孤立
石川警部補は、窓を背にして座っていた。
光の加減で、表情が読みにくい。意図してそうしているのか、ただそこに椅子があるだけなのかは分からない。桐谷が部屋に入った時、石川はすでに座っていて、書類を一枚だけ机の上に置いていた。余分なものが何もない机だった。ペンが一本。書類が一枚。それだけだった。
「座れ」
短く言う。
桐谷は向かいの椅子に座った。
石川隆、警視庁捜査一課係長。五十代前半。髪に白が混じり始めているが、体格は崩れていない。長く現場にいた人間の体つきをしていた。贅肉がなく、かといって鍛えている感じでもない。ただ、必要なものだけが残った体だった。
口数が少ない、という評判は桐谷も聞いていた。怒鳴らない、褒めない、雑談しない。必要なことだけを言う男だ。部下からは怖いと思われているが、嫌われてはいない。そういう種類の人間だった。
「神崎メンタルクリニックの件だ」
石川は書類を一度だけ見て、また桐谷を見た。書類の内容を確認しているのではなく、話す前に一度間を置く、という習慣のように見えた。
「藤原悠人と佐伯康。どちらも自殺として処理された。お前が両件に関心を持っていることは把握している」
「はい」
「根拠は何だ」
桐谷は答えた。二件の共通点を、順番に並べる。同じクリニックへの通院歴。死亡直前の電話記録。整いすぎた現場。絶望の臭いが薄い遺書。言葉を選びながら、しかし曖昧にせずに並べた。
石川は黙って聞いていた。
途中で遮らない。頷きもしない。ただ聞いている。その聞き方は、否定の準備をしている人間の聞き方ではなかった。材料を確認している人間の聞き方だった。
桐谷が話し終えると、少しの間があった。
「それだけか」
「今のところは」
「状況証拠にもなっていない」
桐谷は答えない。
「同じクリニックに通っていた患者が複数亡くなることは、統計的に珍しくない。精神疾患の既往がある患者の自殺リスクは、一般と比較して有意に高い。遺書の文体や現場の状態は、個人差の範囲として説明できる」
「分かっています」
「では、何がある」
桐谷は少しだけ考えた。論理として答えられるものは、もう出し切った。残っているのは——
「感覚です」
石川の目が、わずかに動いた。
書類から桐谷へ、ではない。桐谷の顔の表面から、もう少し奥へ。そういう動き方だった。
「感覚で動くなと言いたいんじゃない」石川は言う。「感覚を証拠に変えるだけの材料が、まだない、と言っている」
「はい」
「正式な捜査としては動けない」
「分かっています」
「お前が個人的に動くことまでは止められない。だが——」
そこで石川は一度だけ間を置いた。
視線が桐谷から外れない。言葉は少ないが、その目だけが何かを追っていた。桐谷の顔ではなく、桐谷の内側の何かを、確認するように。
それが一秒ほど続いた。
「無理をするな」
それだけだった。
命令でも忠告でもない、ただの一文だった。だがその一文の重さが、桐谷には予想外だった。感情を言葉にしない男が、この場でその一文を選んだ。
「……分かりました」
桐谷は立ち上がった。
部屋を出る直前、石川がもう一度だけ言った。
「何か出たら、必ず持ってこい」
振り返らずに、桐谷は頷いた。
廊下に出て、ドアが閉まる音を聞きながら、桐谷はしばらくその場に立っていた。
石川の目を思い出していた。
あの目は、心配していた。言葉にはしなかったが、していた。口数の少ない男が、視線だけで伝えていた。それが桐谷には、言葉より重く届いた。
三宅が壁に背中をつけて立っていた。
腕を組んで、少し顎を引いた姿勢。廊下の端、人の流れから外れた位置だった。待っていた、という顔ではなく、ただそこにいた、という顔だった。だがその「ただそこにいた」は、桐谷が出てくるのを待っていたからだ、ということは分かった。
「終わったか」
「ああ」
「何を言われた」
「動けない、と」
三宅は頷く。想定通りだ、という顔だった。
二人は並んで歩き始めた。階段を下り、一階の廊下を抜けて、非常口から外へ出る。庁舎の裏側、駐車場の端。人がいない場所だった。
三宅が自然にそこへ向かったことを、桐谷は確認していた。外で話すつもりがあった、ということだ。
冷たい空気が来る。空は薄い灰色で、光の方向が分かりにくかった。
「上に報告したのは俺じゃない」
三宅が先に言った。
「分かってる」
「本当に分かってるか」
桐谷は三宅を見た。「疑ってない」
三宅は少しだけ息を吐いた。
「誰が報告したかは分からない。お前の動きは、思ったより見られていたということだ」
「そうだな」
しばらく、二人は黙っていた。駐車場の端、フェンスの向こうに民家の屋根が見える。遠くで車の音がしている。
「上は、何で止めた」
三宅が聞く。
「証拠がない。状況証拠にすらなっていない。統計的に説明できる、と」
「それは正しい判断だ」
「そうだな」
「なのにお前は続けるつもりか」
「ああ」
三宅は少しの間、フェンスの向こうを見ていた。
「桐谷」
声のトーンが変わった。
「何だ」
「お前は今、何を追っているんだ」
「神崎を追っている」
「神崎の何を」
「患者を誘導して死なせている可能性を」
「それだけか」
桐谷は答えなかった。
「母親の件も追っているんだろ」
「……ああ」
「それは捜査か」
「……今は、分からない」
三宅は桐谷を見た。長く見た。桐谷はその視線を受けた。逸らさなかった。
「分からない、か」
三宅が繰り返す。静かな声だった。
「ああ」
「お前が自分で分からないと言っている」
「そうだ」
「なのに続けると言っている」
「そうだ」
三宅は一度だけ目を閉じた。それから開けた時、桐谷は三宅の顔が少し変わっていることに気づいた。いつもの三宅ではなかった。感情を抑える前の、その手前の顔だった。
「なあ、桐谷」
「何だ」
「俺はな」
三宅の声が、わずかに上がった。
意図していない上がり方だった。三宅自身が気づいたのが分かった。一瞬止まったが、そのまま続けた。
「お前がおかしくなっていくのを、隣で見てるのが——」
そこで声が途切れた。
怒鳴ったわけではない。感情が声の制御を一瞬だけ超えた、という感じだった。押さえていたものが、押さえきれなくなった瞬間だった。三宅は口を閉じ、顎を引き、フェンスの向こうを見た。
桐谷は何も言えなかった。
三宅がこういう顔をするのを、初めて見た。この男は現場で怒鳴らない。感情を外に出さない。それが三宅亮という人間だった。その三宅の声が上がった。声が途切れた。
その事実の重さが、桐谷の胸の底に落ちた。
「……怖いんだろ」
桐谷は言った。
三宅は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
桐谷は視線を地面に落とした。アスファルトの細かいひびが見える。朝に感じた、手先の感触の薄さが、また戻っていた。
だが今、それより別のものが来ていた。
何かが、目の奥に来た。
涙だ、と気づいたのは、頬に触れてからだった。
出ていた。感情より先に、身体が動いていた。悲しいとも、痛いとも、明確に思っていなかった。ただ、気がついたら、頬が濡れていた。
桐谷は手の甲で拭った。一度で拭いきれなかった。もう一度拭った。
三宅は見ていた。何も言わなかった。
「……すまない」
桐谷が言う。
「何が」三宅は静かに言う。「謝るな」
「でも」
「謝るな、と言っている」
三宅の声は、もう普段の声に戻っていた。だが何かが変わった、ということは、二人とも分かっていた。変わる前には戻れない、という種類の変化が、ここで起きた。
しばらく、二人はその場に立っていた。
風が少しだけ吹いた。駐車場の端、フェンスに沿って、落ち葉が転がっていく。その音だけがしばらく聞こえた。
「続けるのは止めない」
三宅が言う。
「……ああ」
「ただ」
「ただ?」
「お前が泣いたことを、覚えておけ」
桐谷は三宅を見た。
「自分がどういう状態かを、忘れるな、ということだ。今日ここで何が起きたかを、ちゃんと持っておけ」
それだけ言って、三宅は歩き出した。
桐谷はその背中を、少しの間見ていた。
三宅が感情を出した。そして桐谷が泣いた。どちらも、この二人の間では起きたことのないことだった。それが今日、駐車場の端で起きた。
証人は誰もいなかった。
その夜。
桐谷は自宅の机に向かっていた。
パソコンの画面が、暗い部屋の中で白く光っている。電気をつけるのを忘れていた。気づいたが、立ち上がって電気をつける気になれなかった。その方が、今夜は合っている気がした。
画面には、神崎恒一に関する情報が並んでいた。帰国後の動き。クリニック開業前の一年半の空白。論文の発表歴。学会への出席記録。それらを、一つずつ照合していた。
何も出てこなかった。
空白期間に何をしていたか、公開情報からは分からない。学会記録にも、その期間の名前はない。論文も出ていない。ただ、いない。どこかにいたはずだ。日本のどこかで、あるいは海外のどこかで。だが、それを示す記録が、公開情報の範囲では見つからない。
桐谷は検索を止めて、画面を眺めた。
今日、泣いた。
そのことを、頭の中でもう一度確認した。
感情と理由が一致しなかった。なぜ泣いたのか、今も正確には分からない。三宅の声が上がった時、何かが崩れた。だが、それが悲しみなのか、疲労なのか、あるいは別の何かなのか、言葉が当てはまらない。
全部が混ざっていた。
三宅を心配させていることへの後ろめたさ。止まれない自分への苛立ち。それでも止まりたくない、という意志。母のことを追い続けることへの、後ろめたさと焦りと、何か別の感情。
それが一度に来て、身体が先に反応した。
感情というものは、本来、理由と一緒に来るものだと思っていた。だが今日は、理由の前に身体が動いた。涙は感情の結果ではなく、感情より先にあった。
それが異常なのかどうか、まだ判断できなかった。
あるいは判断できないこと自体が、異常の証拠なのかもしれない。
画面を閉じる。
暗闇の中で、しばらく座っていた。
同じ夜、神崎は診療室の照明を落とした後、窓の外を見ていた。
今日、桐谷玲司に会っていない。次のセッションまで、まだ数日ある。
だが神崎は、桐谷のことを考えていた。
今日の桐谷がどんな状態にあるかを、考えていた。
上から圧力がかかったはずだ。正式な捜査として動けない、と告げられたはずだ。相棒との間にも、何かが起きているはずだ。そういう段階にある。
来なくなる可能性がある。
神崎はその可能性を、感情なく検討した。
来なくなれば、それも一つの結果だ。桐谷玲司が、この場所に来ることをやめる。それは、桐谷が何かを選んだということだ。外側からの圧力に従う選択を。あるいは、自分の内側の声を無視する選択を。
どちらにしても、それはその男の選択だ。
だが来るとしたら。
今日より削られた状態で来る。外側の支えが減った状態で来る。一人で動いているという意識を持って来る。
そういう状態の人間は、あの部屋の中で、より深くまで開く。
一人だという感覚が、人を話させる。聞いてもらえる場所が一つしかないという感覚が、言葉を溢れさせる。
神崎は窓から離れた。
来るか来ないかは、桐谷が決める。
ただ、来るとしたら——次のセッションは、今までとは違う深さになる。
そのことを、神崎は静かに待っていた。
翌日の昼過ぎ、桐谷は一人で動いた。
勤務時間内だったが、別件の聴取という名目で外に出た。嘘ではない。ただ、その「別件」が正式な案件ではなかった。
神崎メンタルクリニックの近くを、歩いた。
クリニックの前には立たない。一ブロック離れた場所にある、古い喫茶店に入った。窓際の席を選ぶ。通りが見える位置だった。クリニックの建物が、視界の端にある。
何かを見ようとしていたわけではなかった。
ただ、この場所にいたかった。
あの建物が視界の端にある状態で、考えたかった。それだけだった。理由になっていないことは分かっている。だが今の桐谷には、それが必要だった。
コーヒーを頼む。
来た。一口飲む。
やはり、味がずれていた。昨日より少しだけ、ずれの幅が大きい気がした。舌が感じている情報と、頭が処理している情報の間に、わずかなラグがある。それが最近、少しずつ広がっている。
気のせいかもしれない。
だが気のせいかどうかも、今の桐谷には判断できなかった。
窓の外を、人が歩く。
しばらくして、クリニックの自動ドアが開いた。
出てきたのは、四十代くらいの男だった。少し肩が下がっている。セッションを終えた後の体の緩み方だった。桐谷も知っている感覚だ。あの空間を出た直後の、ぬくもりと脱力が混ざったような感覚。
男は少しの間、ドアの外に立っていた。
空を見上げる。一度だけ、深く息を吸う。それから歩き始める。
その一連を、桐谷は見ていた。
あの男は今、何を感じているのか。楽になった、と思っているかもしれない。重かったものが少し軽くなった、と感じているかもしれない。あるいは、自分でも気づかないうちに、何かが変わり始めているかもしれない。
それが本当の変化なのか。
それとも、変化したように感じさせられているのか。
桐谷には分からなかった。
判断する根拠がない。あの男が神崎に何を話し、神崎が何を返したのか、知らない。ただ、あの肩の落ち方と、空を見上げた瞬間の顔だけがある。
その顔は、楽になった人間の顔だった。
それが答えなのかもしれない。
あるいは、それがいちばん恐ろしいことなのかもしれない。
コーヒーカップを置く。
考えすぎだ、と思った。だが考えすぎと判断すること自体が、神崎によって作られた感覚なのかもしれない、とも思った。
どこまで考えても、終わらなかった。
自分の思考が、どこまで自分のものかが、分からなくなってきていた。
夕方、署に戻り、一人でパソコンに向かった。
神崎の空白期間を、別の角度から調べる。
学会や論文ではなく、もっと細かいところ。地域の医療機関への登録記録。医師免許の登録住所の変更履歴。公的な記録として残っているものを、手続きの範囲内で辿る。
一時間ほどかけて、一つの事実を見つけた。
神崎が帰国後、クリニックを開業する前に登録していた住所。
都内ではなく、神奈川の、ある地域だった。
桐谷はその地名を見て、すぐには動かなかった。
地図を開く。
母が死んだ場所と、同じ県だった。
同じ県というだけでは、何も言えない。神奈川は広い。登録住所と死亡場所の距離は、車で一時間以上ある。接点とは言えない。証拠にはならない。状況証拠にすらならない。石川が言った言葉が、頭の中で繰り返された。
だが。
桐谷は、その地名をノートに書き留めた。
証拠ではない。符合ですらないかもしれない。それでも、ノートに書いた。書かずにいられなかった。
同じ時期に、同じ県にいた。
それだけだ。それだけのことだ。
なのに、その事実が異様に重く感じた。
重く感じること自体が、自分が冷静さを失っている証拠かもしれない。等しいことは分かっている。だが冷静さを失っているという自覚と、感じる重さは、別々に存在していた。
桐谷はノートを閉じた。
デスクに肘をつき、額を手で支えた。
蛍光灯の光が、目に刺さる感じがした。いつもと同じ光のはずなのに、今夜は少しだけまぶしかった。感覚の鈍化と鋭化が、同時に起きている。何かが変わっている。
何が変わっているのかは、まだ分からない。
夜、三宅からメッセージが来た。
画面を見た瞬間、内容を読む前に、三宅からだと分かった。この時間に三宅からメッセージが来ることの意味が、読む前から伝わった。
『佐伯の件、担当班が正式クローズ。自殺で確定。』
それだけだった。
桐谷はメッセージを読んで、スマートフォンを机に置いた。
藤原悠人、自殺で確定。
佐伯康、自殺で確定。
二件とも、終わった。
公式には、何もなかった。神崎メンタルクリニックは、患者が二人亡くなったクリニックだが、それだけだ。精神科に通う患者が自殺することは、統計的に珍しくない。医師や臨床心理士に法的な責任は発生しない。捜査機関が動く根拠がない。
全部、正しい。全部、その通りだ。
桐谷は一人になった。数字として、確定した。
正式な捜査として動ける案件は存在しない。上司には釘を刺された。三宅との間には、昨日、何かが生まれた。亀裂ではなく——もっと複雑な何かが。
それでも桐谷は、次のセッションの予約を確認した。
三日後、午後三時。田村圭介として、神崎メンタルクリニックへ行く予約。
取り消していない。
取り消す気が、なかった。
捜査のために行く、という理由は、もう成立しない。組織として動けない案件を、一人で追い続けることに、職務上の正当性はない。上司にそれを問われたら、答えられない。
それは分かっていた。
では、なぜ行くのか。
答えは一つだった。
母のことを、知りたいからだ。
神崎が母を知っていたかどうか。知っていたとしたら、何を知っていたのか。母の死に、あの男が関わっているかどうか。
それを、知らないまま止まることが、できなかった。
桐谷はスマートフォンを取り、三宅へ返信した。
『分かった。』
それだけ送った。
三宅からの返信は、すぐには来なかった。
五分ほど経ってから、来た。
『明日、飯でも食うか。』
桐谷はその文章を、しばらく見ていた。
三宅らしくない誘い方だった。普段なら「飯行くぞ」か「昼どうする」か、そういう言い方をする。「でも食うか」という言い方は、どこか遠慮している。
遠慮している三宅、という像が、桐谷には少しだけ痛かった。
昨日、三宅の声が上がった。桐谷が泣いた。その後、二人の間に生まれた何かが、今夜のメッセージの「でも食うか」という言い方に出ていた。
返信する。
『ああ。』
深夜、桐谷はソファに座っていた。
電気は消えている。スマートフォンの画面だけが、時々光る。
今日起きたことを、順番に整理しようとした。
石川に動けないと言われた。神崎の住所が母と同じ県だった。佐伯の件が正式クローズになった。三宅から飯の誘いが来た。
全部並べると、多くのことが動いた一日だった。
だが、何も進んでいない。
証拠は出ていない。神崎に近づいていない。ただ、自分の状態が変わった。昨日泣いた。今日は感覚がずれ続けた。コーヒーの味が遠い。手先の感触が薄い。
桐谷は自分の手を見た。
暗がりの中で、手の輪郭がぼんやりしている。自分の手なのに、少しだけ遠く見えた。
昨日泣いた、ということが、今夜も引っかかり続けていた。
なぜ泣いたか、が分からない。
それは今も変わっていなかった。感情の理由が、自分には見えなかった。
悲しかったのか。疲れていたのか。三宅の声が上がったことへの驚きか。止まれない自分への苛立ちか。
全部が混ざっていた気がした。だがどれが本体なのかが分からない。
それは今まで経験したことのない感覚だった。
感情の理由が見つからない。
あるいは、理由が多すぎて絞れない。
どちらなのかも、分からない。
スマートフォンが光る。三宅ではなかった。ニュースアプリの通知だった。見ずに画面を伏せる。
暗い部屋の中で、桐谷は天井を見た。
三日後、神崎のところへ行く。
捜査としてではなく、個人として。
その境界を越えた、ということは、自分でも分かっていた。昨日ではなく、今日ではなく、もっと前から越えていたのかもしれない。最初のセッションで母親の話をした時から、すでに越えていたのかもしれない。
越えた先に何があるかは、まだ分からない。
だが、越えたことは確かだった。
三日後。
クリニックの前に立った時、桐谷は自分の呼吸を確認した。
乱れていない。手が震えているわけでもない。身体の状態は、普通だった。
普通、という感覚自体が、最近は信頼できなくなっているが。
自動ドアが開く。
暖かい空気が来る。木の香りが来る。
桐谷は一歩、中に入った。
受付の女性が顔を上げる。
「田村様、お待ちしておりました」
お待ちしておりました、という言葉が、今日は少しだけ違って聞こえた。
定型の挨拶だ。誰に対しても言う言葉だ。それは分かっている。
だが今日は、その言葉が——最初から待っていた、という意味に聞こえた。
田村圭介を待っていたのではなく。桐谷玲司を。来ることが分かっていた人間を。
根拠はない。ただの受付の挨拶だ。
それでも、そう聞こえた。
椅子に座る。待つ。扉が開く。
「田村様」
立ち上がる。奥へ進む。扉を開ける。
神崎恒一が、いつもの位置に座っていた。
「いらっしゃい」
その一言が、いつもと少し違った。
「初めまして」でも「どうぞ」でもなく、「いらっしゃい」だった。
まるで、帰ってきた人間に言う言葉のように。
桐谷は座った。向かい合う。神崎は何も言わない。今日は、こちらが口を開くのを待っている。その待ち方が、今までと違った。急かさない。埋めない。ただ、静かに待っている。
その静けさの中で、桐谷は口を開いた。
「前回、母の名前を言いましたか」
神崎は少しだけ目を細めた。
「何の名前ですか」
「澄子、という名前を」
神崎は、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「田村さんが、今日初めておっしゃいました」
部屋が静かだった。
時計の音だけがある。カチ、カチ、と。
桐谷は神崎を見た。神崎は桐谷を見ていた。
どちらも、外さなかった。
その沈黙の中で、桐谷は一つのことを思った。
この男は嘘をついているか、本当のことを言っているか。
どちらかを確認する方法が、今の自分にはない。
そして、その「確認できない」という状態を、この男は最初から作っていた。
それだけは、分かった。




