転換、結果、夕食。
まだ夏休み真っ最中の昼過ぎだ。グラウンドや体育館、武道場では運動部が夏休み最後の活動に勤しんでいる。だから人が多い。
また、特別教室のある校舎では文化系の部活が占領しているから、授業でもなければ他の生徒は入りずらい領域だ。そんなところに余がいるとも思えない。
一応近くにいることも考えて、職員室や校長室、事務室のある職員棟も探したが姿は見付けられなかった。かといって全く行ったことも無いような校内の辺境にいるとも思えない。
どうせいつものホームルームだろう。
そう安直な見当をつけて、僕は職員棟から一般棟への渡り廊下を通じて教室へ向かう。平常授業の時であれば殆ど全ての生徒がそこで勉学に励み、多くの生徒が友人たちと親交を深め、一部の生徒が青春を謳歌している所だ。しかし、今は全ての窓が閉まりって、空気が澱んでいる。夏の熱気は人っ子一人いない校舎の中に充満していて、僕という異物を除こうと迫ってくるようだ。
二人分の鞄を持って僕は進む。
しかし、いつも、自分の過ごす教室へ入るとそこには僕の居場所があった。
今までずっと通り過ぎてきた他の教室や廊下とは違って大窓が一つ開いている。そこからは外から風が一筋吹いてきてカーテンを揺らしている。その風は僕の頰を撫でて熱気を優しく飛ばした。
やっぱり。
唯一ベランダに出ることが出来る大窓の向こうに小さくなった余の背が半分見える。
いた。
余はその窓斜め前に体育座りでうずくまって膝と額を合わせていた。ベランダのコンクリート製の手摺りのお陰で日は当たらず風も少しある所だ。けれど、流石に暑そうな体勢だ。短髪の隙間から項に汗が浮いているのが伺える。
僕は手近な机に荷物を置いて、窓からベランダに移り余の隣に腰を下ろす。
気付いているだろうに、余は微動だにしない。
泣いているのだろうか。
まあ無理も無い。
僕は余の頭に手を置き、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でる。髪は本当に短くなってしまっている。修学旅行で買った簪も渡しづらくて僕の机の引き出しの中で眠っている。
「ふぁぁわぁぁ。」
うおわあ。
なんだその声。どっから出した。
余は初めて聞くような、変に響く木管楽器みたいな声を出しながら顔を上げる。
「なんだ。泣いて無いのか。」
驚いた余の顔が少々面白い。
「うるさい。」
「ははは。」
余の文句に僕は笑い声で返す。
「まあ、うん。ちょっと困ってただけだよ。」
「そう。」
余は首を傾げて戯ける。でもまだ表情は硬く目や口元は笑えていない。いつも作り笑いを貼り付けている余がそう出来ていないというのは、あまりの受けた衝撃と今ある不安の重さが感じ取られて辛い。
これからどうしたものか。
まあ、暫時何とかなったか。
「あっ、そうだ。先生達と荷物、そのままだ。」
余はそのまま立ち上がって教室に戻ろうとする。
そんな無理しなくてもいいのに。
てか、先生と荷物は同列なんだ。
まあ、ああいうことがあった後にでもまた気丈であろうとする余の姿は、決して健気なものではなく、見ていて痛々しい。
「だーいじょうぶ。大丈夫。」
僕はそう言って優しく余の手を握って引き留める。
「ん?なんで?」
「とにかく大丈夫だからまあ座れって。」
僕に促されて余は不思議そうに元の位置に戻る。さっきまで余が座っていた位置は汗で染みが出来ていたけれど気にせずそのまま座っていた。
「でも荷物くらいは取らないと。」
「荷物なら、ほら、そこにある。」
僕は教室内を拇指で指す。
「ああ、ホントだ、ありがと。」
余は一度振り返って確認する。それから正面を真っ直ぐ前を向いて真剣な顔付きになる。しかし、落ち着いた訳ではなさそうだ。僕と余の会話が切れて刹那静寂が場を満たした。その間、余はずっとプリーツスカートのひだを弄り続けている。
僕は空を見上げる。
空は青く高い。まだ夏の空だ。
「ねぇ、きー。あの後、どう、なった?」
余は小さな声で言った。
申し訳無さそうだ。
「ああ、まあ養護教諭はなかなか納得してくれなかったけど、最後は担任が上手く収めてくれたよ。」
「そう、よかった。」
「校長は学校のことじゃないって言ったら、そこまで力を入れる気は無いみたいだった。」
「うん。でもよく誤魔化せたね。あの状況で。」
余は至極落ち着いた口調で話す。そこから焦りや不安を感じることは無い。
「なんだ、嘘言ったこと前提かよ。」
「違うの?」
余の顔はどうせそうじゃんと言っている。
「えっと、リスカの事は只の癖だし、最近減って来ているからそっとしておいてくれってのと、後はなんだ、時間をおいてまた話そうって言って、今日は解散にしてもらった。」
余は「ふっ」と軽く息を吐いてプリーツスカートをいじる手を離し、体育座りの前で手を組む。
「そう、ありがと。お母さんの事、黙っててくれて。」
余は静かに言う。
「いいよいいよ。」
「はあ、また、ちゃんと話しに行かないとね。」
「いや、まあ、それは適当に誤魔化して、バックレても、問題ないよ。そういう風な感じだったしさ。」
固執していたのは養護教諭だけだったし、担任も上手くやれば味方に廻ってくれると思う。校長はほっといたらいい。
そうしないと今のままではいられなくなる。
「そう。」
余は短く答えるだけだった。なんだろう、余はバレたことに焦ったり、不安に思ったりしているように思ったけれど、そうではないかもしれない。
やけに落ち着きはらってている。
「あれ、きー、きーの傷の事は?」
「ああ、なんか、ごちゃごちゃしてる間にみんな忘れたみたい。」
そういえば自分の事は途中から忘れられていた。
余のことに加えて自分の弁解までしなくちゃいけなかったら本当に大変だったろうな。否、無理だったに違いないか。傷の様相が様相だけに。
「そう。ごめんね。逃げ出しちゃって、ありがとね。」
余もベランダから覗く青い空を見上げる。
無表情。
余がこういう顔をするのは珍しい。そしたらなんだか怖い。
「いやいや。別に、一人だから誤魔化せたのかもしれないし、結果的には良かったよ。」
僕は余の様子に戸惑いながら答える。
「そう、ごめんね。」
余は再度謝る。
別にこれくらいいいのに。
余は自然体のまま顔を戻す。いつもの作り笑いを貼り付けている訳でも、「発作」の時のような狂った雰囲気を出している訳でもない。外なので「発作」は無いにしても、作り笑いを浮かべていないのは珍しい。僕の家にいる時、否、それよりももっと自然な、修学旅行で運河にいた時のような、素の余に限りなく近づいている風に見える。
しかし、僕はその様子に妙な不安を覚えた。
「まあ、先生達時間くれてよかったよ。後はなんて言ったの?」
「正直に言ったのは幼馴染だってのと、お前がリストカットを前からやってるってことくらいかな?」
改めていうと僕、本当の事全然言ってないな。
「うん。で、嘘の方は?」
「えっとな、時々僕が余の家にお邪魔してご飯貰ってるてのと、リストカットの理由はほんの小さな事だということ。あとは最近、リスカ減ってきているってことくらいかな。」
僕はべらべらと話す。
何だか話続けていないと心許ないのだ。
「ありがと、覚えとく。」
うん?
ああ、余は口裏合わせのために聞いていたのか。
「うん。」
「ありがとね。変なことさせて。」
余は静かに言った。
「だから、いいって。」
「ほんと、ごめんね。いつもいつも迷惑ばかりかけてさ。」
「いやいや、いいって一緒に暮らしてるみたいなもんなんだし。それくらいいいよ。」
余の声がしっかりとしていて弱気になって謝っている様ではなかった。その余の純粋さに僕は焦る。
僕の答えではなんだか僕と余が家族と言っているように思う。
否、それは無いか。
自分で思ったことの癖にすぐ否定。
「うん、今日に事だけじゃなくて、本当にありがとね。いつも私迷惑ばかり掛けてる。ずっとさ、ありがとうね。」
余は続けて、すっきりとした声で言い切った。
もう僕の全く知らない所で心を決めたような口調。何とかして現状維持を望んだ僕とは違い、余は動き出したということが言葉の端々に窺える。
この沸いてくる不安は何だろう。
足元がおぼつかないような、そんな気分だ。
「ああ。」
僕は喉が詰まったような声を無理矢理出して何とか答える。
余は僕を一瞥してから一度頷き、また前を向く。
「何だかいろいろあったし、そろそろ今の関係は限界かもね、ちゃんと前を見ないと。潮時かもね。」
余は小さいけれど、強い声で前を見据えて言い放った。
潮時。
余は真剣にそう言った。
ちょうどいい時、か。
確かにいいきっかけにはなったのかもしれない。
この時機を逃す手は無いとも言える。
僕と余の関係。
余と母親の関係。
限界なのはもうずっと前からだ。
どちらの関係を変えるのも余が少し振る舞いを変化すればそれで終る。終わらせるのは簡単だ。
そう、簡単なのだ。
残るのは僕と僕の両親の無関係のみ。
もうどうにもならないだろう。
僕にはどうにも出来ない。
余は何をするつもりなのだろう。
どう考えているのだろう。
まあ、どうなっても今の余のままではいけなくなるというのは明白か。
やっと余と母親の余が虐げられ続ける関係が終わりに近付くのだ。
これから大変かもしれない。けれど今までみたいにずっと停滞して、燻り続けていた状態がやっと終わるのだ。嬉しいことだ。
余の決心がつかなかったために動けなかった僕だって行動に移せるのだ。今までの願いが竟にかなう。
いつの間にか道をどんどん外れていった僕と余の人生を軌道修正出来る。普通の人間の道に戻れるかどうかは分からない。けれど、けれど余が実母に暴力を振るわれることも無くなるし、「発作」を起こすことも無くなる。これ以上僕がケガをする必要も無くなるし、余がそれに負い目を感じ続ける必要も無くなる。
それが出来る好機を逃がすのは惜しい。
だから、潮時だ。
余の未練でずるずると引きずってきた母親への期待を絶つのはいいことだ。と思う。
しかし、なんだ、この気持ちは。
余は今、自ら立って、前を向き、歩き出そうとしている。「発作」になんか逃げず現実に立ち向かおうとしている。
僕はどうだ。
僕はどうしているのだ。
今まで余の所為にして誤魔化し続けてきたいくつもの問題を。
僕はこれをどうする。
余が決心したのだ。僕が今まで何とかしなければいけないと思っていただけの事を自ら実行に移そうとし始めたのだ。
余を病院に連れていくこと。
教師や医者に助けを求めること。
そういうことは僕にもしやすくなる。
そうすれば余と母親が離れることが出来るだろうし、余の体の無数の傷もそれから僕のものもそのうち消えていくだろう。跡は幾らか残るかもしれないけど、最近の治療は優秀だ。レーザー治療かなんかで消えるかもしれない。肥厚性傷痕も白い跡も黒い跡も消せば余は整った容姿と優しい性格を持っている。人の道に戻ることは容易い。
それに頭もいい。大学は国公立に行けるだろうし、親の虐待という事実もある。だから給付金や奨学金は確実に貰える。いざとなりゃ、うちの親が勝手に支払うだろう。
自活だって出来る。人と繫がるのも僕より上手い。
そうして親の事なんて忘れて真面目に高校を卒業して大学に行く。それからいいところに就職して、いい人でも見つけて、子供も出来る。それから子供達には自分がしてもらえなかった分の愛情を十二分に注いで育て、年をとっておばあちゃんになれば孫もできて幸せに過ごし、みんなに惜しまれながらこの世を安らかに去る。まあ、案外一生大学に残って研究に身を捧げるようなこともあるかもしれないけど。それでもそういう輝く未来が待っているのだ。
祝福すべきことだ。
しかし、しかしだ。何だ、この僕の中で渦巻き始めたこの感情はなんだ。
この下腹から胸に湧きあがってくる濁った油のような重い感情はなんだ。
何が不満なんだ。
何が不安なんだ。
何を不快に感じている。
何、不幸に思っている。
今までずっと一人で生きてきたじゃないか。
余なんて僕にけがをさせるだけの奴だと思っていたはずだ。
なのに何だ、この気持ちは。
まさか淋しいのか。
余が一人で前に歩んでいく。さっきまで僕と同じところにいたのに僕だけが取り残されてしまう。それが本当の孤独に落とされるようだとでも思ってしまったのか?
ずっと望んでいた平穏を手に入れることができるのにいざそうなると分かれば怖くなったのか?
余は確実に前へと進みだしている。
僕は、僕はどうなる。
どうすればいいんだ。
ああ、余を祝おうという気持ちにはなれない。
ああ、僕は嫌な奴だ。
あれだけ望んでいたのに。
ああ。
ああ。
「きー。大丈夫?どうしたの黙りこくって。」
余はさっきまでの静かな感じではなく、いつもの調子で言った。家にいる時と同じ少しだけネコを被った状態だ。
「どうしたの?」
余は再度聞いてくる。
先程までの余の様子は気の所為だろうか。
余は決めたのではなかったのか。
でも余の様子に僕は安心する。
「なんでもない。大丈夫。」
「そうよかった。」
余のその声はいつもの元気な口調だったが、表情を見るとひどく誠実なものだった。
その声も表情もどちらも嘘偽りがあるようなものでは無かった。
まだ揺れているのか?
余は恥ずかしそうに笑う。
つくろったのか?これはつくろったのか?それとも本心か?
まあいい。
でも、余のそんな姿に僕は落ち着くのだ。
ふう。そろそろ僕も身の振り方を考えなければいけない。余が実際に動き出そうとしたら僕もまともに考えよう。
ああ、また先送り。
「あーもうさ。あーまーりー。今日は疲れた。学校は突然だし、養護教諭はデリカシーないし。はあ、もう今日はさっさと帰って寝ようぜ。うん?いや、夕飯作るのも面倒か。なんか外食しようぜ、久しぶりに。」
僕はそう言いながら余の腕を取って立つ。
丁度、サイフに金はある。
外食だ。外食。
いつぶりだっけか。忘れたや。
「ちょっ、きー。私、お金ない!」
僕は余の腕を掴んだまま歩き出し二人分の軽い荷物を取って教室を出る。
「大丈夫大丈夫。今日、僕持ってるし。」
「いやいや悪いって。」
余は僕に引っ張られながら言う。
「いいって、どうせ親の金だしさ。税金のこともあるし、貯金なんて出来ないんだ。だから使おう使おう。」
「でも、それはきーが使わないと行けないんじゃ。」
「いいじゃんいいじゃん。誰も調べねえよ。」
使い切らないと贈与税がかかるから一年以内に使い切らないいけない。学業に関することで。
「でも、やっぱり悪いって。」
「何が食いたい?お前どうせ柔らかいものだろ。ラーメンか?お好み焼きか?寿司なんてどうだ?ほら、選べ。」
僕は渋る余の言葉を無視して話を続けながら階段を駆け下りる。二人繫がったままなのでちょっと怖いけど何だかもう面白い。
「えっなに?」
余は付いてくるのに必死で聞き取れないみたいだ。
「ラーメンお好み焼き回転寿司!」
僕は叫ぶ。
全部バス路線の途中にあるショッピングモールの中や周辺にあるお店だ。
「ほら、答えろ余!」
「えっと、じゃあ回転寿司!」
余はもう知ったことかというふうに思い切り答えた。
「おっし、急ぐぞ急げ!もうバスが来る。」
「分かったから、分かった離して。腕、腕痛い」
僕は余からぱっと手を離す。
「ほら、行くぞ。」
僕は下駄箱からバス停までダッシュして丁度やって来たバスを止めて余を待つ。
田舎はいい。バスも待ってくれる。
それから僕らはまだまだ夕食客の疎らな回転寿司で、一人六皿ずつ食べてから帰途についた。最近行っていなかったから分からないけれど寿司ってもっと食べれるもんだと思っていた。
行きのバスも食べている間も帰りのバスも僕と余は徹頭徹尾笑顔を貫いた。二人共、妙な笑みだったけどそんなもんだ。
もう、僕と余の狂った関係は終わるのだろう。
先送りに出来るのもあと少し。
もうなるようになるだけ。
余も一気にことを進めはしないだろうし僕も少しずつやっていこう。
そう何とか前向きになる。
そうしてやっと家の玄関を開ける。
するとそこには父親が立っていた。
はあ、面倒な。
読んでいただきありがとうございます。
感想批判罵倒などなんでも喜びます。




