ある日
早川翔太が覚えている母親の笑い声は、三種類あった。
一つ目は、テレビを見ている時の笑い声。声を立てて笑うやつで、父が一緒にいる時によく出た。父がくだらないことを言って、母がそれにつられる。そういう笑い声。
二つ目は、翔太が小さい頃に絵を描いて見せた時の笑い声。「上手ね」と言いながら笑う声。今思えばお世辞だったかもしれないが、あの声は本物だった気がする。
三つ目は、台所で一人でいる時の、小さな笑い声。何がおかしいのか翔太には分からないが、時々、母は一人でふっと笑っていた。
その三つ目の笑い声が、いつの間にか消えていた。
翔太が気づいたのは、五年生になった頃だった。
気づいた、というより、ずっと前からなかった気がする。ただ、五年生になって、自分の部屋で過ごす時間が増えて、母と話す機会が減って、その減った分だけ母の笑い声を聞く機会も減って——気がついたら、どの笑い声も、しばらく聞いていなかった。
母が変わったのか、自分が変わったのか、翔太には分からなかった。
ただ、食卓が静かになっていた。
父がいる夜はまだいい。父は何でもないことをよく話す。仕事の愚痴でも、近所のニュースでも、好きな野球チームの話でも、とにかく喋る。それで食卓が埋まる。翔太も相槌を打てる。
だが父がいない夜は、翔太と母の二人で、言葉が少ないまま食事をした。
母が料理を並べる。翔太が「いただきます」と言う。食べる。母も食べる。テレビをつけたままにしていた。テレビがないと、箸の音だけがした。
それが当たり前になっていた。
去年の秋のことだ。
翔太が学校から帰ると、台所から鼻歌が聞こえた。
最初、何の音か分からなかった。曲名も分からない。メロディーもはっきりしない。ただ、人の声だった。鼻から出している、柔らかい音。
覗いてみると、母が夕食の準備をしながら歌っていた。
こちらに気づいていない。まな板の上で何かを切りながら、小さな声で歌っている。肩の力が抜けていた。背中が、翔太の知っている母の背中だった。もっと小さかった頃に見ていた、あの背中。
翔太はランドセルを下ろすのを忘れて、しばらくそこに立っていた。
「……おかえり」
母が気づいて振り返った。
「ただいま」
「今日、早かったね」
「部活なかったから」
「そう」
それだけだった。特別な会話ではなかった。だが母の顔が、翔太には見覚えのある顔だった。もっと小さかった頃の、母の顔。
その夜の夕食は、父も帰りが早くて、三人で食べた。
母が作ったのはカレーだった。翔太の好きなやつで、少し甘めに作ってある。それを出しながら、母が言った。
「翔太、最近部活どう?」
「まあまあ」
「試合は?」
「来月ある」
「見に行っていい?」
翔太は少し驚いた。去年は、行けそうなら行くね、という感じだった。でも来られなかった。だが今回は「行っていい?」だった。聞き方が違う。来たい、という気持ちが前に出ていた。
「……来ていいよ」
翔太が言うと、母は少しだけ笑った。
その笑い方が、三つ目の笑い声と同じだった。
台所で一人でいる時の、何がおかしいのか分からない笑い方。それが今、翔太に向かって出ていた。
父が母を見て、何か言おうとして、黙った。その顔を見て、翔太は父も気づいていると分かった。
三人でカレーを食べた。
テレビはつけなかった。それでも、食卓は静かではなかった。
その後も、少しずつ変わっていった。
母が翔太の部屋のドアをノックして、「何か飲む?」と聞くようになった。翔太は最初、少し戸惑った。最近そういうことがなかったから。だが、「麦茶」と答えると、母はすぐに持ってきた。そして少しだけドアの前に立って、「宿題多い?」と聞いた。
「まあ」
「頑張れ」
それだけ言って、戻った。
その「頑張れ」の一言が、翔太には嬉しかった。押しつけがましくない言い方だった。応援しているけど、無理しなくていい、という感じの言い方。
週末、三人で近くの公園に行ったこともあった。
公園といっても、ベンチに座って話しただけだ。翔太はもう公園で遊ぶ年齢でもない。ただ、外を歩いて、ベンチに座って、缶ジュースを飲んだ。
父と翔太が野球の話をしている間、母はそれを聞きながら、時々笑っていた。
三つ目の笑い声が、何度か聞こえた。
帰り道、翔太の隣を歩きながら、母が言った。
「翔太、大きくなったね」
「そうかな」
「こんなに背が高くなって」
「お母さんが縮んだんじゃないの」
母が笑った。声を立てて笑った。一つ目の笑い声だった。
翔太は少しだけ照れて、先を歩いた。
後ろで父が何か言って、また母が笑っていた。
その日の帰り道の、夕方の光の色と、母の笑い声が、翔太には今でも鮮明だった。
それからしばらく経った朝のことだ。
翔太が学校の支度をしていると、台所から母の声がした。
「翔太、朝ごはんできてるよ」
「今行く」
ダイニングに行くと、母が立っていた。朝食が並んでいた。卵焼きと、味噌汁と、ご飯。いつも通りの朝食だった。
「今日、何かあった?」
翔太が聞くと、母が振り返った。
「え? 何もないけど」
「なんか、顔が明るいから」
母は少しだけ考えるような顔をした。それから、翔太をまっすぐ見て、穏やかに笑った。
「そう?」
「うん」
「じゃあ、いいことあったんかもね」
母はそれだけ言って、味噌汁をよそった。
翔太は椅子に座り、卵焼きを一口食べた。甘かった。翔太の好きな味だった。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
母がそう言った時の声が、柔らかかった。
翔太は食べながら、窓の外を見た。晴れていた。今日は体育があるから、晴れてよかった。
「行ってきます」
玄関で靴を履きながら言うと、母が来た。
「行ってらっしゃい」
翔太は振り返った。
母が立っていた。エプロンをつけたまま、玄関の前に立っていた。
穏やかな顔だった。
何でもない、いつもの朝の顔だった。だがその顔が、その瞬間だけ、翔太には異様に鮮明に見えた。
なぜかは分からなかった。
「……行ってきます」
もう一度言って、翔太は扉を開けた。
外の空気が来た。
扉が閉まった。
それが、翔太が見た母の最後の顔だった。
通報が入ったのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
都内のマンション、上層階からの転落。女性、三十代。死亡確認済み。
桐谷は書類の整理をしていたデスクから立ち上がり、コートを取った。
三宅が隣で同じように立ち上がる。
「行くか」
「ああ」
車に乗り込んで、三宅が運転する。桐谷は助手席で、渡された資料に目を通した。
早川麻里、三十四歳。専業主婦。夫と子供一人。マンションの十三階から転落。目撃者なし。第一発見者は同じマンションの住人で、駐車場で発見して通報した。
桐谷は資料を一度閉じた。
三十四歳。子供がいる。
何も感じないようにしながら、感じていた。
「どんな現場だと思う」
三宅が言う。
「まだ分からない」
「珍しく慎重だな」
「そうか」
三宅はそれ以上言わなかった。信号で止まる。外の景色が流れていく。
現場のマンションが見えてきた頃、桐谷は窓の外に視線を向けた。
規制線が張られている。野次馬が何人か集まっている。鑑識の車が一台。救急車はすでに来て、去った後だった。
車を停めて、降りる。
コートの前を合わせながら、桐谷は規制線へ向かった。
その時、視界の端に、人影が見えた。
規制線の外、少し離れた場所。野次馬の群れから少し外れた位置に、一人の男が立っていた。
桐谷の足が、一瞬だけ止まった。
神崎恒一だった。
神崎は、規制線から十メートルほど離れた場所に立っていた。
野次馬のように前に出ていない。かといって、偶然そこを通りがかった人間のように、足を止めて見ているわけでもない。
ただ、そこにいた。
立っていた、という表現が正確かどうかも分からない。存在していた、という感じだった。その場所に、この状況に、馴染んでいた。
桐谷は規制線をくぐりながら、神崎から目を離さなかった。
神崎はこちらに気づいていない。少なくとも、気づいている素振りを見せていない。視線は、現場の方へ向いていた。駐車場の一角、鑑識が作業している周辺を、静かに見ていた。
桐谷は鑑識の担当者に声をかけ、状況を確認しながら、神崎を視界の端に置き続けた。
「転落の経緯は」
「まだ調査中です。遺書らしきものが室内に。争った形跡はありません」
「家族は」
「夫が職場から戻ってきています。子供は学校で、まだ連絡が行っていない段階です」
桐谷はそれを聞きながら、子供という言葉で一瞬止まった。
学校にいる。まだ知らない。
今日の午後、学校から帰ってきた子供を、誰がどう迎えるのか。何と言うのか。
それを考える前に、桐谷は視線を神崎に戻した。
神崎の表情が、少し見える角度だった。
神崎は、静かに見ていた。
悲しんでいない。
動揺していない。蒼白でもない。患者を失った医師の顔ではなかった。
ただ、静かに見ていた。
その静けさが、これまで桐谷が見てきた神崎の「穏やかさ」とは違った。カウンセリングルームの穏やかさは、相手のために作られた穏やかさだった。意図があり、設計があり、目的があった。
だが今この場所で神崎が持っている静けさは、誰かのためのものではなかった。
誰も見ていない。
誰にも見せていない。
その静けさの中に、桐谷は何かを見た。
何かが完成した、という顔だった。
長い時間をかけて作り上げてきたものが、形になった時の顔。画家が最後の一筆を置いた後、キャンバスから一歩引いて、全体を眺める時の顔。
その「眺める」という動作が、今神崎がしていることだった。
桐谷の胸の中で、何かが激しく収縮した。
証拠ではない。
主観だ。桐谷玲司の目が、神崎恒一のその顔を、そう見た。それだけのことだ。
だがその「そう見た」という事実が、これまでのどんな証拠より、桐谷には重かった。
疑惑ではなくなった。
確信になった。
桐谷は神崎に近づいた。
神崎は桐谷に気づいた。表情が変わる。だが変わり方が、自然すぎた。驚きでも、動揺でもなく——来ることが分かっていた人間が、来た時の顔だった。
「……こういう形でお会いするとは」
神崎が先に言った。
「患者さんを失いました」
桐谷は何も言わない。
「残念です」
「残念、ですか」
「ええ」
神崎は桐谷を見た。その目に、これまでと違うものがあった。カウンセリングルームで向き合っていた時の目ではなく——もっと直接的な何かがあった。
「桐谷さん」
神崎が言った。
桐谷の全身が、一瞬だけ固まった。
「とお呼びしてよろしいですか」
神崎は続ける。穏やかな声だった。カウンセリングルームと同じ声だった。
「それとも——田村さんのままがよろしいですか」
沈黙が来た。
桐谷は神崎を見た。神崎は桐谷を見ていた。
どちらを選んでも、神崎の手の中にある。
桐谷さんを選べば、偽名で通院していたことを認めたことになる。田村さんのままにすれば、神崎が最初から知っていたことを認めたことになる。
どちらでも同じだった。
どちらを選んでも、この男の前では、すでに全部見えていた。
「……桐谷で構いません」
桐谷は言った。
「そうですか」
神崎は静かに頷いた。
「では桐谷さん。私は今日、患者を失いました。その事実だけがあります」
「あなたが彼女をここへ連れてきた」
桐谷の声が、少しだけ低くなった。
「私は彼女の話を聞いていました。それだけです」
「選ばせた」
「選択はその方のものです。私は——」
「整理を手伝っただけだ、と言うつもりですか」
神崎は少しだけ間を置いた。
「そうです」
「その整理の結果が、これですか」
神崎は答えなかった。
答えないことが、何かを意味していた。だがそれを証拠にする方法が、桐谷にはなかった。
「早川さんには、子供がいます」
桐谷は言った。
「知っています」
「今日、学校から帰ってくる」
「……はい」
その「はい」の一言が、神崎の中で何かに触れたのかどうか、桐谷には判断できなかった。表情は変わらなかった。声のトーンも変わらなかった。ただ、一拍の間が、少しだけ長かった。
「桐谷さん」
神崎が言う。
「何かを証明したいなら、正規の手続きを踏んでください。私はいつでも、必要な範囲で協力します」
それだけ言って、神崎は歩き出した。
足早でもなく、ゆっくりでもなく、いつもと同じ歩幅だった。
桐谷はその背中を見ていた。
止める言葉がなかった。止める方法がなかった。法的に、この男を今ここで止める根拠が、何もなかった。
三宅が近づいてきた。
「聞いてたか」
「ああ」
「名前、呼ばれたな」
「ああ」
「どうする」
桐谷は神崎の背中が遠ざかっていくのを見ていた。
「……今は、何もできない」
その言葉が、これまでで一番重かった
早川麻里が死んだ日から、四日が経っていた。
桐谷はその四日間、西田浩二という名前を手帳の端に書いたまま、何もできずにいた。
佐伯康の件を調べていた時、神崎のクリニックに通う別の患者として名前が浮かんだ人物だった。四十代、派遣社員、独居。それだけしか分からない。正式な捜査として動けない以上、個人情報に踏み込む手続きができない。名前と、おおまかな属性だけが手帳にある。
早川麻里が死んだ。
神崎のコントロールの結果として。
ならば西田浩二も、同じ方向へ向かっている可能性がある。
だが桐谷には、それを確認する方法がなかった。
正面から動けない。裏から動こうとしても、手がかりが薄すぎる。西田がどのマンションに住んでいるか、どの派遣会社に登録しているか、どういう生活を送っているか、何も分からない。
四日間、手帳の端の名前を見ながら、桐谷は考え続けた。
五日目の朝、三宅が声をかけてきた。
「西田の件、少し動いた」
桐谷は顔を上げた。
「どういうことだ」
「お前が気にしてるのは分かってた。だから俺なりに調べた」三宅は声を落とす。「正式なルートじゃない。知り合いに頼んだ。住所だけ分かった」
桐谷は三宅を見た。
「……なんで」
「なんでって言われても」三宅は肩をすくめる。「早川の件の後、お前の顔見てたら、分かるだろ」
桐谷は何も言えなかった。
三宅は小さく折りたたんだ紙を差し出した。桐谷はそれを受け取り、開く。住所が書いてあった。都内の、駅から少し離れた場所だった。
「行くのか」
三宅が聞く。
「ああ」
「一人でか」
「そうだ」
「……俺はついていかない方がいいか」
桐谷は少しだけ考えた。
「今回は一人の方がいい。刑事として行くんじゃないから」
三宅は頷いた。止めなかった。
「終わったら連絡しろ」
「分かった」
桐谷はコートを取り、立ち上がった。
手帳の端の名前を、もう一度見た。
西田 浩二。
行く理由を、桐谷は言語化しようとした。だがうまくいかなかった。
早川麻里を救えなかったから、という理由は正しいが、それだけではない。神崎を止めたいから、という理由も正しいが、それだけでもない。
ただ、行かなければならない気がした。
行かなければ、また誰かが死ぬ。
その確信だけがあった。
西田浩二のアパートは、古い住宅街の中にあった。
二階建て、外階段、洗濯物が干せる程度の狭いベランダ。新しくも古くもない、ありふれた建物だった。表札には「西田」とだけ書いてあった。
桐谷は一階の廊下を歩き、二〇三号室の前に立った。
ドアをノックする。
反応がない。
もう一度、少し強くノックする。
しばらくして、ドアの向こうで、物音がした。誰かが動いている気配。だがドアは開かない。
「西田さん」
桐谷は言った。
「……誰ですか」
くぐもった声が返ってきた。男の声だった。低く、疲れた声だった。
「桐谷と言います。警察の者です」
間があった。
「何の用ですか」
「少し、話を聞かせてください」
「……話すことは、ないです」
「神崎メンタルクリニックに通われていますよね」
長い沈黙があった。
それから、鍵が外れる音がした。ドアが少しだけ開く。チェーンがかかったままだった。隙間から、男の顔が見えた。
四十代前半くらい。頬がこけていた。目の下に濃い影がある。何日も、まともに眠れていない顔だった。
西田浩二だと、桐谷は確信した。
「……何を知ってるんですか」
「少し、中に入れてもらえませんか」
「なんで」
「立ち話でも構いません。ただ、今日ここに来たのは、逮捕しに来たわけでも、職務として来たわけでもない」
「じゃあ何しに来たんですか」
桐谷は少しだけ考えた。
「……あなたのことが心配だから来ました」
西田は桐谷を見た。チェーン越しに、じっと見た。
値踏みするような目ではなかった。確認している目だった。この人間が本当のことを言っているかどうかを、確認しようとしている目だった。
やがて、チェーンが外れる音がした。
ドアが開いた。
部屋の中は、暗かった。
カーテンが閉まっていた。昼間なのに、光が入っていない。空き缶が二つ、テーブルの上に置いてある。食事の形跡は少なかった。
西田は部屋の中央に立ったまま、桐谷を見ていた。
「座ってください」
桐谷が言うと、西田は床にへたり込むように座った。椅子ではなく、床に。桐谷も床に座った。テーブルを挟まない位置に。
「神崎先生のことを調べているんですか」
西田が聞く。
「……そうです」
「なんで」
「患者さんが、何人か亡くなっているから」
西田の顔が、少しだけ変わった。
「早川さんのことですか」
「知っていましたか」
「クリニックで、何度か会ったことがあって」西田は言う。「死んだって、ニュースで見ました」
「……そうですか」
「俺も」
西田は一度だけ目を閉じた。それから開けた。
「俺も、同じ方向に向かっていました」
桐谷は何も言わなかった。
「先生に会ってから、少しずつ、そういう気持ちになっていって」西田は続ける。「最初は違ったんです。楽になった気がして。話を聞いてもらえて。でも、いつの間にか——気がついたら、そっちの方が自然に思えるようになっていた」
「神崎が、そう思わせた」
「……先生が何かを言ったわけじゃないんです」西田は首を振る。「ただ、話をしているうちに、なんか、そっちでもいいんじゃないかって、自然に思えてきて」
桐谷は西田を見ていた。
「今は」
「今は……正直、まだそういう気持ちがあります」
「どのくらい強いですか」
「……今日、と思っていました。さっきまで」
部屋の中が静かだった。
カーテンの隙間から、細い光が一本入っている。その光が、西田の手の甲の上に落ちていた。
桐谷はその光を見ていた。
何か言わなければならない、と思った。だが何を言うべきか、分からなかった。神崎の論理を論理で否定しても、意味がない。感情に訴えても、届かないかもしれない。
だが、黙っていることもできなかった。
桐谷は口を開いた。
「近道するな」
西田が桐谷を見た。
「悩め、この世界で」
西田は何も言わない。
「近道したくなる気持ちは分かる。俺にも、分かる部分がある」桐谷は続ける。「でも近道した先には、何もない。悩んでいる間だけ、この世界にいられる」
「……そんな言い方」
「理屈じゃないです」
桐谷は言った。
「きれいな言葉じゃない。でも、俺が今言えることはそれだけだ」
西田はしばらく、桐谷を見ていた。
「あなたは」
「何ですか」
「悩んでいますか、この世界で」
桐谷は少しの間、考えた。
「……ずっと悩んでいます」
「何に」
「母親のことです。ずっと答えが出ない」
「答え、出ましたか」
「出ていません。今も出ていない」
西田は目を細めた。
「それでも生きるんですか」
「答えが出ないから、生きているのかもしれない」
その言葉が、桐谷自身にとっても、初めて口から出た言葉だった。準備していた言葉ではなかった。西田と向き合いながら、この瞬間に出てきた言葉だった。
西田はしばらく黙っていた。
カーテンの隙間の光が、ゆっくりと動いていた。
「……もう少し、考えてみます」
西田が言った。
小さな声だった。決意でも、約束でもなかった。ただ、もう少し、という言葉だった。
だが桐谷には、それで十分だった。
アパートを出ると、夕方になっていた。
空が低く、灰色だった。遠くに街灯が灯り始めている。
桐谷は少し歩いてから、公園のベンチに座った。
誰もいない公園だった。遊具が一つと、ベンチが二つ。子供の声はない。風が少しだけある。
座った瞬間、何かが来た。
泣いていた。
気づいたのは、頬が濡れていてからだった。あの時と同じだ、と思った。だが今回は違った。あの時は、なぜ泣いているか分からなかった。今回は、分かる。
早川麻里が死んだ。
翔太という名前の子供が、今日も母のいない家に帰る。
それが、桐谷には重かった。
だが同時に、笑いそうになった。
西田が「もう少し考える」と言った。あの言葉が、胸の中で動いている。救えた、という感触が、信じられないくらい鮮明だった。
泣きながら、笑いそうになっていた。
二つが同時にあった。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなかった。両方が本物だった。
早川を救えなかった。
西田を救えた。
その二つが、同じ胸の中に同時に存在していた。
感情の制御がきかなかった。泣こうとしているわけでも、笑おうとしているわけでもない。ただ、来るものが来ていた。
桐谷はベンチに座ったまま、前を見た。
遊具が一つ、薄暗い中に立っている。
母が死んで五年経った。その五年間、桐谷は他人の死の前に立ち続けた。泣けなかった。感情を出せなかった。それが仕事だと思っていた。
だが今日、西田の部屋で「近道するな、悩め、この世界で」と言った時、それは西田に向けた言葉であると同時に、自分自身に向けた言葉でもあった。
答えが出ないから、生きているのかもしれない。
その言葉が、今も胸の中にある。
泣きながら、笑いそうになりながら、桐谷はしばらくそこにいた。
整理しようとしなかった。整理できる種類のものではなかった。
ただ、来るものを来させていた。
風が吹いた。
冷たかった。
その冷たさが、今日は全部届いた。
三宅にメッセージを送った。
『西田、間に合った。』
返信はすぐに来た。
『そうか。』
それだけだった。
だがその二文字に、三宅のすべてがあった気がした。
桐谷はスマートフォンをポケットに入れ、もう一度空を見た。
灰色の空だった。星は見えない。遠くにビルの光がある。
神崎を法で裁く証拠は、まだない。
早川麻里は死んだ。それは変えられない。翔太という子供は、母のいない家で今夜を過ごす。その事実は、何があっても変わらない。
だが西田は生きている。
それも、事実だ。
神崎の計算の外で、桐谷というノイズが入ったことで、西田は今夜を生きている。たまたまだ。偶然だ。桐谷に何か特別な力があったわけではない。
ただ、間に合った。
それだけだった。
だが桐谷の中で、何かが固まっていた。
証拠がない。法的に動けない。組織としての後ろ盾もない。一人だ。
それでも、向かう。
神崎恒一に。
次のセッションへ、ではない。もっと直接的な形で。どういう形かは、まだ言葉になっていない。だが方向だけははっきりしていた。
あの男を、止める。
法で裁けないなら。
証拠が出ないなら。
別の方法で。
その「別の方法」が何かを、今夜の桐谷はまだ知らなかった。
だが翔太という子供の顔を思った時、その「別の方法」へ向かうことを、止める理由が見つからなかった。
桐谷はベンチから立ち上がった。
コートの前を合わせた。
歩き始めた。
公園を出て、街灯の灯る道へ出る。
人が歩いている。車が走っている。いつも通りの夜だ。
その中を、桐谷は歩いた。
早川麻里のことを思いながら。
西田浩二のことを思いながら。
翔太のことを思いながら。
そして、母のことを思いながら。
石川警部補の部屋は、いつも同じだった。
窓を背にした椅子。机の上に必要なものだけ。余分な装飾がない。感情を持ち込まない空間として、意図して作られているように見えた。
桐谷が入ると、石川はすでに座っていた。
「座れ」
短く言う。いつもと同じ言葉だった。
桐谷は向かいの椅子に座り、手帳を開いた。
「全部、話します」
石川は何も言わない。聞く準備ができている顔だった。
桐谷は順番に並べた。
藤原悠人と佐伯康、二件の死亡案件。どちらも神崎メンタルクリニックへの通院歴がある。どちらも死亡直前に神崎へ電話をかけている。藤原は三日前の夜九時過ぎ、通話時間四分。佐伯は二日前、七分。どちらも整いすぎた現場。どちらも絶望の臭いが薄い遺書。
早川麻里。転落死。通院歴あり。現場に神崎が来ていた。
神崎の帰国前後の空白期間。登録住所が母の死んだ県と同じ。
母の死の数ヶ月前、母がカウンセリングに通っていたという父の証言。
神崎がセッションの中で、桐谷が一度も話していない母の名前を口にした。
全部を並べると、それなりの量になった。
石川は黙って聞いていた。
桐谷が話し終えると、しばらく沈黙があった。
石川は机の上の書類を一度だけ見た。それから桐谷を見た。
「状況証拠にもなっていない」
「分かっています」
「令状は出ない」
「分かっています」
「正式な捜査は動かせない」
「分かっています」
桐谷は石川を見た。
「何かありますか」
石川は答えなかった。
視線が桐谷から外れない。この男の目は、いつも何かを追っている。言葉にしない分、目だけが動く。今日の目は、いつもより少しだけ何かを含んでいた。
桐谷はその目を読もうとした。
怒りではない。同情でもない。
何かを測っている目だった。桐谷が今どういう状態にあるかを、確認している目だった。
「以上ですか」
石川が聞く。
「以上です」
「分かった」
石川は書類に視線を落とした。話は終わった、という仕草だった。
桐谷は立ち上がりかけて、止まった。
「一つだけ聞いていいですか」
石川が顔を上げる。
「証拠が出れば、動けますか」
石川は答えなかった。
だが、答えなかった。
その沈黙の意味を、桐谷は受け取った。
部屋を出た。
廊下を歩きながら、桐谷は石川の沈黙を反芻していた。
証拠が出れば、動けますか。
答えなかった。
答えないことが、答えだった。
動ける。証拠さえあれば、動ける。石川はそう言いたかった。だが言えなかった。言ってしまえば、桐谷が何をするかを示唆したことになる。警察官として、それは言えない。
だから黙った。
桐谷はその沈黙を受け取り、一つのことを確認した。
証拠を出す必要がある。
法的な手続きで証拠を集めることは、もうできない。正式な捜査として動けない以上、令状も、強制的な情報開示も、組織の力も使えない。
だとしたら、残る方法は一つだった。
神崎自身から、何かを引き出す。
言葉でも、行動でも、あの男が自分の口から、あるいは自分の動きで、何かを示す瞬間を作る。
それは、危険な方法だった。
神崎は崩れない。完璧な防壁を持っている。言葉で追い詰めても、笑って受け流す。感情をぶつけても意味がない。
だが、一つだけ可能性がある。




