母の記憶
「田村さんが、今日初めておっしゃいました」
その言葉が、部屋の中に残っていた。
桐谷は神崎を見ていた。神崎は桐谷を見ていた。どちらも外さなかった。
引き下がるしかなかった。
「……そうですか」
桐谷は言った。「失礼しました。勘違いだったようです」
「いえ」神崎は穏やかに言う。「気になるなら、気になると言っていい」
「気になっていません」
「そうですか」
それだけだった。神崎はそれ以上追わない。訂正も、確認も、しない。ただ受け取って、次へ進む。
だが桐谷は、その「そうですか」の中に何かを感じた。
納得ではなかった。了解でもなかった。
あの一言は、桐谷が嘘をついていることを知った上で、知らないふりをしている人間の「そうですか」だった。
断言はできない。
だがそう感じた。
感じた、という事実を、桐谷は頭の中に置いておいた。確認できないものを確認できないまま持っておく。それが今の桐谷にできる唯一のことだった。
神崎は少しだけ体の向きを変えた。
「今日は、少し違う話を聞かせてもらえますか」
その言い方が、前回までと違った。「今日は何を話しますか」でも「前回の続きを」でもなく、神崎の方から方向を示してきた。それは初めてのことだった。
「どんな話ですか」
桐谷は聞いた。警戒しながら。だが声には出さずに。
「お母さんが亡くなった時のことを」
来た、と思った。方向は読めていた。だが、いざ来ると、身体の内側で何かが収縮した。
「……何を聞きたいんですか」
「どんな場所だったか、教えてもらえますか」
「場所」
「お母さんが亡くなった場所です。どんな場所でしたか」
桐谷は答えない選択肢を探した。田村圭介として、答えない理由を。だが出てこなかった。田村圭介も、母親を亡くしている設定だ。カウンセラーに場所を聞かれて、答えない理由がない。
答えない理由を探している間にも、沈黙が積み重なっていく。
その沈黙が、答えを押し出してきた。
「……高いところでした」
言ってしまってから、桐谷は内側で止まった。
高いところ、という言葉は、母の死の状況を示している。転落死、あるいは飛び降り。それを知っている人間には、その言葉だけで十分だ。
神崎は何も言わなかった。
ただ、受け取った。
その瞬間を、桐谷は見ていた。
神崎の顔を、一点も逃さないように見ていた。驚きがあるか。悲しみがあるか。同情があるか。初めて聞いた人間なら、何かが出るはずだ。
何も出なかった。
その代わりに——
口の端が、動いた。
上がった、と言えるかどうかも分からない程度の動きだった。表情が変わった、とは言えない。変わりかけて、止まった、とも言えない。それより小さい。ほんの一瞬、筋肉が動いた、という程度の変化だった。
普通の人間なら気づかない。
桐谷も、後から思い返さなければ気づかなかったかもしれない。
だがその瞬間、確かに見た。
「高いところは、怖いですか」
神崎が言う。
「……いいえ」
「お母さんは、怖かったと思いますか」
桐谷は答えなかった。
その問いが、あまりにも自然に来たから。あまりにも穏やかな声で来たから。それが余計に、深いところへ刺さった。
「……分かりません」
「分からない、というのは」
「考えたことがなかった」
それは本当だった。母が怖かったかどうか。その一瞬に何を感じていたか。桐谷は、そこを想像したことが一度もなかった。できなかった。
「考えてみたいですか」
神崎が聞く。
桐谷は首を振った。「今日は、やめておきます」
「そうですね」神崎は頷く。「無理に考えなくていい」
その一言が、また自然すぎた。
無理に考えなくていい。それは正しい言葉だ。追い詰めない言葉だ。だが桐谷には、その言葉が「今日はそこまでにしておいてあげる」という意味に聞こえた。
次がある、ということを示す言葉として。
セッションが終わった。
「今日もお疲れ様でした。来週、同じ時間で」
「……はい」
桐谷は立ち上がり、部屋を出た。受付で会計を済ませる。自動ドアが開く。外に出る。
外の空気は冷たかった。
だが今日は、その冷たさが遠かった。皮膚が感じているのに、感じている実感が薄い。クリニックの温度がまだ身体に残っているからではなく、感覚そのものが、どこかで詰まっているような感じだった。
少し歩いたところで、桐谷は立ち止まった。
頭の中で、一つのことだけが動いていた。
神崎の口の端が動いた。
あれは何だったのか。
「高いところでした」という言葉を聞いた後の、あの微細な変化。知らなかった人間の反応ではなかった。驚きでも、悲しみでも、同情でもなかった。
確認した顔だった。
知っていたことが、合致した瞬間の顔だった。
桐谷は確信した。
根拠がない、と言われれば、そうだ。あの口の端の動きは、疲れのせいかもしれない。桐谷の目が、見たいものを見たのかもしれない。だが今の桐谷には、それが確信だった。
揺るがない確信ではない。だが、向かっていく方向を決めるには十分な確信だった。
神崎は知っていた。
母の死に方を。高いところから落ちたことを。
どこで知ったのか。
答えは一つしかない。
接点があった。
直接か、間接かは分からない。だが、神崎は桐谷の母について、どこかで何かを知る機会があった。
桐谷は歩き始めた。
足の裏の感触が薄い。コーヒーの味がずれている。それが今日は気にならなかった。そういった細かい異常より、頭の中で固まっていく確信の方が、はるかに大きかった。
父に聞かなければならない。
ずっと、触れずにきた話を。
連絡を入れると、父はすぐに応答した。
珍しかった。桐谷の父、桐谷誠一は、息子からの連絡に対してすぐに返すことが少ない。折り返すまでに時間がかかる。それは忙しいからではなく、返す言葉を考えているからだと、桐谷は思っていた。
だが今回は、数分で返信が来た。
『いつでも会える。明日でもいい。』
その速さが、父も何かを待っていた、ということを示していた気がした。
翌日の夕方、桐谷は父が指定した駅で降りた。
改札を出ると、父がいた。
五年前より、細くなっていた。
痩せた、というより、削られた感じだった。肉が落ちたのではなく、何かが少しずつ削り取られて、今の形になった。そういう細さだった。髪は白が増え、コートの肩が以前より大きく見える。それだけ体が小さくなったということだ。
目の下に影がある。昨夜よく眠れなかった、という感じではなく、長い時間をかけて積み上げられた影だった。
「久しぶりだな」
父が言う。声は変わっていなかった。
「ああ」
二人は並んで歩いた。特に行き先を相談しなかったが、父は迷わず古い喫茶店へ向かった。よく来るのだろう、と桐谷は思った。常連の入り方だった。
店内は薄暗く、客は少なかった。奥の席に座る。
父はコーヒーを頼んだ。桐谷も同じものを頼んだ。
しばらく、何も言わなかった。
コーヒーが来る。父は一口飲む。桐谷も飲む。やはり味がずれていた。だが今日は、それでもいいと思った。
「母のことを聞きたい」
桐谷が言う。
父はカップを置いた。すぐには答えなかった。
窓の外を一度見た。通りを行く人を見るともなく見てから、桐谷に視線を戻した。
「何を聞きたい」
「母は、死ぬ前にカウンセリングに通っていたか」
父の手が、テーブルの上で少しだけ動いた。カップに触れかけて、止まった。
その止まり方が、答えだった。
「……通っていた」
「知っていたのか」
「ああ」
「教えてくれなかった」
「お前に言う必要があるとは思わなかった。当時は」
桐谷は父を見た。父は桐谷を見ていなかった。テーブルの上の一点を見ていた。
「どこへ通っていた」
「名前は聞いていない」
「場所は」
「近くだと言っていた。それだけだ」
「先生の名前は」
「聞かなかった」
父の声は平坦だった。だが、その平坦さが、感情を押さえているものの重さを示していた。感情を殺しているのではなく、感情の重さに耐えるために平坦にしている、という感じだった。
「なぜ聞かなかった」
「……聞けなかった」
短い答えだった。
桐谷は、その一言の中にあるものを感じた。聞けなかった、という言葉の中に、後悔がある。あの頃、聞いていれば何かが変わったかもしれない。そう思い続けてきた人間の言葉だった。言い訳ではなく、事実として。
「母は、通い始めてから変わったか」
父はしばらく考えた。コーヒーカップを両手で包む。その手が、ほんの少しだけ震えていた。
「……変わった」
「どう変わった」
「穏やかになった」
少し間を置く。
「前より、落ち着いていた。表情が柔らかくなった。話すようになった」
桐谷は、その言葉を聞いた瞬間、藤原悠人の母の声を思い出した。
先生に出会ってから……本当に、よく話してくれるようになって。笑うことが増えて。
同じだ。
全部、同じだった。
穏やかになった。落ち着いた。話すようになった。
そして——
「それで」
桐谷が続ける。「それで、死んだ」
父は何も言わなかった。
否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、コーヒーカップを包んだ手に、少しだけ力が入った。
「……ああ」
やがて、低く言った。
その一言の重さが、テーブルの上に落ちた。
しばらく、二人は黙っていた。
喫茶店の中では、遠くのテーブルで誰かが低い声で話している。食器の音がする。外の通りを、人が歩く音がする。
「神崎という名前に、心当たりはあるか」
桐谷は言った。
父は顔を上げた。初めて、桐谷を直接見た。
「……ない」
「本当に」
「ない」
その答えは、早すぎず、遅すぎなかった。嘘をついている人間の間合いとは違った。本当に知らないのだ、と桐谷は思った。
だが父は、その後すぐに視線を外した。窓の外を見た。通りを行く人を、見るともなく見ていた。
「お前は」
父が言う。
「何を追っているんだ」
「仕事だ」
「本当に仕事か」
桐谷は答えなかった。
父は窓の外を見たまま続ける。
「母親が死んだ理由を、探しているのか」
「……かもしれない」
「五年経って」
「ああ」
「刑事になってから、ずっとか」
桐谷はコーヒーカップを持った。飲まずに持っていた。
「刑事になる前から、かもしれない」
父は少しだけ目を細めた。それから、コートの袖を一度だけ引いた。何かを言う前の、父特有の仕草だった。
「お前は」
父が言う。声のトーンが変わった。
「お母さんに、似てきた」
桐谷は父を見た。
「顔じゃない」父は続ける。「何かを追っている時の、目だ」
その一言には、複数のものが乗っていた。
褒めていた。桐谷が何かを真剣に見ている、ということへの、父なりの評価として。だがそれと同時に、心配が乗っていた。亡くなる前の、あの穏やかになっていく時期の母の目と、今の桐谷の目が、重なって見えているような。
止まれない目。
何かに近づいていく目。
その目が、かつての母と同じだ、と父は言っている。
「……そうか」
桐谷はそれだけ言った。
父は何も付け足さなかった。
二人はしばらく、同じ沈黙の中にいた。会話はそれで終わった。終わらせたのではなく、続きがなかった。言葉が出し尽くされたのではなく、言葉にできることの限界に、二人同時に達した、という感じだった。
外に出ると、夜の空気が来た。
父は改札の前で立ち止まり、桐谷を一度だけ見た。
何か言おうとして、やめた。その途中の顔だった。開きかけた口が、閉じる。
「……気をつけろ」
それだけ言って、改札を通った。
桐谷は父の背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
「気をつけろ」という言葉が、耳の中に残っていた。
何に対して気をつけろ、なのか。
神崎に対してか。自分自身に対してか。
あるいは、母と同じ道を歩くな、ということか。
答えは出なかった。
出なくていい気がした。
父は、言葉にできることの限界まで言った。それで十分だった。
翌日、三宅に話した。
デスクの端に腰を下ろし、声を落として言う。父との会話を、順番に。母がカウンセリングに通っていたこと。穏やかになっていたこと。それでも死んだこと。神崎という名前には父は反応しなかったこと。
三宅は黙って聞いていた。
書類に手を置いたまま、ペンを持たずに、ただ聞いていた。桐谷が話している間、一度も遮らなかった。頷きもしなかった。ただ、聞いていた。
「以上だ」
桐谷が言う。
三宅はしばらく黙っていた。
「……そうか」
それだけ言った。
「それで終わりか」
「今のところは」
「神崎の名前に父が反応しなかった、ということは」
「本当に知らないか、知っていて言わないか、忘れたか。どれかだ。どれなのかは分からない」
三宅は少しだけ考えた。
「お前はどれだと思う」
「本当に知らない、と思う」
「なぜ」
「間合いが、嘘をついている人間のものじゃなかった」
三宅は頷いた。それ以上は聞かなかった。
「それで終わらないこともある、とは言わないのか」
桐谷が聞く。
三宅は少し考えてから言った。「今は言わない」
「なぜ」
「言っても意味がない段階だから」
桐谷は三宅を見た。三宅は書類に視線を戻していた。だが、ページをめくる手が止まっていた。止めようとしていない。だが一緒に動こうともしていない。
触れられない距離として、そこにいる。
それが今の三宅の、桐谷への関わり方だった。
昨日まで、三宅は止めようとしていた。声を上げた。感情を出した。だが今日は、違う。止めることをやめた、ということではない。止めることも、促すことも、どちらもしない場所に立っている。
それが、桐谷には昨日の声よりも重く感じた。
「ありがとう」
桐谷が言うと、三宅は少しだけ眉をひそめた。
「何が」
「聞いてくれたことが」
三宅は何も言わなかった。ペンを取り、書類の余白に何かを書いた。それが返事だった。
桐谷はデスクから離れた。
背中に、三宅の気配を感じながら、自分の席へ戻った。
その夜、桐谷は気づいた。
自分がもう、証拠を集めようとしていない。
神崎が患者を誘導して死なせているという仮説を、立証しようとしていない。二件の死亡案件と神崎の関連を、捜査として組み立てようとしていない。
いつからそうなったのかは、分からない。
気がついたら、そうなっていた。
今、桐谷が向かっているのは、神崎を追い詰めることだった。
証拠を集めて、起訴して、法廷で裁く、という方向ではなく。もっと個人的な、もっと直接的な何かに向かっている。
それが何なのかは、まだ言葉になっていない。形になっていない。だが方向だけははっきりしていた。
神崎に、向かっている。
刑事としてではなく。
桐谷玲司として。
母の息子として。
それを認識した時、桐谷は少し安堵した。
安堵した、という感覚が、また怖かった。なぜ安堵するのか。捜査の外に出たことが、なぜ安堵につながるのか。
分からなかった。
だが、分からないことを分からないまま持っていることに、今夜は抵抗がなかった。
ノートを開く。
これまで書いてきた断片を、最初のページから読み返した。
神崎 恒一、という名前を最初に書いた夜。藤原悠人の現場から持ち帰った名刺を見ながら、何かが引っかかると感じた夜。
佐伯康の件が浮上した時。盛岡から「満足しているような顔」という言葉を聞いた時。中村彩から「怖い話なのに怖く聞こえない」という言葉を聞いた時。
最初のセッションで、母親の話をしてしまった時。
澄子、という名前を神崎が口にした時。
全部、ここにある。
だが今夜、それを読み返しながら桐谷が感じたのは、これが捜査の記録ではないということだった。
これは、自分が何かに近づいていく記録だ。
神崎に近づいているのか、何か別のものに近づいているのか、まだ分からない。
だが近づいている。
それだけは確かだった。
ノートを閉じる。
深夜になっていた。
桐谷は立ち上がり、キッチンへ行き、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通った。それだけは、ちゃんと感じた。コーヒーの味はずれていても、水の冷たさだけは届く。それが何かを示している気がしたが、何を示しているのかは分からなかった。
シンクの前に立って、蛇口を止めた。
静かだった。
冷蔵庫の低い音と、遠くの車の音だけがある。
その静けさの中で、何かが来た。
怒りだ、と分かった。
悲しみではなかった。疲労でもなかった。もっと輪郭のはっきりした何かが、身体の底から上がってきた。
何に対する怒りかは、最初は分からなかった。
神崎への怒り、かもしれない。あの男が何かをしたとしたら、それへの怒り。
気づかなかった自分への怒り、かもしれない。母が苦しんでいた時、刑事として他人の死を追いながら、最も近くにいた人間として、何も気づかなかった。
五年間、触れずにきた自分への怒り、かもしれない。母の死を「事故かもしれない自殺」として曖昧なまま棚に上げ、仕事で薄めてきた。
あるいは、母への怒りかもしれない。
その可能性が頭をよぎった瞬間、桐谷は動けなくなった。
母への怒り。
それは認めてはいけない感情だと、ずっと思っていた。母は死んだ。死んだ人間に怒ることは、お門違いだと。だが今夜は、その扉が少しだけ開いていた。
なぜ気づいてやれなかった。
なぜ聞いてやれなかった。
なぜ止められなかった。
問いが向かう先が、どこなのかが分からなかった。母への問いなのか、自分への問いなのか、神崎への問いなのか。全部が混ざって、どこへも向かえないまま、身体の中で渦を巻いていた。
桐谷はシンクに両手をついた。
冷たい金属の感触が、指先にある。今日は、それがちゃんと感じられた。ずれていなかった。その冷たさだけが、今この瞬間の現実だった。
だが手が震えていた。
何かが、身体の底から上がってきた。
抑えようとした。
抑えきれなかった。
くぐもった声が出た。
叫んだわけではない。呻いたわけでもない。もっと低い、もっと深いところから出てきた音だった。喉が震えたから、自分のものだと分かった。それだけだった。泣いているのとも違う。怒鳴っているのとも違う。
表現する言葉が、見つからなかった。
ただ、出てきた。
止まらなかった。数秒間、その音が続いた。
それから止まった。
桐谷はしばらく、シンクに手をついたまま動かなかった。
額を下げる。シンクの縁に、額が触れた。冷たかった。その冷たさが、今この瞬間の自分を繋ぎとめていた。
どれくらいそうしていたか、分からない。
やがて、顔を上げた。
蛇口をもう一度ひねり、手に水をためて、顔を洗った。
冷たい水が、頬を伝う。
鏡は見なかった。
今夜の自分の顔を、確認する必要はないと思った。
翌朝、桐谷は次のセッションの予約を確認した。
四日後、午後三時。
行く。
理由は変わった。
最初は探るために行った。神崎という人間を外側から見るために。次は確かめるために行った。自分が何を話すかを見るために。その次は——判断できないものを、判断できないまま抱えるために行った。
今度は。
言葉が、まだない。
だが向かう方向だけはある。
神崎恒一に、向かっている。
証拠を持っていくためではない。法的な手続きのためでもない。組織の捜査としてでもない。
あの男の目を、もう一度見るために。
あの男が何を知っているかを、あの男の目から直接確かめるために。
言葉では崩せない。神崎は言葉で追い詰めても、笑って受け流す。完璧な防壁を持っている。正論では届かない。感情をぶつけても意味がない。
それでも向かう。
崩せるかどうかではなく、向かうことそのものが、今の桐谷には必要だった。
止まることの方が、もっと壊れる気がした。
スマートフォンを手に取り、三宅にメッセージを送る。
『四日後、神崎のところへ行く。』
返信は、しばらくして来た。
『分かった。終わったら連絡しろ。』
それだけだった。
止めない。来るな、とも言わない。ただ、終わったら連絡しろ、と言う。
それが今の三宅だった。
触れられない距離に立ちながら、その距離を保ちながら、ただそこにいる。
桐谷はスマートフォンを置き、窓の外を見た。
朝の光が、薄く差し込んでいる。
母が窓の外を見ていた時、何を見ていたのか。
その問いが、また浮かんだ。
昨夜、怒りが来た。くぐもった声が出た。シンクの冷たさに繋ぎとめられながら、それが収まるのを待った。
その後、桐谷は少しだけ思った。
母も、こういう夜があったかもしれない。
誰にも言えないまま、シンクの前で、あるいは窓の前で、何かが来るのを抱えていた夜が。
だとしたら。
その夜に、誰かがいたとしたら。
その誰かが何を言ったのかを、桐谷は知りたかった。
何を言われたら、人は——
そこで思考が止まった。
続きは、まだ出てこなかった。
だが、向かう理由がまた一つ増えた気がした。
四日後の朝、桐谷は早く目が覚めた。
眠れなかったわけではない。ただ、身体が早く起きた。
窓の外はまだ暗かった。街灯の光が低く広がっている。
桐谷は起き上がり、コーヒーを淹れた。
一口飲む。
今日は、ずれが少なかった。完全に戻ってはいない。だが昨日より、記憶の中のコーヒーに近かった。それが何かを意味しているのかどうかは、分からない。
カップを持ったまま、椅子に座った。
今日、神崎のところへ行く。
それだけが、今朝の事実だった。
何が起きるかは分からない。神崎が何を言うかも分からない。自分が何を話すかも分からない。田村圭介としての話が、どこかで桐谷玲司の話に変わる瞬間が来るのかどうかも分からない。
ただ、向かう。
それだけだった。
母が死んで、五年が経った。その五年間、桐谷は刑事として他人の死を追い続けた。毎年、誰かの死の前に立った。遺書を読み、現場を見て、遺族の話を聞いた。
だが母の死の前には、一度も立てなかった。
今、初めて立とうとしている。
遅すぎるかもしれない。
だが今しかない、とも思った。
コーヒーを飲み干す。カップを置く。
立ち上がる。
コートを取る。
鍵を持つ。
扉を開ける。
外の空気が来た。
冷たかった。
今日は、その冷たさがちゃんと届いた。




