第二部第二十八章
数日後、犬神人の里に住蓮の姿があった。――久しぶりの来訪であった。
時子の墓にお参りに来たのである。
久しく来ていなかった。
実は、法然自身が、供養のことをあまり喧しく言葉にしなかったためか、弟子の中でも若い弟子達は、死者への供養にさほど熱心でなかった。それは極楽往生とは、極楽へ「生きて往く」事であると、かねてより法然が教えていたことの、当然の帰結でもあった。---もっとも、供養という儀式に熱心な、年配の弟子の一部はそれを多少苦々しく思っていたこともまた事実であったが。
住蓮は、しかし、時子の供養だけは熱心であった。当然であろう。しかし、鹿ヶ谷の草庵に移ってからは、墓参りの足が遠のいていた。
一通りの供養の読経が終わると、彼は、墓の前に座り込んだ。そして、そこに佇み、しばし時を忘れた。
思い出すのは、近江の地での懐かしい日々、そして、この地での苦痛に満ちた日々、彼女の悲しい死という結末……。
思い出せば胸が傷む。---傷はまったく癒えていなかった。
いや……。
彼は思った。
「俺は、彼女の死という現実から逃れるために鹿ヶ谷へ逃げ込んだだけかもしれない」
だからこそ…。
「盛高と会って、すべての決着をつけよう」
と、思うに至った。
今日は時子の墓前に、その報告にきたつもりであった。
「時子、兄上とどういう因縁か、再会が出来そうだ。再会が叶えば、すべての誤解を解かねばならんと思っている。時間がかかろうが、これは私の使命ゆえな……。しかし不幸にして誤解が解けねば、私は切られるかもしれん。だがそれも致し方のない事。」
そうして墓に向かって、語りかけていると、そこへ源太が近づいてきた。
「やあ、住蓮殿」
突然の声に驚いて振り向くと、そこには源太が立っている。
「おおこれは源太さん」
住蓮がそう答えるのを待つまでもなく、彼は、住蓮の傍らに腰掛けた。
「墓参りか。おときさんも喜んでおろう」
「……」
住蓮は、あえて、ここで時子の兄の話はすまい、と決めた。
「この問題に他人は巻き込むまい」
そう思ったからである。
彼は話題を変えた。
「源太さん、ところで、昨今の都人の暮し向きや都の治安は如何なものかね」
都大路の清掃に駆り出される彼らが、直接見聞きした情報は、正確にして、かつ最新のものであることを彼はよく知っていた。
「そうじゃな……」
と言って、語りだした源太の言によると……。
鎌倉幕府の力を借りつつ、何とか朝廷の権威を取り戻そうと躍起な、摂政九条良経による朝廷からの様々な発令、それとは別に、朝廷すら自らの支配下に置き、鎌倉幕府の影響力を排した政治を目指す後鳥羽院から下される勅令、そこへ、さらに鎌倉武家政府からの命令が飛び込んでくる……。三つ巴の主導権争い……。時にこれらの命令は相矛盾することもあり、現場では相当の混乱が生じていると言う。
都の治安も例外ではない。検非違使の権威は、後鳥羽院の防鴨河司職の重用により低下した。さらには、彼らの縄張り意識の煽りで、都の警備も手薄なところがどうしても出てくる。そこへ、悪党共が目をつける。――結果は、庶民が被害に会うということである。
「そうか……」
住蓮はため息をついた。噂で聞いていたことは大げさではなかった。源平争乱の折より、治安は悪いと言うものもいた。
源太もため息をついた。
「我らの暮らしぶりも良いとは言えん」
「と、言うと?」
源太は説明を続けた。
「我ら、そもそも、後白河法皇様の命により、犬神人として組織された。その後白河法皇様はもうおられぬ。今をときめく後鳥羽院様は、熊野詣でと、密法、祈祷に熱心で、我らにそれほど目をかけてはくれぬよってな」
「そうか……」
住蓮の溜息混じりの返答を聞きつつ、源太は 時子の墓の前に正対すると、彼女の墓標をやさしくなでながらこう言うのであった。
「おときさんはいい時に我らの仲間になった。病のことはともかく、食べるものには苦労せんかったからのう……」
二人は暫し、墓の前で佇んだ。
どこからか、念仏の読経が聞こえてきた。それを聞いていた源太がポツリとこう囁いた。
「そうそう、あの綽空のお陰で、この里にも念仏信者が増えたわい」
住蓮は、その発言を聞き漏らさなかった。笑いながら彼は源太に語った。
「それは、私と安楽が熱心でなかった、ということかい?まいったな!」
そして頭をかくと、彼はさらにこう言葉を続けた。
「いずれにせよ、源さんも、そろそろ年貢の納め時ではないかな?一度念仏を唱えてはみんかね?」
綽空の熱心な布教の努力もあり、この里に多くの念仏信者が増える中、源太はまだ、阿弥陀信仰に距離を置いていたのである。
「うーむ、それはもう少し考えて……」
今度は源太が頭を掻き出した。
「ははは!」
「わははは!」
二人は顔を見合わせると、ひとしきり笑った。――笑いながら、住蓮は思った。
「時子は、この源さんにいつも見守られていた。そういう意味では幸せだったのかもしれない」
いかなる境遇でも仲間は必要である。
自分も……。
彼は思った。
「しかし、この俺は安楽を支えているだろうか?――源さんを支えているだろうか?――多くの、悲嘆にくれている民を支えているだろうか?」
そんなことを考えると、なぜか涙が出てきた。すると思いは自分を責める方に向けられた。
「自分の念仏は、ひょっとして、時子を救えなかった自分自身を救うためだけの、悔悟の念仏に過ぎなかったのではないか?――結局はひとりよがりの念仏にしかすぎなかったのではあるまいか?」
と、そんなことに思いを廻らせていた住蓮であったが、とにかく盛高に会うことが先決、と思いを新たにすると、自然と言葉が湧き上がって来て、突然立ち上がるとこう叫んだ。
「ともかく会わねば!」
彼の突然の叫びに、源太は驚いた。
「誰にだね?」
源太にそう問われ、我に返った住蓮は言葉を繕った。
「いやなに……」
無論、盛高のことを口走ってしまったのであるが「安楽と約束があるのを忘れていた」と言って、その場を凌いだ。
源太は笑いながら言った。
「そうか、年寄りを驚かすでない。ともかくも、彼にもよろしく」
こうして二人は別れた。
犬神人の里を後にしつつ、住蓮は、迫り来る、過去との決着の時を覚え、体の震えをいつまでも感じていた。




