曇り空の朝
昔の夢を見た。
父さんと初めてダイビングしたときの夢。
僕ははしゃぎすぎず安全に気をつけるように父さんから言われていた。
初めてのダイビングに緊張していた僕は一言一句聞き逃さないように必死だった。
だが海面の下に潜った瞬間、言いつけのことは頭から抜けていた。
――世界の色が変わったのだ。
頭上から差し込む光が、揺れながら模様を作っている。
上から見ると青色をしていた水が実は透き通った色をしていたとは。
だが下の方を見ると緑のような紫のような深い青がずっと広がっている。
ふと横を見ると色とりどりの魚の群れが、僕のすぐ横をすり抜けていった。
青一色だと思っていた海に、こんなに多くの色があるなんて。
僕はすっかり海の虜になった。
自分の見た光景を家で待っていた母さんに見せたくて、家に着いたと同時に必死に絵を描いた。
だが自分が見た素晴らしい光景を絵に描き表すことはできなくて、悔しくて泣いてしまった。
そんな僕を両親は笑って抱きしめてくれたのだ。
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開け放たれた窓から、沖縄の湿った朝の風が入ってくる。
雲が空を覆っており、太陽は拝めない。
懐かしい夢だった。
僕が海に魅せられた、忘れられない日だ。
あの日から何度も父さんと母さんと一緒に海に潜った。
同じ場所でも潜るたびに景色が違う。
自分が見た光景をどうしても忘れたくなくて、誰かに伝えたくて、潜るたびにその日見た海の光景を絵に描いた。
どうすれば伝わるか試行錯誤し、何度も描いた。
小学校の絵のコンクールで金賞を受賞したこともある。
すごいね、綺麗だねと褒められたが満足はできなかった。
中学に進み、僕は美術部に所属した。
入賞実績がある強豪校で、先輩や講師から絵の描き方の指導を受けると自分でも驚くほどの速さで上達していった。
それでも満足のいく海の絵を描くことはできなかった。
特に青色。
一口に青といってもシアンやロイヤルブルー、群青色に浅葱色に瑠璃色ーー色味の異なる青が数多く存在する。
場所や天気、季節などで海の色は微細に変わる。
その日の海の「青」を表現するために、何度も絵の具を混ぜてはやり直しを繰り返した。
最後に絵筆を握ったのは、いつだっただろう。
「おはよう、奏多。昨日は夕飯作れなくてすまなかったな」
いつも元気に挨拶してくる泰造じいちゃんが、今日はしおらしい。
昨日友蔵さんに連れて行かれて帰りが遅くなったことを気にしているみたいだ。
「おはよう、こっちこそ帰ってきたのに気づかなくてごめんね」
じいちゃんと母さんの会話を聞いていたことに気づかれたくなくて、嘘をつく。
「いやいや!遅い時間だったからな!
今日も遅くなるかもしれないから夕飯は冷蔵庫に入れておいたぞ!
朝ごはんもできてるからな、準備ができたらおいで」
じいちゃんは部屋を出ていく。
昨日僕が部屋に戻ったあと、じいちゃんと母さんはどんな話をしたのだろうか。
母さんのところに戻ったとき、僕は母さんと何を話せばいいのだろうか。
父さんも母さんも笑っていた、夢で見たあの頃に戻りたい。
何でもない日常が幸せだった。
未来の不安と過去への未練で押し潰されそうだ。身体が重い。
でもずっと部屋にいるとじいちゃんが心配するだろう。
それに友蔵さんとした修平の勉強を見る約束もある。
僕は重い身体を引きずりながらダイニングへ向かう。
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少しずつ戻ってきた食欲だったが、今日は全く箸が進まない。
「奏多、もしかして体調でも悪いのか?」
じいちゃんは不安そうな顔で問う。
「そんなことないよ。
昨日ご飯食べ過ぎちゃったから、まだ消化していないだけ」
心配をかけたくなくて無理やり笑う。
だが、表情筋が動いてくれない。
「そうか。
疲れが出てるのかもしれないし、無理するなよ」
じいちゃんは僕の頭を撫でる。
それだけなのに無性に泣きたくなる。
じいちゃんに迷惑ばかりかけている。
情けない、じいちゃんに見捨てられたらどうしよう。
不安の感情ばかりが大きくなっていく。
朝食の片付けが終わり、食後のフルーツを食べていると玄関のチャイムが鳴る。
「泰造ちゃーん!奏多くーん!
迎えに来たよー」
友蔵さんだった。
僕とじいちゃんは自分の荷物を持って、友蔵さんの運転する車に乗り込む。
「朝から2人とも悪いね!ほんとに助かるよ!
先に俺の家に寄って奏多くんを降ろすからね」
「昨日の進捗だと、急がないと祭りには間に合わないだろう。
今日も頑張らないとな!」
「泰造ちゃん、ほんとに頼りにしてます!
あ、奏多くんはこの島の夏祭りに参加したことある?」
「小さい頃に一度だけ。出店がたくさんあったことしか覚えていなくて」
「そうか!夏祭りはな、島で一番盛り上がるイベントなんだよ!」
友蔵さんは食い気味に話し始める。
「この島は海の女神様に守られていて、神様に感謝するためのお祭りなんだ。
昔、大地震がこの島を襲ったんだ。
地震のあとは津波が来る可能性があるから高台に逃げることは今こそよく知られているが、当時はそんなことは知られてなくてな。
突然の地震で慌てる島民に海の女神様からの御使いだという島民がさ『海の女神様からのお言葉だ、予想もできないような大きな波が押し寄せてきてこの島を飲み込む。早く高いところに向かえ』って言い始めるんだ。
わけわからないなりに島民は丘の上に行くと津波が島を飲み込む様子を目撃する。
ここからこの島は女神様に守られているって伝承が伝わったわけ!
女神様は美味しい物と楽しいことが大好きだから祭りは派手にやることになってるんだ!」
瑠璃さんのことだ。
まさか瑠璃さんが海の女神様として祀られており、瑠璃さんに感謝するためにお祭りが開かれているとは思いもよらなかった。
友蔵さんのように信心深い人もいるだろうし、瑠璃さんのことは島民には黙っておこう。
ふと、じいちゃんが初めて瑠璃さんに会ったときのことを思い出す。
驚いていたが、すぐに瑠璃さんと打ち解けていた。
"ザン"の伝承を知っていたから、瑠璃さんが海の女神様だと気づいていたはずだ。
それなのに友人と接するように、孫のように思って瑠璃さんと親交を深めているじいちゃんはすごい人なのではないだろうか。
気づくと車が止まっていた。
友蔵さんの家に着いたようだ。




