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インスラ:教唆するカウンセラー  作者:


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7/9

孤立

石川警部補は、窓を背にして座っていた。

光の加減で、表情が読みにくい。意図してそうしているのか、ただそこに椅子があるだけなのかは分からない。桐谷が部屋に入った時、石川はすでに座っていて、書類を一枚だけ机の上に置いていた。余分なものが何もない机だった。ペンが一本。書類が一枚。それだけだった。

「座れ」

短く言う。

桐谷は向かいの椅子に座った。

石川隆、警視庁捜査一課係長。五十代前半。髪に白が混じり始めているが、体格は崩れていない。長く現場にいた人間の体つきをしていた。贅肉がなく、かといって鍛えている感じでもない。ただ、必要なものだけが残った体だった。

口数が少ない、という評判は桐谷も聞いていた。怒鳴らない、褒めない、雑談しない。必要なことだけを言う男だ。部下からは怖いと思われているが、嫌われてはいない。そういう種類の人間だった。

「神崎メンタルクリニックの件だ」

石川は書類を一度だけ見て、また桐谷を見た。書類の内容を確認しているのではなく、話す前に一度間を置く、という習慣のように見えた。

「藤原悠人と佐伯康。どちらも自殺として処理された。お前が両件に関心を持っていることは把握している」

「はい」

「根拠は何だ」

桐谷は答えた。二件の共通点を、順番に並べる。同じクリニックへの通院歴。死亡直前の電話記録。整いすぎた現場。絶望の臭いが薄い遺書。言葉を選びながら、しかし曖昧にせずに並べた。

石川は黙って聞いていた。

途中で遮らない。頷きもしない。ただ聞いている。その聞き方は、否定の準備をしている人間の聞き方ではなかった。材料を確認している人間の聞き方だった。

桐谷が話し終えると、少しの間があった。

「それだけか」

「今のところは」

「状況証拠にもなっていない」

桐谷は答えない。

「同じクリニックに通っていた患者が複数亡くなることは、統計的に珍しくない。精神疾患の既往がある患者の自殺リスクは、一般と比較して有意に高い。遺書の文体や現場の状態は、個人差の範囲として説明できる」

「分かっています」

「では、何がある」

桐谷は少しだけ考えた。論理として答えられるものは、もう出し切った。残っているのは——

「感覚です」

石川の目が、わずかに動いた。

書類から桐谷へ、ではない。桐谷の顔の表面から、もう少し奥へ。そういう動き方だった。

「感覚で動くなと言いたいんじゃない」石川は言う。「感覚を証拠に変えるだけの材料が、まだない、と言っている」

「はい」

「正式な捜査としては動けない」

「分かっています」

「お前が個人的に動くことまでは止められない。だが——」

そこで石川は一度だけ間を置いた。

視線が桐谷から外れない。言葉は少ないが、その目だけが何かを追っていた。桐谷の顔ではなく、桐谷の内側の何かを、確認するように。

それが一秒ほど続いた。

「無理をするな」

それだけだった。

命令でも忠告でもない、ただの一文だった。だがその一文の重さが、桐谷には予想外だった。感情を言葉にしない男が、この場でその一文を選んだ。

「……分かりました」

桐谷は立ち上がった。

部屋を出る直前、石川がもう一度だけ言った。

「何か出たら、必ず持ってこい」

振り返らずに、桐谷は頷いた。

廊下に出て、ドアが閉まる音を聞きながら、桐谷はしばらくその場に立っていた。

石川の目を思い出していた。

あの目は、心配していた。言葉にはしなかったが、していた。口数の少ない男が、視線だけで伝えていた。それが桐谷には、言葉より重く届いた。


三宅が壁に背中をつけて立っていた。

腕を組んで、少し顎を引いた姿勢。廊下の端、人の流れから外れた位置だった。待っていた、という顔ではなく、ただそこにいた、という顔だった。だがその「ただそこにいた」は、桐谷が出てくるのを待っていたからだ、ということは分かった。

「終わったか」

「ああ」

「何を言われた」

「動けない、と」

三宅は頷く。想定通りだ、という顔だった。

二人は並んで歩き始めた。階段を下り、一階の廊下を抜けて、非常口から外へ出る。庁舎の裏側、駐車場の端。人がいない場所だった。

三宅が自然にそこへ向かったことを、桐谷は確認していた。外で話すつもりがあった、ということだ。

冷たい空気が来る。空は薄い灰色で、光の方向が分かりにくかった。

「上に報告したのは俺じゃない」

三宅が先に言った。

「分かってる」

「本当に分かってるか」

桐谷は三宅を見た。「疑ってない」

三宅は少しだけ息を吐いた。

「誰が報告したかは分からない。お前の動きは、思ったより見られていたということだ」

「そうだな」

しばらく、二人は黙っていた。駐車場の端、フェンスの向こうに民家の屋根が見える。遠くで車の音がしている。

「上は、何で止めた」

三宅が聞く。

「証拠がない。状況証拠にすらなっていない。統計的に説明できる、と」

「それは正しい判断だ」

「そうだな」

「なのにお前は続けるつもりか」

「ああ」

三宅は少しの間、フェンスの向こうを見ていた。

「桐谷」

声のトーンが変わった。

「何だ」

「お前は今、何を追っているんだ」

「神崎を追っている」

「神崎の何を」

「患者を誘導して死なせている可能性を」

「それだけか」

桐谷は答えなかった。

「母親の件も追っているんだろ」

「……ああ」

「それは捜査か」

「……今は、分からない」

三宅は桐谷を見た。長く見た。桐谷はその視線を受けた。逸らさなかった。


「分からない、か」

三宅が繰り返す。静かな声だった。

「ああ」

「お前が自分で分からないと言っている」

「そうだ」

「なのに続けると言っている」

「そうだ」

三宅は一度だけ目を閉じた。それから開けた時、桐谷は三宅の顔が少し変わっていることに気づいた。いつもの三宅ではなかった。感情を抑える前の、その手前の顔だった。

「なあ、桐谷」

「何だ」

「俺はな」

三宅の声が、わずかに上がった。

意図していない上がり方だった。三宅自身が気づいたのが分かった。一瞬止まったが、そのまま続けた。

「お前がおかしくなっていくのを、隣で見てるのが——」

そこで声が途切れた。

怒鳴ったわけではない。感情が声の制御を一瞬だけ超えた、という感じだった。押さえていたものが、押さえきれなくなった瞬間だった。三宅は口を閉じ、顎を引き、フェンスの向こうを見た。

桐谷は何も言えなかった。

三宅がこういう顔をするのを、初めて見た。この男は現場で怒鳴らない。感情を外に出さない。それが三宅亮という人間だった。その三宅の声が上がった。声が途切れた。

その事実の重さが、桐谷の胸の底に落ちた。

「……怖いんだろ」

桐谷は言った。

三宅は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

桐谷は視線を地面に落とした。アスファルトの細かいひびが見える。朝に感じた、手先の感触の薄さが、また戻っていた。

だが今、それより別のものが来ていた。

何かが、目の奥に来た。

涙だ、と気づいたのは、頬に触れてからだった。

出ていた。感情より先に、身体が動いていた。悲しいとも、痛いとも、明確に思っていなかった。ただ、気がついたら、頬が濡れていた。

桐谷は手の甲で拭った。一度で拭いきれなかった。もう一度拭った。

三宅は見ていた。何も言わなかった。

「……すまない」

桐谷が言う。

「何が」三宅は静かに言う。「謝るな」

「でも」

「謝るな、と言っている」

三宅の声は、もう普段の声に戻っていた。だが何かが変わった、ということは、二人とも分かっていた。変わる前には戻れない、という種類の変化が、ここで起きた。

しばらく、二人はその場に立っていた。

風が少しだけ吹いた。駐車場の端、フェンスに沿って、落ち葉が転がっていく。その音だけがしばらく聞こえた。

「続けるのは止めない」

三宅が言う。

「……ああ」

「ただ」

「ただ?」

「お前が泣いたことを、覚えておけ」

桐谷は三宅を見た。

「自分がどういう状態かを、忘れるな、ということだ。今日ここで何が起きたかを、ちゃんと持っておけ」

それだけ言って、三宅は歩き出した。

桐谷はその背中を、少しの間見ていた。

三宅が感情を出した。そして桐谷が泣いた。どちらも、この二人の間では起きたことのないことだった。それが今日、駐車場の端で起きた。

証人は誰もいなかった。

その夜。

桐谷は自宅の机に向かっていた。

パソコンの画面が、暗い部屋の中で白く光っている。電気をつけるのを忘れていた。気づいたが、立ち上がって電気をつける気になれなかった。その方が、今夜は合っている気がした。

画面には、神崎恒一に関する情報が並んでいた。帰国後の動き。クリニック開業前の一年半の空白。論文の発表歴。学会への出席記録。それらを、一つずつ照合していた。

何も出てこなかった。

空白期間に何をしていたか、公開情報からは分からない。学会記録にも、その期間の名前はない。論文も出ていない。ただ、いない。どこかにいたはずだ。日本のどこかで、あるいは海外のどこかで。だが、それを示す記録が、公開情報の範囲では見つからない。

桐谷は検索を止めて、画面を眺めた。

今日、泣いた。

そのことを、頭の中でもう一度確認した。

感情と理由が一致しなかった。なぜ泣いたのか、今も正確には分からない。三宅の声が上がった時、何かが崩れた。だが、それが悲しみなのか、疲労なのか、あるいは別の何かなのか、言葉が当てはまらない。

全部が混ざっていた。

三宅を心配させていることへの後ろめたさ。止まれない自分への苛立ち。それでも止まりたくない、という意志。母のことを追い続けることへの、後ろめたさと焦りと、何か別の感情。

それが一度に来て、身体が先に反応した。

感情というものは、本来、理由と一緒に来るものだと思っていた。だが今日は、理由の前に身体が動いた。涙は感情の結果ではなく、感情より先にあった。

それが異常なのかどうか、まだ判断できなかった。

あるいは判断できないこと自体が、異常の証拠なのかもしれない。

画面を閉じる。

暗闇の中で、しばらく座っていた。

同じ夜、神崎は診療室の照明を落とした後、窓の外を見ていた。

今日、桐谷玲司に会っていない。次のセッションまで、まだ数日ある。

だが神崎は、桐谷のことを考えていた。

今日の桐谷がどんな状態にあるかを、考えていた。

上から圧力がかかったはずだ。正式な捜査として動けない、と告げられたはずだ。相棒との間にも、何かが起きているはずだ。そういう段階にある。

来なくなる可能性がある。

神崎はその可能性を、感情なく検討した。

来なくなれば、それも一つの結果だ。桐谷玲司が、この場所に来ることをやめる。それは、桐谷が何かを選んだということだ。外側からの圧力に従う選択を。あるいは、自分の内側の声を無視する選択を。

どちらにしても、それはその男の選択だ。

だが来るとしたら。

今日より削られた状態で来る。外側の支えが減った状態で来る。一人で動いているという意識を持って来る。

そういう状態の人間は、あの部屋の中で、より深くまで開く。

一人だという感覚が、人を話させる。聞いてもらえる場所が一つしかないという感覚が、言葉を溢れさせる。

神崎は窓から離れた。

来るか来ないかは、桐谷が決める。

ただ、来るとしたら——次のセッションは、今までとは違う深さになる。

そのことを、神崎は静かに待っていた。

翌日の昼過ぎ、桐谷は一人で動いた。

勤務時間内だったが、別件の聴取という名目で外に出た。嘘ではない。ただ、その「別件」が正式な案件ではなかった。

神崎メンタルクリニックの近くを、歩いた。

クリニックの前には立たない。一ブロック離れた場所にある、古い喫茶店に入った。窓際の席を選ぶ。通りが見える位置だった。クリニックの建物が、視界の端にある。

何かを見ようとしていたわけではなかった。

ただ、この場所にいたかった。

あの建物が視界の端にある状態で、考えたかった。それだけだった。理由になっていないことは分かっている。だが今の桐谷には、それが必要だった。

コーヒーを頼む。

来た。一口飲む。

やはり、味がずれていた。昨日より少しだけ、ずれの幅が大きい気がした。舌が感じている情報と、頭が処理している情報の間に、わずかなラグがある。それが最近、少しずつ広がっている。

気のせいかもしれない。

だが気のせいかどうかも、今の桐谷には判断できなかった。

窓の外を、人が歩く。

しばらくして、クリニックの自動ドアが開いた。

出てきたのは、四十代くらいの男だった。少し肩が下がっている。セッションを終えた後の体の緩み方だった。桐谷も知っている感覚だ。あの空間を出た直後の、ぬくもりと脱力が混ざったような感覚。

男は少しの間、ドアの外に立っていた。

空を見上げる。一度だけ、深く息を吸う。それから歩き始める。

その一連を、桐谷は見ていた。

あの男は今、何を感じているのか。楽になった、と思っているかもしれない。重かったものが少し軽くなった、と感じているかもしれない。あるいは、自分でも気づかないうちに、何かが変わり始めているかもしれない。

それが本当の変化なのか。

それとも、変化したように感じさせられているのか。

桐谷には分からなかった。

判断する根拠がない。あの男が神崎に何を話し、神崎が何を返したのか、知らない。ただ、あの肩の落ち方と、空を見上げた瞬間の顔だけがある。

その顔は、楽になった人間の顔だった。

それが答えなのかもしれない。

あるいは、それがいちばん恐ろしいことなのかもしれない。

コーヒーカップを置く。

考えすぎだ、と思った。だが考えすぎと判断すること自体が、神崎によって作られた感覚なのかもしれない、とも思った。

どこまで考えても、終わらなかった。

自分の思考が、どこまで自分のものかが、分からなくなってきていた。

夕方、署に戻り、一人でパソコンに向かった。

神崎の空白期間を、別の角度から調べる。

学会や論文ではなく、もっと細かいところ。地域の医療機関への登録記録。医師免許の登録住所の変更履歴。公的な記録として残っているものを、手続きの範囲内で辿る。

一時間ほどかけて、一つの事実を見つけた。

神崎が帰国後、クリニックを開業する前に登録していた住所。

都内ではなく、神奈川の、ある地域だった。

桐谷はその地名を見て、すぐには動かなかった。

地図を開く。

母が死んだ場所と、同じ県だった。

同じ県というだけでは、何も言えない。神奈川は広い。登録住所と死亡場所の距離は、車で一時間以上ある。接点とは言えない。証拠にはならない。状況証拠にすらならない。石川が言った言葉が、頭の中で繰り返された。

だが。

桐谷は、その地名をノートに書き留めた。

証拠ではない。符合ですらないかもしれない。それでも、ノートに書いた。書かずにいられなかった。

同じ時期に、同じ県にいた。

それだけだ。それだけのことだ。

なのに、その事実が異様に重く感じた。

重く感じること自体が、自分が冷静さを失っている証拠かもしれない。等しいことは分かっている。だが冷静さを失っているという自覚と、感じる重さは、別々に存在していた。

桐谷はノートを閉じた。

デスクに肘をつき、額を手で支えた。

蛍光灯の光が、目に刺さる感じがした。いつもと同じ光のはずなのに、今夜は少しだけまぶしかった。感覚の鈍化と鋭化が、同時に起きている。何かが変わっている。

何が変わっているのかは、まだ分からない。


夜、三宅からメッセージが来た。

画面を見た瞬間、内容を読む前に、三宅からだと分かった。この時間に三宅からメッセージが来ることの意味が、読む前から伝わった。

『佐伯の件、担当班が正式クローズ。自殺で確定。』

それだけだった。

桐谷はメッセージを読んで、スマートフォンを机に置いた。

藤原悠人、自殺で確定。

佐伯康、自殺で確定。

二件とも、終わった。

公式には、何もなかった。神崎メンタルクリニックは、患者が二人亡くなったクリニックだが、それだけだ。精神科に通う患者が自殺することは、統計的に珍しくない。医師や臨床心理士に法的な責任は発生しない。捜査機関が動く根拠がない。

全部、正しい。全部、その通りだ。

桐谷は一人になった。数字として、確定した。

正式な捜査として動ける案件は存在しない。上司には釘を刺された。三宅との間には、昨日、何かが生まれた。亀裂ではなく——もっと複雑な何かが。

それでも桐谷は、次のセッションの予約を確認した。

三日後、午後三時。田村圭介として、神崎メンタルクリニックへ行く予約。

取り消していない。

取り消す気が、なかった。

捜査のために行く、という理由は、もう成立しない。組織として動けない案件を、一人で追い続けることに、職務上の正当性はない。上司にそれを問われたら、答えられない。

それは分かっていた。

では、なぜ行くのか。

答えは一つだった。

母のことを、知りたいからだ。

神崎が母を知っていたかどうか。知っていたとしたら、何を知っていたのか。母の死に、あの男が関わっているかどうか。

それを、知らないまま止まることが、できなかった。

桐谷はスマートフォンを取り、三宅へ返信した。

『分かった。』

それだけ送った。

三宅からの返信は、すぐには来なかった。

五分ほど経ってから、来た。

『明日、飯でも食うか。』

桐谷はその文章を、しばらく見ていた。

三宅らしくない誘い方だった。普段なら「飯行くぞ」か「昼どうする」か、そういう言い方をする。「でも食うか」という言い方は、どこか遠慮している。

遠慮している三宅、という像が、桐谷には少しだけ痛かった。

昨日、三宅の声が上がった。桐谷が泣いた。その後、二人の間に生まれた何かが、今夜のメッセージの「でも食うか」という言い方に出ていた。

返信する。

『ああ。』

深夜、桐谷はソファに座っていた。

電気は消えている。スマートフォンの画面だけが、時々光る。

今日起きたことを、順番に整理しようとした。

石川に動けないと言われた。神崎の住所が母と同じ県だった。佐伯の件が正式クローズになった。三宅から飯の誘いが来た。

全部並べると、多くのことが動いた一日だった。

だが、何も進んでいない。

証拠は出ていない。神崎に近づいていない。ただ、自分の状態が変わった。昨日泣いた。今日は感覚がずれ続けた。コーヒーの味が遠い。手先の感触が薄い。

桐谷は自分の手を見た。

暗がりの中で、手の輪郭がぼんやりしている。自分の手なのに、少しだけ遠く見えた。

昨日泣いた、ということが、今夜も引っかかり続けていた。

なぜ泣いたか、が分からない。

それは今も変わっていなかった。感情の理由が、自分には見えなかった。

悲しかったのか。疲れていたのか。三宅の声が上がったことへの驚きか。止まれない自分への苛立ちか。

全部が混ざっていた気がした。だがどれが本体なのかが分からない。

それは今まで経験したことのない感覚だった。

感情の理由が見つからない。

あるいは、理由が多すぎて絞れない。

どちらなのかも、分からない。

スマートフォンが光る。三宅ではなかった。ニュースアプリの通知だった。見ずに画面を伏せる。

暗い部屋の中で、桐谷は天井を見た。

三日後、神崎のところへ行く。

捜査としてではなく、個人として。

その境界を越えた、ということは、自分でも分かっていた。昨日ではなく、今日ではなく、もっと前から越えていたのかもしれない。最初のセッションで母親の話をした時から、すでに越えていたのかもしれない。

越えた先に何があるかは、まだ分からない。

だが、越えたことは確かだった。

三日後。

クリニックの前に立った時、桐谷は自分の呼吸を確認した。

乱れていない。手が震えているわけでもない。身体の状態は、普通だった。

普通、という感覚自体が、最近は信頼できなくなっているが。

自動ドアが開く。

暖かい空気が来る。木の香りが来る。

桐谷は一歩、中に入った。

受付の女性が顔を上げる。

「田村様、お待ちしておりました」

お待ちしておりました、という言葉が、今日は少しだけ違って聞こえた。

定型の挨拶だ。誰に対しても言う言葉だ。それは分かっている。

だが今日は、その言葉が——最初から待っていた、という意味に聞こえた。

田村圭介を待っていたのではなく。桐谷玲司を。来ることが分かっていた人間を。

根拠はない。ただの受付の挨拶だ。

それでも、そう聞こえた。

椅子に座る。待つ。扉が開く。

「田村様」

立ち上がる。奥へ進む。扉を開ける。

神崎恒一が、いつもの位置に座っていた。

「いらっしゃい」

その一言が、いつもと少し違った。

「初めまして」でも「どうぞ」でもなく、「いらっしゃい」だった。

まるで、帰ってきた人間に言う言葉のように。

桐谷は座った。向かい合う。神崎は何も言わない。今日は、こちらが口を開くのを待っている。その待ち方が、今までと違った。急かさない。埋めない。ただ、静かに待っている。

その静けさの中で、桐谷は口を開いた。

「前回、母の名前を言いましたか」

神崎は少しだけ目を細めた。

「何の名前ですか」

「澄子、という名前を」

神崎は、ほんの一瞬だけ間を置いた。

「田村さんが、今日初めておっしゃいました」

部屋が静かだった。

時計の音だけがある。カチ、カチ、と。

桐谷は神崎を見た。神崎は桐谷を見ていた。

どちらも、外さなかった。

その沈黙の中で、桐谷は一つのことを思った。

この男は嘘をついているか、本当のことを言っているか。

どちらかを確認する方法が、今の自分にはない。

そして、その「確認できない」という状態を、この男は最初から作っていた。

それだけは、分かった。


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