第二部第三十章
元久二年十月、ついにその興福寺が動いた。
昨年の、叡山における法然一門への糾弾の動きは、法然が登山状と七箇条起請文を提出することで、すばやく事態を沈静化させるのに成功したが、今回は院の御所に興福寺から直接、奏状が提出された。
彼らの要求は専修念仏の禁止、加えて、法然門弟の処罰すら要求している。――事態は前回より明らかに深刻化している。
唯一の救いは、院の御所宛に提出された、この奏状であったが、ひとまずは摂政九条良経のもとに留め置かれたことである。父、九条兼実が強く法然に帰依していたこともあり、彼は、一旦この奏状を手元に留め置いたのである。
この消息は、無論吉水の里にもすぐに伝わった。
「行空が破門されるらしい」
「止むを得まい。彼らの一念義が、南都北嶺の大きい怒りを買っているのは事実であるし、実際、彼らの主張は行きすぎている。――そんな彼らに自由に念仏布教をさせていた上人の優しい性格が災いしたとも言えようぞ」
「確かに……」
そして、ここまでの圧力を受けてやむをえなかったのであろう……。行空は破門された。法然にしては珍しい厳しい処分だった。
「興福寺の怒りを抑えるためにはここはいったん……」
弟子思いの法然の性格からすれば、苦渋の決断であっただろう。
こうした法然らの対応を見て、その年の十二月に九条良経は宣旨を下した。
曰く、「傾年、源空上人、都にあまねく念仏を勧む。道俗多く教化に赴く。しかるに今、かの門弟の中に、邪宗の輩、名を専修にかるを以って、咎を破戒に顧みず。是れひとえに門弟の浅智より起こりて、かえりて源空が本懐に叛く。偏執を禁あつの制に守るというとも、刑罰を誘諭の輩に加わることなかれ」
良経が作成したとは言え、形式的には無論、後鳥羽院の院宣である。興福寺も一旦は矛先を収めるしかなかった。
こうして、ひとまずは、事態は沈静化に向かったかに見えたが、興福寺は朝廷への圧力を緩めることは無かった。彼らは九条良経の下した宣旨に不満を募らせていたし、中には法然一門を根こそぎ撲滅せよという急進分子も多くいたのである。
連日のごとく、興福寺からの使者が朝廷を訪れた。
こうした彼らの圧力にさすがの九条良経も抗しきれなかった。やむなく、年が明けて、建永元年(千二百六年)二月、彼は安楽と、行空に召し出し状を発することになる。行空については破門は形式的に過ぎぬ、その過激な一念義を完全に封印する必要があるということ、また安楽については、六時礼賛興行はみせかけで、そこを訪れる女人達を相手に女犯をほしいままにしている、厳しく処罰すべきだということであった。
無論、この報せは、すぐに安楽、住蓮が今や拠点としている鹿ヶ谷の精舎にももたらされた。
しかし、安楽はこの報せを聞いても動揺をまったく見せなかった。
「住蓮、あとのことはよろしく頼む」
楽天的な安楽とは違い、住蓮は動揺が大きかった。
「安楽……」
「なーに、大丈夫さ。この六時礼賛興行で、夜な夜な女犯が行われているなどという話、興福寺の連中がでっちあげた作り話ではないか。摂政良経殿がかようなこと信じておられようはずも無い」
「それはそうだとは思うが……」
「私が行って摂政殿に会うことで、上人様も安泰、また摂政殿の面子も保たれようというもの。結構な話ではないか」
そう言われれば確かにその通りである。住蓮は黙って聞いているしか無かった。
「ははは、死にに行くわけではない!すぐに帰ってくる。留守中、よろしく頼むぞ!」
「分かった。しかし、やはり納得がいかん。行空は止むをえん。あいつは破戒を恐れるな、という過激な考えの持ち主……。それこそ女犯すら平気でしかねない。しかし、我らは……」
不満げな面持ちの住蓮を、さらに安楽が宥めた。
「まあまあ、よいではないか」
住蓮もようやく納得した。「うむ」と返事をすると彼は大きく頷いた。それを見て安楽がさらに言葉を続けた。
「おそらく、我らが取調べを終えた後に、改めて宣旨を出され、興福寺を黙らせようと言うことであろう。信空様よりもそのように聞いている……」
安楽の説明に、今はひたすら忍耐の時であると、住蓮は得心した。そして言った。
「そのようにうまく万事が運べがよいが……」
安楽はこれを聴くと、案ずるな、とばかり大きく首を縦に振った。
二人はその後しばらく黙ったままでいた。
重い空気が部屋に漂う…。
そんな空気の中、住蓮は「安楽も口では強がりを言ってはいるが、内心は不安であろう……」とは思うものの、しかし、いざとなると、友を勇気付ける言葉をなかなか見つけられない自分に苛立った。
長い沈黙が続いた。――先に沈黙を破ったのは安楽だった。
「それより、住蓮……」
「うん?」
安楽の眼差しが真剣なのを見て、住蓮はどきっとした。
「貴殿こそ、大丈夫か?」
「大丈夫かとは?」
安楽が語気を強めた。
「隠しても駄目だ。昨年の秋より貴殿の様子がおかしいのは気づいている。何をそんなに思いつめているのだ」
住蓮はこうして改めて指摘されると、友人には何も隠せないのだ、ということを思い知らされた。
「表情、言葉遣い、しぐさ、全てが以前の貴殿ではない。そんなことに気付かないでいると思うか?」
こう指摘されて、住蓮は最初はどぎまぎしたが、一方、そうして指摘されてしまうと、何故か心が安堵感に満たされてくるのを感じ、何ともほっとした気持ちで、「やはり、気付いていたか……」と、安楽に告げた。
「当たり前だ。今まで黙っていたのは、聞きたかったが、興福寺の此度の騒動でそれどころではなかったからだ」
「うむ……」
住蓮は、盛高との因縁のこと全てをぶちまけるかどうか思案したが「すまぬ、今は言えんのだ。もう少し待ってくれ」と、答えた。---今はまだ時では無いと判断したのである。
実際、昨年九月、ゆきから思わぬ事実を知らされた後、盛高と会って全ての過去を清算しようと目論んでいたが、昨年十月に興福寺の奏状が出されると、教団全体が大変な混乱状態となり、個人的なことはすべて後回しにせざるを得なかった。
まして、教団の一大事に、自らの命を賭して、厳しい取調べに応じようという友を前に、自らの個人的な問題などあまりにもちっぽけなことに思えたからであった。
安楽も住蓮を、今はそっとしておこうと判断した。そして言った。
「わかった。でも、体を大事にしろ。今、貴殿が倒れたら、弥陀の救いを求めてやってくる多くの老若男女が失望することになるのだから!」
そしてにこりと笑った。
「わかっているとも!」
そう答えた住蓮は、ここに至って、決意を新たにした。
「いよいよ盛高に会わねばなるまい、明日にでも!」
もう、ぐずぐずしてはいられない。安楽に指摘されて目から鱗が取れた。個人的なことは後回しに、と思っていたが、実は、自分は現実から逃げていただけではないか?と感じた。
「個人的な悩みを決着させられない人間が、どうして人の悩みを聞く資格などあろうか?こんな愚かなことはいつまでも続けられない!」---ここに至って、そう悟ったのである。
すると不思議と、それまで重苦しく感じていた心が、妙に軽くなるのを感じた。安楽もそんな友の心の変化を、彼の表情からすぐに感じ取ったようだった。
「そうだ、そうだ、何事も前向きに!ひさしぶりに貴殿のいきいきした表情を見た。これで安心だ!拙者が牢獄に入れられても後のこと大丈夫だな」
と言って、にやりと笑う安楽に、
「おいおい、そんな縁起でもないことを言うなよ。ただの取り調べであろう!」
と、住蓮は言い返した。
「ははは!」
「ははは!」
久しく、腹の底から笑うことも忘れていた二人であったが、今日は久しぶりに笑顔を浮かべて、がっちりと握手を交わした。
「やろう!」
「おお、やろうとも!」
こうして笑顔を交わす二人であったが、しかし、その行く手には大きい暗雲が立ち込め、さらには、その中ですさまじい雷鳴を響かせていることには、まだ気付かぬのであった…。




