第二部第二十九章
さてその盛高はというと……。
彼は、ゆきとの関係が親密になるにつれ、ますます、自身の過去を封印しようとしている自分に時折気がついていた。
それは何とも不可解な感情ではあった。
本当は、愛する人には自分の全てをさらけ出したかった。――実際、ゆきは自らの過去を盛高には包み隠さず、すべて打ち明けていた。盛高も、慈円に近江佐々木家の再興を促され、この人、ゆきとなら、近江の故郷で一から出直しを図れるかもしれない、と淡い期待を抱いてもいた。
「自分の全てを知った人であって始めて、将来の伴侶としても考えられよう!」
そう思うと、『今度は話そう』と決意するのだが、会うと決まって、その告白を、何かが邪魔をするのであった。
その、何か、とは……。
彼は無論その正体を掴んでいた。
それは、今でも時折彼を襲うあの、悪夢であった。
轟々と音を立て、迫り来る猛火……。
湖から聞こえる妹の叫び……。
彼の肉親を奪い、今も自分を苦しめるこの夢の張本人である、時実---彼を見つけて、この手で切り裂かねば、この悪夢からはやはり逃れられないのか、と思う。
ゆきと出会った頃は、彼女の可憐さが、自分をこの悪夢から救ってくれるのか?と思った頃もあったが…。
しかし、実際は違った……。
「結局のところ、いくら奇麗事を並べても、この過去と決別できない限り、この悪夢と決着をつけない限り、自分の新しい人生などありえないのではないか!」
その思いが彼を苦しめる。
しかし、敵と狙う、時実の消息は、杳として掴めない。
「やはり復讐など諦めるしかないのか」
そう思っても悪夢はやはり襲ってくる……。
苦悩に打ちのめされる毎日が続く。
そんな盛高に最近、さらにもう一つの悩みが加わっていた。
それはゆきからの手紙である。
「盛高様。お手紙でございます」
盛高に書状を手渡したのは、新しい従者の清兵である。前の従者である六郎は、その吹き矢の才能を買われ、後鳥羽院の直属の護衛者として召し上げられてしまっていた。
その代わりにあてがわれた従者が彼である。
長年苦楽を共にし、何事も阿吽の呼吸で通じた六郎とは比べようも無いが、彼は彼で、盛高に精一杯の忠誠心で仕えていた。また、盛高もそれを評価していた。
「ご苦労」
と言って、書状を受け取ると、彼は封の裏面を一瞥するや「いつものように処理してくれ」と言いながら、清兵に、それをそのまま返した。
「承知」
と返事をすると、彼は書状を携えて盛高のもとを辞した。
残された、盛高はぽつりと呟いた。
「困ったことだ……」
恋人からの手紙に対して、「困ったことだ」と言う、この盛高の呟きには無論理由があった。
実は、手紙は自分宛に来たのではない。後鳥羽院の女御、伊賀局、亀菊に宛てたものである。---彼はゆきと女御様との仲介役になっていたのである。
決して悪いことをしているのではない、ということは十分理解しているつもりであった。
自分の恋相手が、たまたま院の女御様と知り合いであっただけのことである。その手紙の仲介をしているだけだ。しかも局様も同意の上である。
そう考えれば、責められる行動ではない。
しかし……。
実は、最近、後鳥羽院と、伊賀局様との関係は微妙であるとも噂されていた。
局側にすれば、後鳥羽院がもう若くは無い自分を顧みてくださらない、との言い分を当然持っていた。だからこそ世をはかなんで、敬虔な阿弥陀信者になったのだ、と。
後鳥羽院は、その反対で、伊賀局が阿弥陀信仰に走り、そのため現世の自分への関心を失ったのだ、との不満を口にしていたのである。
そんなことが原因で二人の関係は急速に冷めているとも……。
男女の関係はいつもこんなものであろうが……。
しかし、この二人の関係のこじれは、所詮は男女のありふれた問題、という域を超えてしまっていた。
それは、昨今、伊賀局は阿弥陀信仰の中でも、特に法然の教えにひどく関心を持っていると噂されていたからである。
後鳥羽院自身は、もともと阿弥陀信仰に対して、否定者でも肯定者でもなかったろうと考えられる。叡山と法然一門の対立にも無頓着であったと言えよう。
彼は、熊野詣を幾度と繰り返す敬虔さを持ってはいたが、それも、信仰心からというよりは、神秘な力を求めて、と言ったほうがむしろ適切ではないかと思う。
しかし、天皇親政を希求する立場から言えば、朝廷に無理難題を突きつけてくる南都北嶺の力を何とか削ぎ落とせぬか、という思いは、ある意味利害を異にする摂政九条良経とも共通であったろう。敵の敵は友、この観点からは、おそらく両者は共に法然一門にある程度好意的であったと考えて妥当ではないか?
実際、良経が、叡山、興福寺からの、法然一門への苦情を聞き流していたことを、後鳥羽院自身も見てみぬ振りをしていたふしがある。
一方、後鳥羽院が目指す天皇親政の実現には、鎌倉幕府はまったく邪魔な存在であった。そして、この立場からは、法然の阿弥陀信仰は対立する存在といえた。なぜなら、東国の有力な武士達には、法然の教えに共感して阿弥陀信者となる者が多くいたからである。
朝廷、院、幕府---彼らの複雑きわまるこの権力闘争にいつしか巻き込まれていっていることを、法然一門も、また対立する南都北嶺も十分には理解していなかった。
そして、そのことが後日の不幸な出来事を生もうとは、誰も予測しなかったであろう。
盛高もまさか、自分がその渦中に置かれることになろうとは思ってもいなかったろう。
彼は、ゆきの素朴な阿弥陀信仰には何の反感も持ってはいなかった。その素朴さにむしろ好感を抱いてすらいたのであったから…。
しかし、時代は、明らかに、この素朴な信仰心をも押し流そうとしていた。
すなわち……。
元久元年(千二百四年)法然並びに門弟らが署名した七箇条の起請文が、叡山に提出されたことで、叡山と法然一門の関係はいったん小康状態を保っていたが、年が明けると、叡山に代わり、南都、中でも興福寺が法然一門への非難攻撃を強めてきたのである。
彼らはかなり強硬であった。朝廷まで、度々特使を派遣しては、専修念仏の禁止を訴えていた……。
「明日にも僧兵を大挙引き連れ朝廷へ直訴に来るらしい」
そんな都人たちの噂を、盛高も耳にしていたし、都を覆うピリピリした空気も直接感じ取っていた。
そして、その緊張感は、ここ院の御所の中にも漂っていた。院の御所全体が、都同様、何か重苦しい雰囲気に包まれていた。
そんな中にあって、盛高は、最近、御所の中で六郎とたまに目を合わせると、六郎が以前の快活さをすっかり失っていて、自分から目をそらそうとすらするのを、ひどく不審に思っていた。
声をかけてもうわの空で、返答すらないこともあった。
「どうしたのだろう?」
原因は何か……。
「御上の直属の護衛を命じられて、責任感から重圧に潰されているのか? 」
そんな苛立ちも感じつつ、ゆきからの手紙の件の処理で、また不安を覚えながらも、盛高は、一人になりたくて自分の部屋へ戻った。
一人になると、ゆきのことを考えた。彼女の笑顔を思い起こすことで、この荒んだ心を少しでも和ませようとするのだが……。
しかし、夜になればやはりあの悪夢は襲ってくるだろう!
「何とか決着をつけられないものか」
そんな思いで、悶々としていると、そこへ清兵が現れた。そしてこう告げた。
「お手紙、無事に届けました」
「そうか……」と言う盛高の表情が、いつに無く険しいのを清兵は見て取った。六郎と違い、清兵は盛高の過去については多くを知らされていなかった。---噂程度でしか聞いていない。
それでも、彼なりに主人への気遣いの言葉をかけた。
「御気分でも?」
盛高は、清兵が、彼なりに精一杯の忠誠心を示そうとしているのを感じた。
「いや、何、心配ない……」
この者に言ったところで何になろう、という思いもあった。しかし、いらぬ不安は与えない方がよい……。
自分は防鴨河司副長官である。弱気を見せてはいけない。
彼は気を取り直すと、言った。
「清兵、もう一仕事、わしに付き合わんか?」
「はあ?」
そう言って戸惑う清兵に、盛高は言葉を続けた。
「悪人退治に、いま少し、町へ繰り出そう!」
「今からでございますか?」
確かにもう日暮れ近かった。しかし盛高は重ねて言った。
「行くぞ!」
清兵はともかくも主人の命に従うしかなかった。
「すぐ、準備をいたします」
「そういたせ!」
盛高は、仕事に邁進することで、時実への復讐心を何とか封印出来るのを知っていた。
「自分は職業軍人、考えることは不要、ただ、都の治安を守るのみ」
彼は身支度を整えると、清兵と共に都大路へ繰り出した。
いつもの颯爽とした馬上の彼がある……。
すでに容姿端麗、武芸の達人ということで、特に都の若き女子の間では、彼は大きい噂、憧れの的になっていたのである。
無論、都大路を駆け抜ける彼の、そんな心の内を知る都人は、誰一人としていなかったであろうが…。