2.03_NOiZE.III
男──タロウと呼ばれた方が、靄に向き直った。
武器を持っているわけでも、何かの呪文を唱えるわけでもない。
ただ、ふう、と息を一つ吐いて、靄に向かって、一歩踏み出した。
その瞬間、足元から、青白い光が走った。
光は、脚を駆け上がり、胴を抜け、腕へ、指先へ。一息のうちに、男の全身を、くっきりと縁取っていく。
何かを察知したのか、靄が動きを止めた。
そして、さっきと同じ速さで、男へと突っ込んだ。
男は、避けなかった。
靄の突進を、両腕で、真正面から受け止める。足元の透明な地面が、ぎしり、と軋んだ。
そのまま、思いっきり、靄を蹴り返した。
この人、強い。
理屈じゃなく、五感でそう分かった。
ゴゴゴ、という、腹の底に響くような重低音。靄の輪郭が、ぐらぐらと乱れる。断末魔のような振動が、広場全体に響き渡った。
そこへ、青年──ヒナタと呼ばれた方が、動いた。
彼の周りに、いつの間にか、半透明の画面がいくつも浮かんでいた。その一枚一枚を、慣れた手つきで、すいすいと操作していく。片手で。もう片方の手には、まだチョコを持ったまま。
画面から、金色の光の粒が集まり、靄へと一斉に飛んだ。
全弾、命中。まるで、最初から弱点の場所を知っていたかのように、吸い込まれていく。
靄が、縮んでいく。
どんどん、どんどん小さくなって、最後は、細い光の束になって──
ふっ、と消えた。
あとには、静寂だけが残った。
*
「大丈夫か」
男がしゃがみ込んで、手を差し伸べてくれた。
さっき、あれだけの衝撃を受け止めていた手が、今は信じられないくらい、穏やかだった。
「……あ、はい。本当に、ありがとうございます」
その手を掴んで、立ち上がる。膝が、まだ笑っていた。
「怪我は」
「打ち身くらいで。あの……さっきのは、何ですか」
純粋な疑問だった。
男は、少しだけ間を置いてから答えた。
「desireだ」
「……でざいあ?」
「この世界に湧いて出る、化け物みたいなもんだと思っておけ。俺たちは、そう呼んでる」
化け物。
ここは、RPGの世界か何かなのか?
「気をつけないと、また会う。一人で出歩くときは、警戒を緩めるな」
「……了解です」
さらっと言われたが、全然さらっと流しきれない。情報過多だ。
まあ、“とにかく注意しろ”ということだけは、理解した。
「名前を聞いてもいいか」
「加山結斗、高校二年生です」
……しまった。いつもの癖で、学年まで言ってしまった。この状況では、完全に蛇足な情報なのに。
男が、一瞬だけ、なんとも言えない表情になる。
「……高校二年生」
「……はい」
「そうか」
何かを言いかけて、やめた雰囲気があった。
“なぜ今、学年を名乗った”。きっと、そう思ったに違いない。その疑問を全部飲み込んで、「そうか」というたった一言に昇華させたのだ。大人すぎる。
「ユイト、と呼んでいいか」
「だ、大丈夫です」
呼ばれ慣れた名前のはずなのに、この人に呼ばれると、なぜか少しだけ、背筋が伸びる気がした。
「俺は、タロウだ。こっちは、ヒナタ」
「はひへまひて、ふひとはん」
青年が、また新しいチョコをかじりながら言った。
どこから出したんだ、そのチョコは。さっきの一枚、もう食べ終わってたよな。
「お二人は……この世界の人、ですか?」
辺りを見回しながら聞く。
「いや。飛ばされてきた。おそらく、お前と一緒だ」
「……ここに来て、どのくらい経つんですか」
タロウは、少しだけ黙った。
「だいぶ経つ」
「……だいぶ?」
「ああ」
「それって、具体的にどのくらいとか……」
「時間の感覚が、ここじゃあてにならないんだよ」
タロウは腕を組んで、空を仰いだ。
その横顔は、どこか、疲れているようにも見えた。
「お前は、ここがどこか分かるか」
「……分からないです。確かなのは、ここが、元いた世界じゃないってことくらいで」
タロウとヒナタが、ちらりと目を合わせた。
言葉のない短いやり取りのあと、二人は、小さく頷き合った。
「詳しい話は、拠点に戻ってからにする。ついてこい」




