全裸、狂気、傷害。
一昨日の帰り道。空港へ向かうバスの中。長良が突然こんなことを言い出した。
「目ぇ覚ました時にさ、すげービックリすることってあるじゃん。」
いつもものをハッキリという長良が珍しく要領の得ない話し方をしたため僕は興味が湧いた。それに、修学旅行という特殊な状況で精神が昂っていたのだろうか。いつもなら「ああ、そうだな」と言って流していた話に僕は饒舌な答えによって反応した。
「ああ、詳細を覚えてないのに妙に怖い夢見た気がして動悸がある時とか、起きたらベッドじゃなくて床だったとかそういう事か?」
小さい頃なら寝小便をしてしまった時とかかな。
「まっまあ、そんな感じ。」
長良の答えはやっぱり要領を得ない。
「たまにあるよな。最近一番驚いたのは、あれだ、机の上でそのまま寝てしまった時に、起きたらちゃんと宿題が終わってた事だな。やった記憶ないのに終わってたの。」
「いや、それは知らんけど。」
長良はそう流してこっちに向き直る。
「俺さ、今朝さ、起きてからすんごい驚いたんだ。」
長良は小声でそんなことを言う。
いや、人の情事なんて聞きたくねえよ。
「おい、それは話していいのか?ほら、夏穏さん的に。」
僕はそう諌める。
そう言えば僕、今日一日で乙坂さんと読んでいたのが夏穏さんと呼ぶようになっている。
珍しく人と仲良くなったな、僕。
「いやさ、それが、もう笑い話にしかならん感じだからいいんだよ。かっこ悪いの俺だし。ほら、なんで今日一日夏穏にチキンくんって呼ばれてたと思う?」
「さあ?なんか臆病なことでもしたのか?」
長良は僕の質問に少しだけ間を置いてから呟くように答え始めた。
「俺、俺な、昨日の夜さ、タイミングとか考えてたらさ、いつの間にか寝落ちちゃっててさ、結局さ、肌さえ触れずに一晩過ごしちまったんだよ。もう、朝、驚愕。なんで俺、ぐっすり寝てんのって。」
絶句。
無様なりけり。
いかんいかん、思わず古語が。
昨日の昼間デートして、そこから友達に部屋まで取り替えて貰うという最高のお膳立てがあったにも関わらず、そんなことになっていたとは。
何やってんだよ。
チキン。
「それで夏穏さんずっとチキンチキン言ってたのか。」
「ああ、朝、夜明けとともに殴り起こされたんだけど、殴って起こされたのも、自分の失態にも驚いて三分くらいフリーズしたからな。しかもそれからずっと一切名前呼んでくれないの。」
そりゃご愁傷様で。
「ああ、もう、今日の朝、と言うか昨夜の自分には心から説教したい。」
長良はそれからの帰り道、ずっと嘆き続けていた。
僕はその時ユーモアのある冗談やナイスなアドバイスなど全く思いつかなかったので、「まあ、頑張れ!」と応援することくらいしか出来なかった。
しかし、今は違う。
今だったらこう答える。
「いやいや、確かに彼女と同室で何もせずに朝を迎えたら、それはそれは驚くだろうけれど、逆に、朝起きて彼女でもない美人の幼なじみが隣に寝ていたら、それはそれはもう、びっくり仰天、心臓飛び出すぜ。」
うん、今だったらこう言えるな。
例え半同棲しているような奴が、でもだ。
朝起きて目と鼻の先に目と鼻があったら驚くし、その上寝息で頰を撫でられれて起こされたと気付けば驚愕すること間違いなしだ。
確かに思春期男児にとって美人、幼なじみ、寝顔という三つのワードは大変魅力的なものだ。けれど、それが予期せぬ場合、どういう状況なのが全く理解出来ない時、混乱するしか無くなる。就中、自分と相手の距離を計りかねている場合だったりすると、それはもう消えてしまった方が良いではないかとすら思えてくるのだ。
否、まあ、そこまでではないけれど。
僕は脳味噌をぐちゃぐちゃにしながら、ほとんど触れるか触れないかという所でうつ伏せに寝て、こちらに顔だけ向けている件の相手を眺める。
余だ。
まあ、余以外とこんなことになる可能性など皆無なのだけれど。一々言うのもおかしい話か。
一定の速度で、息をする度、揺れる余を見ていると次第に落ち着いてきた。
うん。ここ数日の度重なるハプニングで肝が据わってきたようだ。一驚しても心がすぐに鎮静に向かうようになった。人間、経験値が溜まるとスキルを手に入れることが出来るらしい。
よく考えたらここ数日の間。デートをして、ホテルの同室で一夜を過ごし、遂には同衾までしたということになる。
カップルであれば本当に順風満帆だなあ。
残念なことに仮定はただの仮定なので残念なだけだが。
ああ、彼女欲しいな。
いやまあ作る気は無いんだけども。
余は僕がゴソゴソと姿勢を変えても全く起きる気配がない。熟睡だ。
狭いシングルベッドにそこそこ育った人間が二人も寝ているのだから、身動きもままならない。しかも僕は壁側にいる。そのため余が邪魔で、ベッドから出ることも出来ない。
とりあえず現状確認。
僕は上半身を起こす。
そのまま戻る。
はぁ。
余は裸だった。
ほぼ全裸。
身につけているのは白いショーツのみ。
さっきから普通普通うるさいけれど、普通の男子高校生であれば気がついた途端、唯でさえ増えている心拍数がさらに跳ね上がって、もう理性を抑え込むことなど出来まいとなるのであろう。しかし、ここは僕と余の関係。狂って歪な関係を持っているおかげか僕はそうならなかった。
妙に、否、唯、納得しただけだ。
ああ、『発作』かと思っただけである。
余はそういうつもりで来たのだろう。
もう僕の先程までの焦りなどどこかに飛んでいっていた。今から出来るのはこれから起こることに対して覚悟するぐらいだ。
覚悟?
覚悟ってなんだ。『発作』の時の、狂気に飲まれた余を受け止めることか?
それとも傷付けられる自分の体を思ってのことか?
そんなこと、余との形容し難い関係が始まった時からずっとしてるじゃないか。何を今さら宣っているのだ。
否、そんなことはない。それはただの後付だ。そんなことした覚えはない。唯、なし崩しに受け入れているだけだ。
けれど、改めて覚悟をしようと言うのもおかしい事だ。
まず、何を覚悟するのか?
それに覚悟ってどういう意味だ?
僕にはもうそれすら分からない。覚悟?笑止、そんな空っぽなものなどない。先のことなどその時になるまで分かるまい。心を決めたって心が揺らぐことがある。起きないことだってある。だから、意味なんてない。
僕は覚悟なんてせず、唯待つだけだ。これから起きうることを予測は出来る。出来ることには出来るがそれはあくまで予測。実際どうなるかは神のみぞ知るだ。
もしかしたら普通に「おはよう。」とか言って起きだすかもしれない。
もしかしたら余が起きた時が僕の死ぬ時となる可能性だって捨てきれない。
覚悟をしてそれとは違った時、僕は受け入れられなくなるに違いない。だから僕は待つだけ。
僕は再度上半身を起こして寝ている余を見下ろす。
すやすやと安らかに眠る余はとても美しい。愛おしさすら覚える。
否、そんなことは無い。
一昨日、余の言っていた腰のあざは思っていたよりも大きい。もう青っぽくなっているから放っておいても治る傷と分かるけれど、それでもだ。他の前から見受けられた傷は殆ど治りかけている。
しかし、新しい傷はそうではない。今回のは中々酷い。うっすら血も出ている。
だからこの状態を以て美しいと評するのは余に失礼だ。それに、僕の感性が疑われかねない。
僕は余の下着を少し持ち上げて中を覗く。
すると余の小さなおしりが露になる。
うん。臀部に傷は無い。
腰の大きいあざはまだ腰と言える範囲には収まっているようだ。
お尻を見たついでにもうちょっと覗こうかと魔が差したけれど、うん、そこまですると流石に余も起きてしまいそう。自粛しよう。
僕はもう一度寝転んで余の顔を見る。
目が合った。
しくった。
僕は余に頑張って笑いかける。
否、笑えてないけど。
余の奴、狸だったのか。
気まずい。
尻なんか見なきゃよかった。
余はいつもの如くニャッと笑う。ああ、美人で整った容姿にこの悪い笑みは似合う。怖い怖い。
「へーんたい。」
はい、申し訳ございません。
どうせ寝てるだろうと思ったんです。
反省はしてません。
後、後悔も。
でも、余さん。あなたも大概です。男子のベッドに半裸で潜り込むもんじゃありません。
そんな僕の不満をよそに余は両の手をのばし僕の首に巻き付けて僕に接近してくる。それから僕の肩に首を乗せて、すぐそこにある肥厚性傷跡を噛み切る。
痛い。
これは絶対血が出た。
すると余はすぐに僕から離れる。膝立ちになりベッドの上をまさぐって何かを探しているようだ。
僕は肩から流れる血を抑えながら肌脱ぎに刃って、浴衣に血痕が付かないようにする。
まあ安物だし、いいっちゃいいのだけど。
その間に、余は薄い掛け布団の中から目当てのものを見つけたらしい。
嬉しそうに僕の方へとにじり寄ってきた。
手に持っているのはもちろんカッターナイフ。僕の体へ数多の傷を残した犯人だ。
まあ、予想通りとはいえ自分の寝床に刃物が紛れ込んでいたとは、僕は戦慄する。
「ねぇ、きー。まぁた怪我しちゃった。」
余はそう言いながら、胴へ新たに加わったループ状の傷、それから打撲痕を僕に見せびらかしながら左手で撫でていく。
一通りそれが終わると次は、左腕を前に突き出してカッターナイフをそこに当て、僕に見せつけるように何度も何度も線を引く。そして、その度にポツポツと赤い点の列が生まれる。
余はその間ずっと僕の目を覗き込んでいる。訴えるような、救いを求めるような、そんな痛々しい目だ。
お前は私が傷付く様を見続けられるのか。
早く私を助けてくれ。
その二つの言葉がその目から発せられているように思う。
少しその状態でいると、今度は手を振り上げて自分の腕にナイフを突き刺そうとする。流石にそこまでいくと個人で対処出来なくなるだろうし、余の命に関わることになりかねない。
僕は余のか細い手をつかんで止めさせる。
これもいつものこと。
余は待ってましたと言わんばかりにまたあの悪い笑みを浮かべ、それから、僕の腕の中に体を収める。
僕の胡坐の上に前向きに抱き着く姿勢だ。
余はその姿勢のまま、僕の肌を確かめるように撫でつつ、肩から流れる血を例のごとく舐め取る。
美味しいものでもないだろうに。
僕はそう思いながら余の行動を受け入れる。
少しの間そうして大人しくしていた余だが、今度は僕から少し離れて、自分の腕から流れる血を舐める。
それはまるで必死に確かめるようだ。
同じ血が僕ら二人に流れていることを。
赤い黒い血が。
鉄の味のする血が。
僕にも殆ど同じものが流れていると確認し、自分は一人ではないということを確かめているようだ。
僕は余が舐める度にヒリヒリと痛む傷口を感じつつ、余が乗ってきた事で不安定になった体勢をどうにかしようと考える。体重こそ軽いもののまだ僕より開いている成長曲線を持つ余を支える力は僕の身長と体重には無い。実際十センチも身長差は無いのだから。
僕も平均身長より少し低いくらいだからちびでは無いのだが、如何せん余がでかいのだ。
僕は結局、少し体を倒して斜め後ろに手を付く。
余もつられて前へとつんのめった。
そして、僕の体に衝突すると共に、むっと不満の声をあげる。
「起きて。」
その体勢のまま、有無を言わさぬハッキリとした口調の要求をした。
詮方なし。
僕は元の姿勢な戻る。
不安定な状態で刃物を持つ余と接近しているのは、流石に、生命の危機を感じる。僕は余の胴に手を回し自分の手同士を繋く。
幾分かは安定したけれど、もう完全に密着した状態だ。
僕の胸に余の胸が押し付けられてペタンコになっている。否、元々ぺたんこだ。
こいつの胸が小さいからこんなに密着出来るというのもあるだろうから。
そんな失礼なことを考えながら僕はぼーっとする。
年頃の女子とここまで密着しておいて何も感じない自分はどうなのだろう。一応、男性としての機能は備えているのに全くだ。
まあ、理由は完全に余の体の状態への心配と、抱きつかれながらも相手が刃を持っているという状況への恐怖なのは間違いないのだけれど。
それらが無かったら欣喜雀躍、喜び勇んで飛びつこうものなのだが。
僕の背中の左下にヒンヤリとした感覚が生じる。主に余の新しい傷が増えた場所だ。僕の視界にも余のその場所に新しく出来たループ状のミミズ腫れが沢山見えている。
余はカッターナイフを横に引く。
痛みは殆ど無い。
傷が浅いのか、歯の切れ味が鋭いのか、それとも僕が狂っているのか、理由の何たるかを決定することは出来ない。全部かもしれないし、案外ただ単にアドレナリンのお陰とかいう科学的事象かもしれない。僕が覚えるのはヒンヤリとした何かが背中を動いている感覚だけだ。
血はそこまで沢山は出ていないと思うが、浴衣に付かないことを祈る。
余は僕の肩に顔を置いていて、耳と耳とが触れるか触れないかというくらいの近くにいる。だから、逆にどんな表情をしているかすら確認することも出来ない。
どんな表情をしているのだろうか。
うん。何だか真面目に悲しみを受け止めている表情をしているような気がする。あの悪い笑みでは無く。否、僕がそうあって欲しいというだけだ。勝手な押し付けをしてはいけない。
余はだんだん線を引く時間と場所の間隔を狭くしていく。あせっているのか?否、苦しいのか。
傷はいつものように粗方平行に並んでいる。唯同じ所を引かれると引き攣るような痛みを感じる。
こう、何度も「発作」に付き合っていると、程度というものも何となく分かってくる。今回は何度も何度も同じ所を傷つけてきている。今回は相当重いものだ。
修学旅行から帰って母親と何かあったのだろう。
執拗に同じ所ばかりに傷が出来ていくので、今日は出ている血の量が多い。治るのも遅いだろうな。
余は僕の背から流れた血か、余の左腕から流れた血か、何だか粘度の高い液体を僕の背に塗りたくる。
まあ、本人としては背中を撫でただけなのだろうけれど。結果的に血が広がっただけだろう。
僕はそのぬめぬめする不愉快な液体を感じながらカーテンの開いた窓から外を見上げる。
いつぶりだろうか、こんなに空が明るいのは。ああ、あの日だ。外で体育が出来た日。雲に覆われていない青い空を見たのは久しぶりだ。今日はいい洗濯日和だ。
余が幾重にも僕の傷を増やしている間、そんなことを考えて時間を潰していた。まあ、現実逃避かな。
僕の傷は出来たそばから上をまた傷つけられたり、乾きそうなところを撫でられたり。だから、血が出始めたら止まりにくい。失血死するように大量に出る訳では無いけれど、こんこんと流れ続けている。余がそれを弄ぶ所為で、僕の背中は血が広がって薄い褐色になっているに違いない。
僕は空から視線を落として余の背を見る。そこにはせっかくほとんど治りきっていた打撲痕の上に赤くなったコードの跡がのたうちまわっている。一部は血が滲んでいたり、紫色に変色していたりして気色悪い。
普段は突き飛ばされて何かにぶつかったような傷、手近なものをぶつけられたような傷、それから平手で叩かれたような傷が大半で、それに一度に増えるものも一つ二つだ。しかし、今回は違う。何度も何度もコードで滅多打ちにされたようだ。いつもより重症。
ここまで醜状な傷つけられ方は初めてかもしれない。
腰の痣もまだ痛いようだし、もしかすると最近エスカレートし始めているのかもしれない。
大事になる前に何とかしなくては。そろそろ、大人に頼る頃合いかもしれない。
まあ、結局余は嫌がるに違いないので無理な話だけど。
余と母親の関係が何故こんなにも訳の分からないものになってしまったのだろうか。父と兄の死というものが理由なのは違いない。けれど、元からネグレクトを受けていたという事実もある。だから、今の状態はそれがエスカレートしたのだともいえる。しかし、何故兄をあれほどまで可愛がり、どうして余を放置していたのだろうか。
この偏愛は何だろう。
駄目だ。
理由なんて考えちゃいけない。混乱するだけだ。
だってその事に意味は無いのだから。
今、余が母親から暴力を受けていて、それによって溜まったストレスを僕が引き受けなければ持たなくなっている。
その事実だけで十分だ。
あと、それからその問題を解くのに最適な解を僕はまだ知らないということくらいか。
学校の教師、医者、それから公的機関などに頼れば取り敢えずの解決は確実だ。時折、それとなく勧めてみるのだが、明確に拒否の態度をとられる。ハッキリとしたことは言わないけれど、どうしても納得出来ないような感じだ。
実際、被害が出ているのだから納得出来ようが出来まいが、関係なく対処すべき案件だと思うのだが。それでも余は母親との関係改善をしたいと思っているのだ。今さら何がどうなるというものではないだろうに。まあ、唯一の家族に縋りたいという未練が分からないことも無い。否、そんなことを言ってるからこそのこの狂った関係か。
余は僕に数十の薄線を引いた。
既に峠は越えたようで、線を引く速さが遅くなっている。
それにしたがって余はだんだん強くしがみついてくる。すると密着した余の胸から鼓動が響く。
それは速く大きい。余にも鼓動を速くさせるような気持ちがあるらしい。そんな素振りは全く見せていないのに。
そう分かると何だか無機質な物と捉えていた余の狂気が、そうでもないように思えて、付き合っていた僕の心には隙が出来てしまう。
余は何を考えているのだろうかと。
否、違う。
感情があると頭では理解していたはずだ。
この何も話さない「発作」の間、意識を失うかのように僕が無感情になっているだけなのだ。余に感情が無かったのでは無い。僕が無感情になっていただけだ。僕が受信出来なかっただけなのだ。
そうして今、余の鼓動によって気づかされた僕の感情は、余との狂った関係によって築かれた感情は、それは不安、なのだ。台風の日に雨戸の無いガラス窓が揺れるのを見ているようなどうしようもない不安だ。
僕は何をしているのだろう。
余は何をしているのだろう。
何、大切で、輝いていて、バラの色にまで例えられる人生の春とも言うべき青春を捨てて、訳の分からないことをしているのだろう。
何の所為だ。
誰の所為だ。
何を何のために何故、何で、どうしてこんな事になっているのだ。
僕はどうすればいい。
余はどうすればいい。
この行き詰った所からどうしたら出られるのか。
何をどうしたらどうすればいいのか。
分からない。
訳が分からない。
分かりたくもない。
ダメだ。駄目だ。だめだ。
考えるな。
不安なんていつもあるじゃないか。
感じるな。忘れろ。
大丈夫。大丈夫。
ほら、大丈夫なんだって。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
僕は自分の鼓動と呼吸が余のそれにつられて早くなるのを感じる。
もう余は僕に線を引くことをやめていて、強く僕にしがみつくばかりだ。
余と僕はどんどん近づいていって。もう殆ど一体となるばかり。
僕は余の鼓動が強くなるにつれ、また不安を増殖させる。
言いようのない。ただ、心を覆われていくようなそれを「大丈夫。大丈夫。」と心の中で呟いて少しずつ少しずつ消していく。
それでも不安はやっぱり増していくばかりだ。
余の手放したカッターナイフが目に入った。それには僕の血だか余の血だか分からない緋色の鮮血がべったりと付いている。
僕は手に取る。
そうしてそれを自分の首に押し当てる。
このままこれを突き立てれば全てから逃げることが出来るのかもしれない。
そう思うとなんとなく穏やかな気持ちになる。
もう、いいかな。
ピーー。ピーー。ピーー。
甲高い電子音が響く。
目覚ましだ。
僕はその音に驚いてカッターナイフを取り落とし、余は僕から離れる。
やっと正気に戻ったようだ。
僕は自分のしていたことに驚き恐怖を感じる。でも、そんなことは刹那で、正気に戻った余と余が離れたことで不安が取り除かれたことで安堵した。
余は二人分の血液を体に帯びている。白い肌に点々と赤い斑模様が浮いている。
余は少し申し訳なさそうな顔色をして俯いていたが、僕が何となく余の手を握るとビクッと驚いて恥ずかしそうな表情を浮かべて、ベッドから飛び降りて部屋を後にした。
僕は、まあそんなもんだろうと思いながら自分の体とベッドの惨状を確かめる。
傷はやっぱり浅い。まあ、数が数だけに血は結構出ているけれど。
ベッドには薄く余の手形が出来ていたり、ポツポツと血痕があったりした。
僕は血がつかないように浴衣を脱ぎ、血痕の出来たシーツを剥ぐ。これから血手形のある布団で寝るのかと少々厭になるが、まあ、仕方ない。一層の事もうとことん汚してやるか。僕は剥いだシーツで体を拭う。
どちらの血か何て分かりっこないけれど。もう互いに血が混ざってしまうことは諦めた。どちらかが病気を持っていたらとかは考えない。死なば諸共、それまでだ。
シーツを肩にかけて階段を降りていくとシャワーの音が聞こえた。余が浴びているのだろう。僕も体を清めたいけれど流石に正気な余の所に乗り込もうという気概も甲斐性もない。とりあえず閉じている脱衣所のドアの前にシーツを放置して水でも取ろうとキッチンに向かう。
まあ、田舎のお陰か、それほど不味くはない水道水をコップに一杯、口に含む。
それから何となくトイレに入るとシャワーが止まる。そして、余りが浴室を後にする音が聞こえた。カラスの行水のような早さだな。
僕はトイレのドアを少し開け、一応余が残っていないか確かめてから脱衣所に向かう。何となくトランクス一丁で出くわすのは恥ずかしい。
浴室内はほんのりと血と石鹸の香りがする。否、血の匂いは自分の体からかもしれない。
シャワーの栓を開くと少し赤みがかった水が排水口へと流れ込む。優しく体中に付着した血を落としてすぐに浴室を出る。
そこを出た脱衣所には消毒液と大きいサイズのガーゼなしの絆創膏、それから新しい浴衣が用意してあった。余りがしてくれたのだろう。
僕は鏡を駆使して処置を始める。
もうすぐ十時か。
そろそろ荷物が届き始めるかもしれない。




