。わかったわかった。連れてきてやる。そんで余を病院に連れていくんだ。でも僕は必要も無いし、絶対に拒否するからな。タクシーでも呼んで待ってろ。」
僕は脱衣所の入り口に立つ父親を押しのけて玄関に向かう。
父親は立ちつくしたままだ。
もういい、否、丁度いい。余だってもう決心したようだし、これがいい機会だ。僕が全部壊してやる。余と母親の関係も余と僕の関係もぶっ壊してやる。
そしてきれいさっぱりなくしてやる。
やっと踏ん切りついた。
余もどうせそのつもりだったんだいいだろう。
今から余の家に行って余を連れ出してそのまま病院に無理矢理押し込む。それで母親のことだって。
そう。
それがいい。
僕は玄関の土間に降りて雪駄をつっかけて扉を開ける。
すると同時に僕に向かって何か倒れ込んで来て、そのまま押し倒された。
僕は思わず受け止める。
「えっ、余。」
素っ頓狂の声が出る。
倒れてきたのは余だ。
余は自分の顔面の左顔を手で押さえたまま僕の上に倒れ込んでいる。その手の間からはぼとぼとと血が流れ落ちて僕の衣類に染み込む。
「あああ、余?」
僕は余を抱えて僕の上から退かし、仰向けに寝かせる。するとの顔面から手が滑り落ちた。
そこには左目の中から頰の中程辺りまで大きく深い切り傷が一本あって、そこから血液が溢れている。
「余!」
僕は再度叫ぶ。
思わず体を揺らそうとしてしまったが寸での所で思いとどまる。
僕は余の体を飛び越えて脱衣所までいってタオルを引っつかみ、同時に何が起きたか分からずに突っ立っている父親に「救急車。」と大声で伝える。
余の傷が胸より高くなるように抱えて壁を背もたれに座らせ、それから余の顔を押さえて血を少しでも止めようとする。
何だ。
何が起きている。
余がこんなになるまで虐待はエスカレートしていたのか。
今でさえこれだけ血が出ているのだ。余は自宅からの道中で相当の血液を失っているだろう。このままでは失血死も有り得る。
な、何とかしないと。
余が。
余が死んでしまう。
「余、大丈夫。大丈夫。だから、すぐ救急車来るからな。大丈夫だぞ。」
僕はそう言って余を励ます。
「余。余。今からなんだ。今からよくなるんだから、頑張れ、ちゃんと生きるんだろ。」
けれど血はどんどん流れ出してくる。
余が何か言おうとして顔を動かすから血が吹き出るのだ。
どれだけ血を失えば命が亡くなるか忘れてしまったが、このままでは危険な状態になる。
「余、なんだ、どうした。動いちゃだめだ。」
僕がそう言っても余は何かを言い続ける。
仕方ない。
僕は余の口元に耳を寄せる。
「おか、あ、さ、しん、じゃ。」
余は途切れ途切れにそう言ったように聞こえる。
「きー、救急車、連絡しました。すぐ来ます。」
父親は事態を正確に認識したようで電話に余の容態を間違いなく伝え始める。
父さんがいてよかった。
「父さん。ちょっと余の事頼む。血、出ないように押さえてあげて。」
僕は余の止血を父親にバトンタッチして自分の携帯電話をリビングから取って走り出す。
余は大丈夫だ。
ちゃんと救急車も読んだ。
大丈夫。
僕は玄関扉を開きたところで気にかかって一度振り返り余を一度見る。
余は全く僕の方なんて見ていなくて死にそうな顔色だ。けれどなんとなく状況が分かるようで、また少し小さく口元が動いたようだった。
なんと言ったかなんて全く聞こえなかった。けれど僕はそれを合図にしてまた走り出す。
余の事はこの上なく心配だ。
道には点々と血痕があって、それを見つけるたびに余の事が心配になる。
けれど僕は歯を食いしばって走る。
余は確実に「お母さん、死んじゃう。」と言った。自分があの状況なのに余はそう言ったのだ。なんとしてもなんとしても僕は余の家に行かないといけない。
今、余の母親がどうなっているのか変わらない。けれど、余はそれを伝えるためにうちまで来たのだ。そして余はそれを望んだ。だから僕は行くのだ。だって今まで余の望みを聞き続けてきた僕が今回に限って動かないわけがないだろ。
大丈夫、余は大丈夫だ。
僕はそう自分に言い聞かせながら走った。
余の家に着くと、その玄関のドアは半分開きっぱなしだった。
僕は迷わす家の中に這入る。
そして僕は呆然となる。
余の家の惨状に驚いたのだ。
所々に穿たれた穴のある壁。ゴミなのか何なのか分からないものが散乱した床。そして妙な臭いが屋内に漂っている。
余は週の半分もここで過ごしていたのか。外は手入れされたいるから気が付かなかった。
僕は雪駄のまま上がり、床やゴミの上に落ちている血液をたどってリビングらしい部屋に入る。
そこには大量の空き缶や空き瓶が転がっている。すべて酒が中に入っていた物のようだ。僕はそこのアルコールのにおいと酢のようなにおいに噎せ返る。
一瞬躊躇うが、そのまま血を辿っていくと奥にキッチンがあった。
そこの壁には血がべったりとついている。ここで余は切り付けられたようだ。
僕はそのままキッチンに入ると足元に何かぬるっとした感触を覚える。
それもやっぱり血だ。それは倒れた食器棚の下から流れ出している。
ここだ。
僕はそう思って、倒れている重そうな棚を起こす。
棚の中からたくさんの食器が流れ出して床に落ちてけたたましい音がなった。
やっぱり。
そこには長身の女性が倒れていた。
たぶん、余の母親だ。
また棚が倒れる可能性があるので僕はその女性の脇を抱えて引きずる。
頭から血が流れている。
僕は床の血で二、三度滑って転ぶが、何とか引っ張り出す。
僕はその女性を仰向けに寝かせる。
息もしていないし、心臓も動いていない。
「し、っ心臓マッサージ。」
余の願いを何としても叶えたいと思っていた僕は、余の母親の胸の上に手を置いて体重を掛けようとする。
その時の僕の視界の端に光るものがあった。
思わず僕はその方に注意を向ける。
それは包丁だった。
刃には血がべっとりついている。
そしてその柄は余の母親の手にしっかりと握られていた。心臓が止まってもなお離されていない。
ああ。
僕は床にへたり込む。
体中に付いた大量の血は少し乾きだしている。
ああ。
僕はなんて阿呆なんだろう。
もう、いいや。
僕は血の付いた手を浴衣のまだ乾いている所で拭いて床に放り出したままの携帯電話を拾う。そして震える手で電話番号を打ち込む。
「もしもし、警察さんですか?死体を発見しました。はい、死体です。」
余、ごめんな。
僕には。
読んでいただきありがとうございます。
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